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私のアコースティックストーリー/miwaさん×下北沢LOFTさんに憧れて

こんにちは。
昨日から新しくマガジンを始めました。
そちらでは私の核となる周辺のお話をしています。

この記事ではもう一つの核となる私が音楽に向き合うそのお話をしようと思います。

01.私が音楽に魅せられた理由

A.学生時代の苦い想い出

それは遡ること約10年前でしょうか。
当時、中学生の私は、好きな人がいました。
諸々、過程は割愛しますが、今では考えられないくらいの恥ずかしい告白の仕方をして奇跡的にOKをもらえました。
当時は、中学生の恋愛×障害のハードルということもあってそういうデートらしいデートなんぞは出来なかったわけです。
できることといえば、同級生に混じって、秘密めいた2人だけの会話をすることくらい。
そんな特別感が子供ながらに嬉しかったものです。

当時はmixiやらTwitterやらSNSがもっと盛んに裏の自分を出すことに
重きを置かれていた時です。
もちろん、双方のSNSは知っていたし、深入りしないのはあっても
それぞれ、見ていたというのもありました。

ある時、俗に言う倦怠期的なものがやってきて
(※中学生に倦怠期的なものはあるのか?というのは一旦置いておいて)
本当に私は必要とされているのかなと思っていた時期がありました。
自分に自信がないまま進んでいた関係やお相手の方が
そもそも精神的には私より遥かに自立していたというのもあって
私自身、その時の関係に不安を覚えていました。

ある時、いつも欠かさず祝ってくれていた誕生日。
なぜだかその日は祝ってもらえなかった。
彼女らしくないなとその子のSNSを見に行ったら
「そういえば今日はあいつの誕生日だった。忘れてたわww」というようなことが書かれていてその時、自信をなくしていた自分に
何かが崩れ落ちるようなショックを受けました。

結局は、自分は必要とされていないんだなと思いながら
ちょっと傷心っぽくなっていたところにたまたま
ネットサーフィンをしてたどり着いた楽曲が
miwaさんの「片想い」という曲でした。

今、振り返ってもすごく相手に依存していたなと思うし、
気持ち悪いなと思うんだけど。
むしろ、今でも依存したらまずいなと思うことはあるのでしないように注意してます。

この曲がちょうど、心の琴線に触れたとでも言いましょうか。
私の記憶する限りでは初めて
胸がきゅうっとなるようなそんな感覚に陥りました。
その時に自分の気持ちをストレートに表現できて寄り添える
そんなアーティストがいるんだと思いました。衝撃の出来事でした。

B.そこからどんどんmiwaさんにのめりこむ

そこからはもう、感情に突き動かされるまま。
miwaさんのアルバムの「acoguissimo」だったりを買いました。
上記で出てきた「片想い」と「acoguissimo」のセット買いをしていた記憶があります。
デビューシングルの「don't cry anymore」かっこいいなと思いながら。
時期にして2011年後半。

C.感情に動かされるまま表現していきたいという気持ちの芽生え

いろいろとやっぱり曲に触れるとmiwaさんの飾らない言葉が
なんとも心地よかった。
まだ、大人ではない自分は

自分にも何か伝えられること表現できることはあるのではないか。

あまりにも飛躍し過ぎた夢を持ち始めたのです。

02.現実との乖離

とはいえ、これまで音楽というものにベクトルは向いておらず。
今のように音楽をしていこうなんてこれっぽっちも考えていませんでした。
当時といえばパソコンにはまり、意味もなくブログを書き続け、
将来はパソコンを中心とした仕事をするんだろうなと思っておりました。
多分、自分語りが長いのは過去のブログによって培われたものと思います。

そんなこともあり、高校1年の文理選択は
理系を選択しました。
パソコンやるならプログラマーとかじゃないの?っていうような漠然とした
ゴール。
特にやりたいわけではなく、

車椅子の私ができるのってこれくらいだよね

と、半ばパソコンを使った仕事をするということでしか
将来の自分を想像できていなかったわけです。
今考えると、あまり主体性の無いどこか悪い意味で流されるように
いきていた気がします。

