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"A WILD IDEA" by Jonathan Franklin

まもなく邦訳も出版されるようだが、伝説の自然保護活動家ダグラス・トンプキンスの生涯を綴った"A WILD IDEA"の原書を読了した。著者は、ジャーナリストでドキュメンタリー作家のジョナサン・フランクリンである。

以下、本書の展開をなぞりながら、日本にはあまり知られていないダグラス・トンプキンスという人物とその生涯が私たちに伝えるメッセージの意味を探ってみる。

●物語の概要

「私は間違った山に登っていたことに気が付いた」。

人生の前半にザ・ノース・フェイスとエスプリ・ド・コープという世界的企業を創り出したダグ・トンプキンスは、企業社会の山頂から見える景観に強い違和感を覚え始める。

見たかったのはこんな景色ではないはずだ。自分はこんな山頂を目指していたのではない。

世間の羨望と称賛を集めるCEOのタイトルを捨て、ダグはサンフランシスコの丘の上の豪邸から、南米パタゴニアの丸太小屋に移り住み、地球の管理人になった。

●冒険に生きる

幼いころから父親の操縦するセスナに乗って空から地球を眺めていた彼は、ひざを痛めてオリンピックのスキー選手になる夢を絶たれ、危険なロッククライミングに熱中し始める。山登りに夢中になって学校を休み、高校卒業を目前に退学処分になり、両親が周到に準備していたアイビーリーグの大学への進学の道を捨て、放浪の旅に出る。

世間を驚かすアイデアに長けた彼は、創業まもないサンフランシスコのザ・ノース・フェイスの店で派手なロックコンサートを開催し、世間の耳目を集める。ザ・ノース・フェイスは、一躍ヒッピーやカウンターカルチャーなど1960年代西海岸の文化の発信地となった。

その話題の店をわずか三年で手放し、彼は、南米パタゴニアのさいはて、フィッツ・ロイの山頂をめざして「愉快な仲間たち(ファンホッグ)」とフォードのライトバンを駆って6か月の冒険旅行に繰り出す。その時、最初の妻のスージーは次女サマーを出産したばかりだった。

悪天で氷の洞窟に30日間足止めされた後、ファンホッグたちはついにフィッツ・ロイの登頂に成功する。パタゴニアの創業者イヴォン・シュイナードとダグは、この旅行を通じて生涯の友人となる。サンフランシスコの空港では、生後六か月の次女を抱き、幼い長女の手を引いたスージーが帰国したダグを出迎えた。

●一つ目の登頂

帰国後、ダグは、妻の経営する小さな衣料品会社を手伝い始め、またたく間にその会社を大きく成長させる。エスプリ・ド・コープの自由で開放的なスタイルは、ベトナム戦争の傷心を抱えて新しい時代に向かうアメリカの若者たち、特に若い女性の心をしっかり捉えた。

「エスプリの十カ条」に込められたダグの先進的な経営思想は、後のシリコンバレーの経営者たちに引き継がれていく。オフィスの床は天然の木で、至るところに観葉植物が置かれ、自由で創造的な職場は周囲の自然と調和し、無料のランチや語学教室、テニスやバレーボール、キャンプやカヤックの体験旅行が催され、社屋の屋上には大きなトランポリンも設置されていた。チーム・エスプリの職場は、まるで大学のキャンパスのような雰囲気だった。

その一方、ダグは自分の美意識にとことんこだわった。社員の机の上のペン立てから、壁に掛けられた絵のほんのわずかの傾きまで、たとえどんなに小さなものでも、彼の美意識を損なうものは一切容赦しなかった。虚栄や贅沢を嫌い、旅先の宿は豪華なホテルよりも友人宅のソファを好み、社員の出張はファーストクラスを禁止した。照明のつけっぱなしやたばこの投げ捨ては犯罪行為とされた。

顔を合わせればテクノロジーの未来について口論していた隣人のスティーブ・ジョブズは、ダグの感性に刺激され、エスプリ社の日本人デザイナー八木保を起用し、エスプリのデザインブックを教科書にしてアップルの旗艦店を設計した。

自分の価値観に一切妥協しないダグの頑迷さは、労働争議による本社の焼き討ち事件や、創業メンバーの追放などの困難な出来事を引き起こすが、これらの事件を経て会社は大きく成長する。しかし、ダグのエネルギーは次第にエスプリという会社の枠に収まり切らなくなる。ミラノやロンドンの店舗に過大な投資をして取引銀行の不信を招き、スージーとの対立が経営陣を不安に陥れ、嫌気がさしたダグはエスプリから離れることを決意する。

ここまでが彼の前半生、ザ・ノース・フェイスとエスプリ・ド・コープという世界的企業を創り出し、企業社会という一つ目の山の頂点を極める道程である。

●二つ目の山の登頂

そして一つ目の山を下り、南米パタゴニアに居を移したダグは、二つ目の山への登頂を開始する。まだ人間の手が届いていない原初の土地を保護し、自然保護活動を展開するために、かつてない大規模な自然公園の創設に着手するのである。しかしその活動は、よそ者のアメリカ人に対する根深い不信感と政財界の支配エリートたちの利権との衝突によって激しい妨害工作に会い、彼は厳しい闘いを余儀なくされる。

サケの養殖業者や巨大な電力会社、それらの大企業に支えられた政治家たちとの気の遠くなる長い戦い。しかしダグは、次第に地元の人々や一般市民の支持と政界の理解者を獲得し始める。「ダムのないパタゴニア」という一大キャンペーンが巻き起こした自然保護の世論を盾に、ついに彼は戦いに勝利する。

