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中世ヨーロッパにおける騎兵の優越

※本稿は『十四世紀の歩兵革命の記事と合わせて読むことを推奨する。

 中世ヨーロッパは、騎兵が優越的な立場を築いていた時代として知られている。この「騎兵の優越」の概念の中で、戦争の主役は馬に乗り騎槍を水平に構えて突進する騎兵である。そしてその認識は、中世末期から近世初頭にかけて強力な投射兵器が戦場に現れると「騎兵の優越」が失われ、歩兵と砲兵が力を発揮する新時代が到来したという、不正確な理解へとつながる。
 もちろん実際の展開は、そのような単純なものではなかった。ここでは中世の騎兵が一般に思われているほどに圧倒的な存在ではなかったことを示し、その文脈の中で再定義された中世ヨーロッパにおける「騎兵の優越」を明確にする。

「騎兵の優越」の論点

 中世ヨーロッパにおける「騎兵の優越」には大きな主題が四つ存在する。一つは時期的な議論で、いつから始まったのかという問題である。次の二つは表裏の関係にあるが別個に議論されることが多い能力的なもので、どうして歩兵に代わって騎兵が戦場で優越的な地位を得ることができたのかという問いと、どうして中世の終わりから歩兵が復興を始めたのかという問いである。そして最後の、四つ目の主題は、常に前三つの内に横たわりつづける、そもそも中世ヨーロッパを騎兵が優越していた時代と描くことは正しいのか、という根源的な問題である。本項ではまず、議論の前提となる共通理解のために中世における騎兵と歩兵の区別を定義する。次いで前三つの主題を概説したあと、最後の問いかけについて取り扱うことにする。

騎兵と歩兵の定義

 まず、中世の騎兵についての問題を取り扱うにあたり、この時代における騎兵と歩兵の定義に立ち返らなければならない。本論では、「騎兵の優越」を論じるが、これは戦場、特に野戦における騎兵の戦闘能力が歩兵に対して基本的に優っている状態を指すものである。しかし騎兵が何を意味する用語であり、歩兵がどのような兵士なのかを明確にしないかぎり、何が何に対して如何に優れているのかが曖昧になってしまうだろう。これは無視できるものではない。なぜならば、おそらく十九世紀から二十世紀初頭にかけての議論が錯綜したのは、この定義が曖昧であったことに原因の一端があったと思われるからである。

 そこでここでは騎兵と歩兵をステファン・モリロの考えに従い、戦術的な役割に沿って定義する[1]。すなわち騎兵とは戦場において馬に乗って戦う兵士である。一方で歩兵は戦場において徒歩で戦う兵士である。この定義では戦略的移動手段としての馬と、戦場で武器として活用される馬は明確に区別される。つまり馬に乗って戦場まで行き、徒歩で戦った騎士は歩兵と定義されることになる。要するに騎士と呼ばれる戦士階級の兵士は、時として騎兵であり、時として歩兵となる[2]。以下の論考においては、この定義に従って騎兵と歩兵の用語をもちいることとする。

「騎兵の優越」はいつ頃から?

 ヨーロッパの戦場において騎兵は、いつごろから優越的地位を占めることになったのだろうか? 実のところこの問題は、これ単体だけで答えの出るものではなく、能力的問題を明らかにしなければならないものであった。ここでは十九世紀後半からの議論の流れを明らかにして、なぜ能力的問題に答えを出さねばならないのかを明確にする。

オーマンの説と「八世紀の兵制改革論」

 時期の問題に関して有名な二つの説が十九世紀後半に提示された。一つは軍事史学からのもので、378年のアドリアノープルの戦いを画期とする説である。これはチャールズ・オーマンが1885年にその有名な著作『中世における兵術(The Art of War in the Middle Ages A.D. 378-1515)』 [3]で提示した考えである。彼は、この戦いを境として古代から続いていた重装歩兵の時代が終わり、以降千年続く騎兵の時代に移り変わったと見なした[4]。しかし、これは現在において否定されている。アドリアノープルの戦いについての詳細が明らかになるにつれ、この戦いにおけるローマ帝国軍の敗北は、様々な要因が組み合わさった結果であり、単純に歩兵に対する騎兵の優越性で説明できるものではないことが明らかとなったからである[5]。ただし軍事史の立場から、オーマンの説は形を変えて生き延びた。その考え方に従うならば、歩兵から騎兵への転換は、ある一つの戦いを契機とするものではないが、ローマ帝国の崩壊と歩兵軍団の解体が引き金となり、数百年におよぶ長い時間をかけて八世紀末のカール大帝の時代に完成したものであると説明された。

