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第16回 君、音、朝方、etc 【私的小説】

出会う筈がなかった、
なんてことはない
全てが詭弁に思える夜でも

 響一は懐古するようだった。

「一時期、彼と一緒に過ごした。現実に即して言えば、彼は僕に様々なことを教えてくれた。人生を生きるということを、社会に出ていく足がかりとなることを。彼は僕の私的な家庭教師だった。
 高校時代、予備校に通ったけど成績にはすぐに表れなかった。個人指導の担当の教員には『君もっとできるはずだけどね』と言われた。ある分野ではそれなりの点数を取るけど、他についてはからっきし駄目だった」

「ある時、面談があって、僕は端的に言った。『興味がどうしても持てません』と。勉強全般についてそれが必要なことは分かるけど、どうして必要かは分からないと。教員は僕の話を静かに聞いていた。
 そして彼は言った。『時間はあるか?人の選り好みは激しい方か?』と。僕は答えた。僕には問題はありませんと。そう言うと、少し楽になった。何一つ自分には問題がないと思えたから。その思いが一時的なものであったとしても、」
 彼はグラスを口に運ぶ。

「その教員は大学時代の友人を僕に紹介してくれた。まず、指定の喫茶店に行くことを指示された。いくらか遠い場所に店はあった。僕は従った。時間ならいくらでもあったから、」
 響一は息を吐いた。
「僕もそば茶飲もうかな、まだあった?」
「多分、もう少ししかありません」 日常のように私は言う。
「そうか、雪さんはどう?」
 私は無言で首を横に振る。

「もう終わるな、ちょっとこの曲聞こうか、」
 飲み物はいいの、という声を私は飲み込む。
「コールドプレイとアヴィーチーがコラボしたんだ」
 曲が終わると、彼は口を開いた。
「悪くないよね。な?」
「はい」と私は言う。
 悪くないどころか、どこか私のための歌に思える。

「もう帰ります」と私は言う。
「遅くなってしまってごめん」
 言葉を私はそのまま受け取る。
「家居るより、いいです」
 彼は言う。「今度は、ある?」
「もう終わりですか」と私は問う。
「長くはないけど、まだ続く。終わりは僕には見えない」

 彼は私に訊ねる。
「君が知っていることも知りたい。構わない?」
「私の知っていることは多くはないです」
「まずまず知っている、と全く知らないの中間?」 彼は神妙な声だった。

「全て知っていると全く知らないの間です」
 意味も知らず、言葉を告げる。

 帰り道、足を伸ばし少しベンチで座る。隣には誰もいないことを確かめる。響一の話は、誰にも話せないことだったんだろうか。
 話さなかったことは、やがて消えてしまうのだろうかとも思う。言わなかった言葉が消えていくのなら、そのこと自体に私は自由を感じる。

 何かを言わないことで、私は惑わずに済むと思う。自分の裡で物事を処理し、何かに勝利したように思う。けど、生きているとそれだけでは済まないことも知っている。

 連れ立って歩く人がいる。皆、同じ服を着ている。
 私は帰路に就く。

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