パタゴニアへの移住から、支配エリートとの壮絶な闘い、そして五つの広大な自然公園を国立公園として寄贈するまでの二つ目の山の道程は、読者の感動を呼ばずにはおかない。

●二つ目の山の登頂を支えた愛、友情、協力

二つ目の山を登るダグを支えてくれたのは、再婚した妻のクリス、かつてのファンホッグの仲間たち、生涯の友人であるイヴォン・シュイナードとその妻マリンダだった。

クリスはパタゴニア社のCEOでイヴォン・シュイナードの片腕だった。ダグの熱心なプロポーズを受けて、クリスはCEOの職を辞し、行動を共にすることを決意する。戦闘的で激しい性格のダグと対照的に、クリスは、ダグが周囲とぶつかって対立した時にその対立を巧みに調整することができた。クリスの存在は、ダグが人々から理解され、受け入れられる上で重要な役割を果たした。昔の友人たちは、クリスと暮らし始めてからのダグの変化に驚き、口をそろえてクリスの存在の大きさを指摘した。彼女の愛情と人々の協力を引き出す卓越したリーダーシップがなかったら、ダグは決して二つ目の山を登り続けることはできなかっただろう。

イヴォン・シュイナードはパタゴニア社の成功で多忙な日々を送っていたが、遠く離れたカリフォルニアから経済的にも精神的にもクリスとダグの活動を支援し続けた。イヴォンは定期的にダグの元を訪れ、大自然の中で一日中ひと言も交わさず過ごしても、二人の心は深く通じ合っていた。

クリスに寄せるダグの信頼と二人の深い愛情、イヴォンとの固い絆、かつてともに働いたエスプリの仲間たちの支援、地元の人々との交流などの心温まる人間関係は、壮絶な自然保護の闘いとともに彼の後半生の物語を織り成す経糸となっている。

そして、つかの間の休息で訪れた湖で、カヤックを楽しむダグと旧友たちを襲った激しい嵐。誰も想像していなかったダグの突然の死。

事故の報せを聞いたクリスは、ダグの愛機ハスキーが停機する場所に一人で向かい、機体の下にもぐり込んで地面の土に激しく爪を突き立て、泣き叫ぶ。

ダグの死後、その遺志を継いだクリスのチームは、二年がかりでチリ政府と交渉を重ね、国立公園の寄贈と歴史的な環境保護協定に調印する。調印式の会場でスピーチをするクリス。その頭上を一羽のワシが旋回していた。クリスは空を見上げ、ダグがワシになって上空からこの記念すべき光景を眺めているに違いないと確信する。

それからさらに一年後、ダグの墓標のあるパタゴニア国立公園から、クリスのもとに一本の動画が届く。七頭のピューマがダグの墓石の周りに集まり、歩哨のように遠くの風景を眺めている映像だった。クリスは、野生のピューマはダグの墓参りのために山から降りてきたのだと思う。

果たしてピューマの目に映る景色は、ダグが一つ目の山を下りることを決めた時に見たいと思っていた景色と同じものだっただろうか。その答えは永遠に聞くことはできないが、この本を読み終えた時、読者がそれ以外の答えを見つけることは難しい。

●ダグ・トンプキンスとは何者だったのか

一つ目の山の上からダグが見たのは、小さな水槽の中で縄張り争いをする「デンプシー・フィッシュ」のような自分の姿だったのではないだろうか。

有名なボクサーの名を取ったデンプシー・フィッシュは、水槽の中で自分を大きく見せようと相手に対して横を向き、前後に動いて心理的な揺さぶりをかけ、少しずつスペースを支配していく。やがて強い方が水槽の大部分を支配するようになり、弱い方は小さな隅に行って動かなくなる。

CEO時代のダグはまさにデンプシー・フィッシュだった。しかし、幼少時から父の飛行機に乗って上空から地球を眺めていたダグは、小さな水槽で縄張り争いしている自分の姿に嫌気が差していたに違いない。

一つ目の山を登っている時、ダグは最初の妻のスージーにも、二人の娘にもほとんど関心を示さなかった。彼は自分だけを見ていた。感性にそぐわないものは、彼は徹底して拒絶した。時代の先を読み、他者を驚かせ、世間の耳目を集めることが楽しみだった。彼はより多く獲得すればより自由になると考えていた。しかし、華々しく成功し多くのものを手に入れながらも、幼児性と自己撞着で他者を排除し続けた彼は、孤独そのものだったに違いない。

しかし、南米に移住して、彼は自分が他者と自然によって生かされていることに気づく。自然の恵み、クリスの愛情、地元民との交流。自分のためにではなく、誰かのために。自分が死んだ後も未来に暮らす人々のために。人間が作り出したものではなく、人間に授けられたものである地球を守るために。他者とともに生きる生き方を知り、彼は大人になっていく。

広大な自然公園を無償で国に譲渡した彼の行動は、獲得し所有することを目指す資本主義とは対極をなすものだった。所有しないことによって豊かになるとは、何と豊かなことだろうか。

ダグは空から地球を見続けた。美意識の鋭いダグには、地球のバランスシートが歪んでいることが我慢できなかった。均衡ある美しいバランスシートを作らなければならない。そう思った彼は、エスプリのCEOから地球のCEOになったのである。

頑迷で傲慢で自分しか信じなかったダグラス・トンプキンスが、クリスや友人や仲間に支えられて変化していく。彼の信念が人々に理解され、共感され、大きな支持を勝ち得ていく。その人間ドラマは、壮大な自然保護の闘いととともに本書の経糸と横糸を形成している。

不慮の死を遂げたとはいえ、かつて敵対した者も含め、多くの人々の共感と感謝と称賛を得てパタゴニアの大自然の中で眠りにつくダグ・トンプキンスは、最高の人生を生きた安堵と満足を感じているに違いない。


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