学校の存在の有無は、人間の幸福の条件となりうるか?--脱学校とは[4]--『脱学校的人間』第七章

人は一般に、「社会をよいものにするために、悪い社会を変えようとする」であろう。社会をよいものにすることが、人が幸福に生きることの条件であり、またそのように考える限りで、人はあるいはそれを「自分自身の人生の目的とする」だろう。「この目的が達成されたあかつきには、自分自身もまた幸福になれるのだ」と、彼は日夜その「条件を満たすため」に奔走することであろう。
 しかし、はたして本当に「人々が不幸なのは、現

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イリッチの脱学校論が単なる教育論に落とし込まれていることの不幸と、彼自身の引き起こしている脱学校への認識的な誤謬。--脱学校とは[3]--『脱学校的人間』第七章

「…単に制度だけでなく社会のエートスをも「脱学校化」(deschooled)しなければならない…」(※1)とイリッチは言っているが、一方では、「…脱学校化は、教授と学習の世俗化でなければならない…」(※2)とし、また、「…最も広い意味において学校を廃止することを求めることと、それに関連して教育に対する自由を保証すること…」(※3)が必要なのだ、とも言っている。
 結局、イリッチは一体何をしようとし

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教育の相対的価値=valueと本来的価値=worthをめぐる、対立・混同・共依存。--脱学校とは[2]--『脱学校的人間』第七章

学校による一元的な価値の制度化を批判するイリッチの、その教育をめぐる「価値観」について、山本哲士が次のように概説している。
「…「学校化への分水嶺設定(Alternatives to schooling)」と題する『サタディ・レビュー』誌での論文が、イリイチの学校化論の中でもっとも簡明にまとまったものです。そこでイリイチは「影のカリキュラム」の役割を次のように示しています。
(一)学校を通してのみ

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脱学校への一般的な期待は、「学校の代わり」に対する一般的な欲求にすぎない。--脱学校とは[1]--『脱学校的人間』第七章

「脱学校」とは、一体何のことだろうか?
 「脱学校」とは、たとえばただ単に「学校なんかなくなってしまえばいい」などというような、マヌケで安直な話ではない。むしろそういった「学校なんて、なくなってしまえばいいのに」という「期待」の裏には、「学校とは違うものがあったらいいのに、という期待」が、あるいは、「学校とは違うところに、学校のようなことをやらせることができたらいいのに、という期待」が、隠されてさ

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「明日になれば」という期待を胸に、人々は空虚な器を抱え彷徨う。--人間の学校化について[4]--『脱学校的人間』第六章

「…現代は当て込みの時代であって、真価の承認さえが前払いを要求されるのである…」(※1)とキルケゴールが言ったそのおよそ100年後、「なお今だ当て込みの時代であった現代」を、カミユは次のように描写している。
「…ぼくらは未来を当てにして生きている、「明日」とか、「あとで」とか、「あんたに地位ができたら」とか、「歳をとればお前にも解るさ」とか言いながら。…」(※2)
「…日常的人間はさまざまな目的を

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期待していたような自分になれなかった者にとって、自分自身は負債であるのにすぎない。--人間の学校化について[3]--『脱学校的人間』第六章

「…期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する…」(※1)ものであり、また、「…自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである…」(※2)とイリッチは言う。「計画され統制された結果」とはつまり、「予測可能な過程にもとづく結果」すなわち、「そうなることがわかりきった結果」ということであり、それを「自分の権利として要求することが

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「能力」に意味づけられた労働力の価値は、労働者自身に内面化される。--労働の学校化について[22]--『脱学校的人間』第五章

買われない労働力の買われない理由はあくまでも、その労働力がその他の労働力と比べて高くつくからという、「相対的な理由」としてあるはずなのだが、それが、「その労働力には能力がないから」という理由に還元されると、あたかもそれが「その労働力自身の内在的な理由」であるように転化されることになる。相対的な理由の、相対化の対象から切り離されて、まるで「それ自身の理由として自立している」かのように見なされることに

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信用の体系としての教育、商品としての教育。--労働の学校化について[17]--『脱学校的人間』第五章

教育もまた、「信用の体系」として成り立っているものだと言えよう。
 そもそも「…「教育」とは、本来的に商品となる性質のものである…」(※1)と山本哲士は言っている。そのような「教育商品」とは、ただ単にその「教育の内容」において、「その教育を受ける者にとって有用なものである」ということばかりではなく、その教育を受ける者の、「その教育を受けた結果」が、その教育を受ける事前において予め、将来的に有用な利

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社会的人間の生産装置としての学校、その機能的な側面。--社会の学校化について[6]--『脱学校的人間』第四章

ここであらためて、「社会的人間の生産装置」である学校の、その機能的な側面を考えてみよう。
 アルチュセールは次のように言っている。
「…われわれの考えによれば、かつての支配的な〈国家のイデオロギー装置〉に対する激しい政治的イデオロギー的階級闘争の結果として、成熟した資本主義的構成体において支配的な地位を占めるに至った〈国家のイデオロギー装置〉は、学校的イデオロギー装置なのである。…」(※1)
「…

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改革的な教育者も、教育を前提とする限り学校的な教育を踏襲する。--社会の学校化について[5]--『脱学校的人間』第四章

イリッチは、「改革的な教育者たち」にしたところで、結局のところ、教育を前提としている限りにおいては、彼らが対抗していると自分たち自身で考えているところの、「学校教育の伝統的なイデオロギー」を支持し、それを踏襲していることになるのだ、と告発している(※1)。そして、「…(…既存の学校に対する…)教育者の批判は、何がどのように教えられるべきかというレベルにとどまって…」(※2)しまわざるをえないのは、

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