こんな私でさえ、高校1年の前半までは特にやりたいこともなく
生きていたわけです。
※いや、漠然とした夢はあったけど、夢でしかなかった。
声優さんとか声を使ったお仕事。
あとはただパソコンをしているのが楽しかっただけ。

先ほど記したmiwaさんとの出逢い〜音楽がしたいなと
思ったのは文理選択後。
進路としては真逆を行っていたのです。

03.わがままを突き通した高校時代

そことの現実とのギャップにはかなり直面しました。
そして何より。

車椅子の人間がどうやって音楽やるの?

ということが疑問として生まれてくるわけです。
細かいことは忘れてしまったけど
当時はどうしてもやりたかった。ただ知識もないし、進み方もわからなくて
それこそ、どうやったら音楽が作れるのかとかを調べて
dominoという音楽制作ソフトとかで
音楽とはいえないほどの音楽を作っていたものです。

それはDTMとの出会いでした。
(※DESKTOP MUSICの略、パソコンでの音楽制作の意味)

色々調べていくうちに
高校2年になると進路のことを考える時期になりました。
その時、音楽のことにしか目がいってなかった私は
専門学校という道も調べていた。ただ、

ほぼ、知識0/車椅子の人間を受け入れてくれるとこってどこ?

という状態。
有名どころの大手も調べていましたが、0から入るのは怖かった
それと同時に車椅子という特性上、立地条件等にも左右されていました。

夢見たものをこんなにも早く諦めなければいけないのか

何も当時の私にはできることはなかったので
両親に訴えることしかできませんでした。
両親は「ちゃんと四年制大学通いなさい!並行してでも音楽はできるでしょ。」というタイプ。
今から考えれば当たり前ですよね。
しっかり勉強させて車椅子の私を自立させなきゃいけないんだから。

しかし、当時は就職氷河期と毎年のように言われていた時代。
やりたいこともなく、ただ大学を卒業しても
希望のところには就けない人たちがいると知っていたので
それだったら今やりたいと思うことをしたいと両親とは言い合いにもなりました。

しばらく経って母が見かねたんでしょうね。
専門学校を見つけてくれました。
それが結果、卒業までする専門学校になるわけですが
その時に母が見つけた学校は
「0からでも安心。しっかり教えます!」的なのが大きく書いてありました。

とりあえずそこからオープンキャンパスなどに行って
夢を膨らませ続けていたわけです。
その時に聞いた1つ上の先輩のオープンキャンパスライブの
BOAさんのメリクリのカバーは衝撃で今でも覚えている。

そこからの高校時代は
現実との乖離との戦いの日々でした。
時には職員室の脇のブラインドのある部屋とかで
担任と二者面談したり。ずっと平行線でしたけどね・・・

04.現実を突きつけられた専門学校時代

いろいろあって、無事専門学校には入学しました。
その準備のために楽器等も揃えたけど車椅子で弾けるものとか
持ち運びとかいろいろ考えてエレキギターになった。
介助者が操作するための後ろのとってに引っ掛けるようにして
持って行った。場合によっては学校の楽器置き場も特別に借りたりした。
(※原則は持ち帰りが基本)

学校の授業は理論も1から教えてもらっていたし、
勉強にはついて行けていた。
ただ、実技がとにかくまあ、最悪で。
少人数制のクラスだったので正直、実技でいうならば
成績は最下位だったと思います。
ただ、その分、放課後に作った音楽とかを先生に聞かせに行った時期もあった。
しかし、表面的にしか捕らえられていなかったので
結果(音楽的に)何がしたいの?ということもしばしば。

今から考えれば何もしてこなかったから当たり前だけど

才能がない

ということを突きつけられた時期でした。
卒業制作は2連連続で出来なくて泣いた笑
自分の能力のなさにそれこそ、絶望した。

専門学校時代を経験して音楽を楽しむという意識はどこか無くなっていた。
ただ、何も考えずに歌っていることは好きだった。

05.音楽を諦めきれなかった社会人

卒業後は、普通に一般企業に就職した。
社会人5年目となった今でもそこでお世話になっている。
専門学校卒業後は、あれだけ音楽が目の前にあったのに
それが一気になくなった。