 もう一つの説は、ハインリヒ・ブルンナーに代表される中世史学の一派が主唱した「八世紀の兵制改革論」である[6]。そこでは732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで騎兵の必要を痛感したフランク王国の宮宰カール・マルテルによる兵政改革が主張の中核に据えられた。そして、この兵制改革が騎士と封建制を生み出したとされた。彼らの考えは次の通りである。定住化したフランク人たちはトゥール・ポワティエ間の戦いの年代まで歩兵を主力としていた。しかしイベリア半島からフランク王国に侵入してきた騎兵を巧みに扱うイスラム勢力の脅威に直面したカール・マルテルは、騎兵の重要性を理解した。そして彼は没収した教会領地を基盤として騎兵戦力を創出した。これが封建制に基づく騎士の誕生につながり、彼らを軍の主力とする時代が始まる。この学説は、幾つかの修正や反論が加えられつつ中世史学で受容された[7]。

 しかし二十世紀後半以降の研究の進展は上記のブルンナーの流れを汲む学説を否定する結論を導いた。かつては一大決戦と見なされていたトゥール・ポワティエ間の戦いは、実際はそこまで大規模な会戦ではなかった[8]。そしてそこでは装備に劣るフランク人歩兵隊が、見事な練度でイスラム勢力の軽騎兵や歩兵の攻撃を打ち破った。考古学的調査はフランク人の騎乗の風習が盛んになっていった時期が、八世紀ではなく六世紀末以降であったことを明らかにした[9]。八世紀以前に遡ることができないとされた騎士たる中世貴族の家系も、実のところ、家系の概念が中世前期と十一、十二世紀以後とでは異なっていたからそう見えただけであったことが判明した[10]。ブルンナーが九世紀末においてすでにフランク人たちが「徒歩で戦うことに不慣れ」と訳した891年のデイルの戦いについての叙述史料も実際は彼の誤読であって、沼沢地を進むために「ゆっくり一歩一歩、徒歩で前進することが困難であった」ことを示しているだけであった[11]。これら様々な研究を受けてフランシス・ギーズは「歴史学者の大半は、騎士が八世紀に誕生したとも、騎士が中世貴族や封建制の起源だとも考えていない」[12]と述べている。

 一方で、オーマンの主張の流れを継ぐカール大帝の時代に主役に至るという認識にも批判が加えられた。まず数的な疑義が提示された。実のところ当時のフランク王国軍にあっては、その大多数が歩兵であった。これは同時期の歩兵と騎兵の比率が半々であったビザンツ帝国軍を比較対象とするとき、物足りない数値であった[13]。また、八世紀半ばごろから騎兵の数が格段に増加している証拠も見つからなかった[14]。しかし、この疑義に関しては相対的な数の大小に意味はないとする反論が成立した。戦場における打撃戦力として勝敗を決する役割を受け持つならば、少数であっても、あるいは少数であるからこそ、優越的な決戦兵種であったということもできるからである。

バハラッハからの疑義

 そこで今度は、能力的な疑義が提示された。これは数的な疑義よりもはるかに深刻な批判であった。この疑義はまず、騎兵の突進を効果的にするような戦闘方法や武具の著しい改善が、八世紀を境に発生した証拠は認められないという批判から始まった。そして最終的には、カール大帝期における軍隊は攻城戦を主としており、騎兵は限定的な役割しか担わなかったとする説に至った。この説を1970年代に唱えたバーナード・S・バハラッハは「カール・マルテルと、その子孫の軍隊における決戦兵種は騎兵ではなかった。歩兵と砲兵が彼らにとってもっとも有益な部隊であった」[15]と述べている。あるいはバハラッハの考え方を行き過ぎと批判するハルサールであっても「ヨーロッパ中の戦士たちが普通、騎乗していたことは明白であり、西暦450年から900年にかけて騎兵の運用が劇的に急増したり、変化したというような証拠を見ることはできない。イングランドと同じように、戦士たちは状況に従って騎乗でも、徒歩でも戦うことができた」[16]と述べて、バハラッハとは異なる視座からカール大帝の時代に大きな変化がないこと、あわせて指揮官は状況に従って騎乗戦闘であれ徒歩戦闘であれ、どちらの選択肢も選ぶことができたとして、この時期の騎兵の優越的な地位を否定した。しかもハルサールは九世紀後半に発生したヴァイキングの侵攻により、むしろこの時期において野戦陣地と徒歩戦闘の組み合わせが盛んになった戦術変化が見過ごされているとした[17]。

 このような疑義は、騎兵が歩兵に対して優位を占めるとはどのような状況なのかという疑問を引き起こすものである。そしてこれは、どうして古代からの西洋の伝統であった歩兵軍団に代わって騎兵が戦場で優越的な地位を得ることができたのかという問いにもつながった。

 以上の議論から、時期的な問題は、次節で示す能力的な問題を解明して、当時の戦場における騎兵の能力を明確にしない限り、最終的な答えが出せないことがわかる。ここではただ、少なくとも中世前期のヨーロッパにおいて騎兵戦力は、一般に思われているほど決定的な力を持っていなかったこと。フランク人たちの騎兵戦力は、六世紀末から徐々に数を増していったが、八世紀においてもなお軍の大多数は歩兵でありつづけたこと。この二つをおおよそ確からしいとすることができるのみである[18]。

 そして、おそらくカロリング朝フランク王国の全盛期から九世紀中に、徐々に馬に乗って戦うことへの評価が高まっていき、ヴァイキングやマジャールへの対応を迫られた十世紀から、重装騎兵が明確にヨーロッパ全体で特別な存在になっていったものと思われる。しかし、この時点の騎兵が他に比して優越的な戦闘能力を持っていたのかとなると明確ではない。

騎兵は本当に優越した能力を持っていたのか?

