内向的な人の喧嘩作法。

内向的、外向的、という言葉がある。

一般的な定義だと、人と関わるのが好きな人は外向的、そうでない人は内向的、になると思われるのだが、ちょっと違うのかなあ、という気がしたので書いてみる。

というのも、(今月ん十回目の)夫婦喧嘩をしたのだが、そのときに、私は誰かと面と向かっている時に − たとえそれが心から愛する人であっても − 自分の真の言葉が出てこない、と感じたからなのだ。ごはんを食べながら話をしているときでも、誰かを交えて楽しくだべっているときでも、常に、少しだけ”フリ”をしている感覚がいつもあって。顔をつ付きあわせていると言葉が出てこないので、重いメンヘラ彼女よろしく夫に弁明の手紙を書くことにしたのだけれども、自分だけでこうやって、真っ白い紙(実際はスクリーンだけども)に向かって、言葉を綴っているときだけが、真に”自分”の言葉を発している、と感じることができることに気がついたのだ。

そういう人のことを内向的というんじゃないかなあ。

外向的な人っていうのは、多分なんだけど人と(複数でもマンツーマンでも)話しているときに、又は人に囲まれて時間を費やしている時に、真の”自分”と公的な姿としての自分の間に、乖離がない人なんではないかと。私は初対面の人と話すのは得意で、人と話しているときにどうも活き活きとしている印象をを与えるらしいが、ああしているときの自分の姿に一片の偽りもない、というとそれこそ嘘になってしまうのだ。たった一人で、自分の内に向かっているときにだけ、真の自分の声が出てくるし、その姿には偽りは欠片もないのだ。この違いは、自分にしか判断のできないことで、社会的に外から見える得手不得手は、まったく関係ないのかもしれないな、などど思った次第だ。

そして、私が夫へ送った、長々とした重い三島由紀夫風の弁明の手紙を読んで、夫がこれまた長ったるしくて重い西尾維新風の返事を寄越してきた。イラつく。とてもイラつく。ブルータスよ、お前もか!?

さて、そろそろ仲直りしないと、夕飯の時間だ。

※書いてみて気がついたのだが、ばーむろーるさんが、先日”自分で自分に貼ったラベルを剥がそう事件”というテーマで面白いことを書いてらっしゃったので、きっと潜在意識下でそのテーマについて考えていたのかも…。みなさん、ばーむろーるさんの爆笑のエッセイを読むんだ!(私に言われなくてもry)


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