見出し画像

冬の朝焼けと餃子ぐつ。

触れる風が、ずいぶん冷たくなった。
吐く息の白さに、子どもたちはもう騒がない。
いつのまにか関東にも、寒さが胡坐をかいたみたいだ。


冬の朝焼けが好きだ。
薄桃色と、赤っぽいオレンジが白い雲に溶けていく。


たとえば誰かが隣にいたとして、彼(彼女?)は同じ色を見ているのだろうか。
そんなことを、今朝ふと思った。


薄桃色を見せずに薄桃色を説明することは難しい。

そして目を交換することはできないから、彼にとっての赤が、彼女にとっての赤と同義であることは確認のしようがない。

しかし私たちは、当たり前に「色」というものを共有している。

人間は概念によって物事を認知しているから、
様々なものに言葉をつけて、”概念化”して共有し、通じ合おうとしているのだ。


ここで疑問が浮かぶ。
と、いうことは。
逆説的だが、概念化できていないものは認知ができない。

だとすると、我々はどれくらい美しさを共有できているのだろう。

薄桃色の空がキレイだと、その”キレイ”に内包される意味を、隣の彼(彼女)とどこまで分かち合えているのだろう。

別に共有しなくても良いという意見もあるが、一流の芸術というのは、なにか普遍的な美しさを巻き取っているから一流なのだ。

つまり、人間が本能的に共有できる美しさみたいなものを、細部にわたってなんらかの形で表現しているから、結果としてその作品は人の心に届くのだ。

だとするなら、「美しさを第三者と共有する」というテーゼについて、忙しい中でもせめて朝の散歩くらいの時間には、我々は想いを馳せる必要があると思う。
神妙な巫女みたいに。



さて。
美しさを第三者と共有するためには、大前提として美しさに気がつく力がなくてはならない。これは、審美眼と言い換えることもできる。

先に、人間が物事を認知するには、概念が必要だという話をした。

つまり美しさに対する概念が緻密であればあるほど審美眼は洗練されているし、
雑であればあるほど、網目の荒いフルイみたいに、大事なものがボロボロとこぼれていく。

ちなみに余談だが、この審美眼はある程度外から測ることができる。


例えば、服装。
シワが目立ったり、襟元にフケがついていたり、靴が汚れていたりと、お世辞にも清潔とは言いづらい身なりをしていると、その人の審美眼が優れているとは言いがたい。

そういうところにも気を配らない小さい人間なのだなと。少なくとも、そう判断する人種がいる、ということだ。

ヨーロッパには相手の持ち物で人柄を判断する文化がある。
これは、地域の歴史的に、長く続いた戦争によって、瞬時に敵味方かを見極めなければならない環境が、作り出したと言われている。

西洋人と目があった時、ニッコリ微笑まれた経験はないだろうか。
たいてい日本人は「おおさすが外人、フレンドリーだな」と思うくらいだが、彼らはその意味ではやっていない。
「敵意はありませんよ、貴方はどうですか?」の微笑みなのだ。

だからそこで恥ずかしがって、パッと目を逸らそうものなら「む、お主くせ者??」とあらぬ誤解を生む事になる。

同じように持っている小物や身につけている服装でも判断される。
それらがよく手入れされているのであれば、他人に対しても丁寧に接する人だと思われるが、逆も然りなのだ。



ひと昔前の営業業界では、どれだけ餃子履になっているかがひとつの勲章だった時がある。

要は歩き潰して履き潰して営業をかけた証、というわけだが、本当にやめたほうがいい。

もし服装とヨーロッパの歴史のつながりを知っている人がその靴を履いた営業マンを見たら、きっとこう言うだろう。
「あなたからは何も買わない」と。

別に犯罪ではないから、咎めもしないし通報したりするわけでもない。
けれど、そういう見方をされる場合があることは、心に留めておいたほうがいい。


さすがに今はヨーロッパも昔より平和になったので、服装が雑だからといってキバを向けられるわけではないが、その判断基準は文化といて今でも残っている。

審美眼がその人の身なりに現れるというのは、その発展である。外見は心を表すと、一定の先人たちは考えていたのだ。


だからかの夢をかなえるゾウさんも言っているけれど、とりあえず、靴は磨いたほうがいい。
せめて1週間に一回、1時間しっかり。
やってみると心が洗われるのがわかると思う。