音楽という漠然としたものにすがりつくため、
今でもお世話になっているスクールへ入会した。
皮肉めいているかもしれないと思ったのは
スクールに入っての初レッスンの日がたまたま、中学時代の彼女の誕生日だった。

あの時、傷心してなければ?
あの時、ネットサーフィンしてなければ?
あの時、「片想い」という曲に出会っていなければ?
あの時、miwaさんに出会ってなければ?
あの時、音楽をしていなければ?
あの時専門学校に入っていなければ?

選択肢をどこか一つでも別の方へ進んでいたら
今の私はいなかった。
だからこそ、今の選択を私は後悔していない。

06.下北沢LOFTさんへの憧れ

スクールである程度、歌うようになってライブハウスへの憧れも次第につよくなっていった。
それは今、お世話になっているスクールがライブハウスでライブをするという環境があったからかもしれない。

音楽への思いが強くなっていった私はその時、すでに
miwaさんのルーツを知っていた。
足繁く通っていたライブハウスは下北沢LOFT
私もエレキギターからミニのエレアコに変わっていた。
アコースティックギター。私が本来やりたかった形である。

正直なところ、スクールのライブでは物足りなくなっていた時。
音楽仲間と飲みの席を設けた時があった。
本当に居酒屋で、お酒が呑めないのでジンジャーエールを片手に笑

今後どうしていきたいの?って話をして
下北沢LOFTでライブがしたい!

と、当時の自分にとってはあまりにも無謀なことを言ったのである。
そもそもライブハウス自体、車椅子には障壁のある場所がほとんど。
ましてやお客さんが集められない。
そんな卵とも言えない状態の人間が、ライブハウスでライブをするなんて
その時はただの憧れでしかなった。

miwaさんのルーツを少しでも感じたい。その一心だった。。。

07.憧れから現実へ

そこから私は、下見をしたりした。
自分たちでライブを作り上げるというものそのものが初めてだった。
長沢店長にお伝えすると優しく包むように接してくださった。
何よりも車椅子の私をおんぶで抱えて介助してくださった。
車椅子や荷物は仲間がサポートしてくれた。
その優しさに触れて、ライブはここでやりたいとさらに強く思ったのである。
友人を集めて、2017.11.11 初めて自分たちで作ったライブをした。
もちろん、無名だし、力及ばずなところしかなかったが、
このステージに立てたのが嬉しかった。



ぎこちなさすぎてそもそもマイクの位置がずれまくったりとかね笑
残念なことに映像が全て横に置いてあった車椅子にピントがあってしまって
虚しくなったのを覚えている。

2回目は2019.11.17
仲間が主催したライブで、下北沢LOFTさんにお世話になりました。

頻繁にライブができているわけではないけれど
思い入れのある場所であり、私の音楽の歩みの中では大切なシーンであることは間違い無いのです。

08.そんな過去を踏まえてのライブ配信の感想

そんな中、miwaさんが時を経て下北沢LOFTでライブをすることが発表されて昨日見ていた。
もちろん、長らくやってこられたその音に圧倒されたのだけど
少年の時の自分がざわついた。ワクワクしていた。
音楽を始めたきっかけの人が
下北沢LOFTで歌っている。という現実が、
憧れから一種の思い出リンクのようなものに代わり、
とても感慨深いものがあったし、新たに指針のようなものをもらえた気がした。
私がまだ形にできていないものやしてこなかったもの。たくさんある。
過去を良い意味で背負ってそれでまた前を向ける。
私も頑張ろう。。。

追いつくことは到底無理だし。そんなこと思ってすらいないけど
私は私なりの歌を見つけた時に
いつか、この道を進んでよかったと改めて思える人になりたい。

私のアコースティックストーリーはまだ始まったばかり。

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