で。
話を戻そう。

美しさを第三者と共有するための、審美眼を身につける。そのためには概念を緻密にすることが必要だ。

ここで、概念とはなにからできているのだろうということについて考えてみたい。
ひとつの側面として、言葉で表されている、という部分がある。

例えばさっきの、人の服装からその人の審美眼をみることができる、という話もひとつのフィルターである。
言葉で表現することで、概念を伝えているのだ。

では、言葉について考えることで、審美眼の洗練のための手がかりを、見つけることができるのではないか。深掘ってみたいと思う。




言葉とは何か。

そもそも言葉というのは、”言葉で表せないもの”を表そうとするものだ。

冬の朝焼け空のキレイさをどう伝えようか?

薄桃色で、柔らかな感じで、ピンとした空気感があって…と、程度の差こそあれ何かしらの情報を、言葉として提示して、
「ね、だからキレイなんですよ」とまとめると思う。

しかし先にも言ったけれど、薄桃色と表したとして、隣の彼(彼女)と全く同じ薄桃色を共有しているとは限らない。


言葉とは、その真意、つまり言葉にされている時点で、もうすでに”近似”なのだ。

近似というのは、ジャムおじさんから帽子と髭と髪の毛をとったらアンパンマンになるみたいに、
とてもよく似ているが本質(キャラ)は同じではないこと。

子どもにジャムおじさんを描いて、と言われたら、アンパンマンに帽子と髭と髪の毛をつけてあげれば大体それっぽくなる。

そんな風に、近似とは細部を無視して対象を単純化する行為を言う。

つまり言葉というのは、表現したい本質というのがあって、ただそのままでは共有できないので
言葉という形に切り取って固定する行為である。

そうすることで、近似的にはなってしまうのだけど、
共有しやすく、再現しやすい形に直しているというのが言葉の一つの本質である。

アンパンマンとジャムおじさんは、構造こそ似ているが必ずしも同じではないのだ。

色も違うし、眉毛も違う。でもジャムおじさんを描きたい人に説明するときは、アンパンマンを引き合いにして言葉にした方がやりやすいだろう。




この構造を踏まえると、言葉で共有するというのは、ある種分かった気になりやすい。

世の中に成功法則を書いた記事や著書は五万とあるが、多くの読者が成功できていないのは、その言葉の真髄を掴めていないことがよく原因としてある。

靴を磨け、とガネーシャに言われても、その背景を理解していないから重要度がわからず、形だけ真似てみて三日坊主で終わるのだ。


言葉ひとつ。されどひとつ。
それをどれだけ解像度深く受け取れているか?
その深さによって、
人生に活かせる効果性も変わってくるし、
応用の範囲も変わる。

空が薄桃色でキレイだね、と言った彼女の言葉には、どんな意味が含まれているのか。

彼女の言う”薄桃色”とは、どういう概念なのか。
それは実際に見えている色味もそうだが、薄桃色という言葉を聞いて思い出す記憶もあるかもしれない。


例えば彼女が小さい頃、おばあちゃん家で祖母に桃を切ってもらったことがあるとする。それがとても美味しくて、おばあちゃんと笑い合った記憶が、薄桃色の空を見ると思い出されるのだ。
つまりもしかしたら、キレイだね、と言う背景には、薄桃色の空をそのまま指しているのではなく、おばあちゃんと過ごした温かなひと時を思い出しているのかもしれない。


審美眼を磨くためには言葉の真髄、深さを見ることが肝要だ。

それは理解の深さが多様性を生み、美しさの共有の幅を広げるから。

そこまでする必要があるのかと言われれば、全然そんなことはないけれど
神は細部に宿るなら、どこまでも妥協なく、追求していく態度こそ「道」だと思う。


気がつけば気がつくほど、
世界はうつくしいと。