 前節においては、いつから騎兵が戦場で優越的な存在になり得たのかという問いに対しての考察を見た。その結論は、どうして騎兵が優越した存在になったのかという疑問を明らかにしない限り、時期的な問題の答えは得られないというものであった。そこで本項では、能力的な問いかけについて短く概観し、中世の一時期に騎兵が戦場で優越的地位を獲得した理由とその時期を明らかにする。そしてその答えが、近世において騎兵が優越的地位を失う理由と表裏一体であったこともあわせて示すことにする。

騎兵の能力についての論争

 騎兵が歩兵に対して優れている点は、高さと速さにある。そしてどのように組み合わせるにせよ、この利点を効果的に発揮するには、揺れ動く馬上で兵士が安定している必要がある。古代と中世のヨーロッパで歩兵と騎兵の立場が入れ替わった理由が模索された当初、この問題が大きく取り上げられた。すなわち、中世において騎兵が優越性を獲得したのは、馬具が発達して安定した騎座を得た馬上の兵士が自由に武器を振るえるようになり、騎槍を構えた乗馬襲撃が可能になったからであるという考えである。そして、ここで鍵として注目された馬具が鐙であった。もう一つの重要な馬具である鞍も議論の対象となったが、考古学的発見は古代ローマ時代に鞍の原型があったことを確実にしたため、中世期における画期的な変革の原因にならないものとされた。一方、鐙はヨーロッパにとって比較的新しい技術であった。ヨーロッパに鐙が普及した時期については様々な説があるものの、西暦500年から1000年の間の出来事であるとされており[19]、古代と中世で明確に異なる技術であった。

 この鐙の導入が騎兵の時代を生みだしたとする説は、1960年代にリン・ホワイトによって提唱された[20]。『鐙論争』と呼ばれる議論を巻き起こしたこのホワイトの説は大枠においてブルンナーの『八世紀の兵制改革論』を受容しつつ、その発端をイスラム騎兵勢力の侵入という外圧に求める考えを否定した。代わりに彼は「フランク人だけが、おそらくカルル・マルテルの天才に導かれて、あぶみに内在する可能性を把握し、あぶみを利用しつつ(中略)新しい戦闘法を創造した」[21]と述べた。つまりホワイトは、八世紀の兵制改革により鐙が広く導入され、騎兵は騎槍を構えて突進することができるようになり、歩兵に対しての優越的な能力を開花させたと唱えたのである。この学説は一時期、幅広く受け入れられた。マイケル・ハワードは「八世紀に鐙がフランク族の間で一般に用いられるようになると、馬は機動性のためばかりでなく戦闘のためにも使われるようになった。スピードは衝撃に変えることができた。投げ槍は投げる必要がなくなり、突き槍のように下段に構えて持ち、相手を大きい力で突きさすことができるようになった。このように武装した騎兵は足で戦う歩兵に対して絶対的に有利であった」[22]と述べている。またジョン・キーガンらは「あぶみが登場し、それは八世紀までに一般に使用されるようになった。(中略)それらによって騎兵は決定的な兵種に変わったのだ」[23]と書く。これは鐙という技術が騎兵を優越的な立場に押し上げたという、ある種の技術決定論であった[24]。

 しかし、前節において取り上げたようにこの考えは、騎兵の突進を効果的にするような戦闘方法や武具の著しい改善が、八世紀を境に発生した証拠は認められないとして様々な批判を受けることになった。森義信はホワイト説が様々な研究者によって否定されたことを概説し「鐙の導入は八世紀よりもずっと以前に行われ、他方、騎馬突撃戦はもっと後の時代に一般化したものとされる。鐙の効用はたかだが乗り手の安定を保ち、騎兵にすばやい動きを可能にし、刀を振りおろし槍を突き出す高みを保証したにすぎない」[25]とする結論を「大筋のところ、これに賛同しないわけにはいかない」[26]とした。

 またそもそも、このような鐙という技術の導入に決定的な役割を担わせる技術決定論には、避けられない問題がある。ホワイトは鐙を同じく知っていたアングロ・サクソン人が兵制改革できなかった理由として、「社会の指導者の想像力」と「発明品それ自体の性質」を上げて、アングロ・サクソン人にはこれが整っていなかったとした[27]。しかし、この立場に立つならば、社会や指導者の能力こそが起爆剤であり、鐙を決定的な要因とするホワイトの考えは論理的な説得力を欠く。このような社会と政治の影響を過小評価する姿勢は、あらゆる技術決定論に共通する致命的な欠陥である[28]。

 さらにいえば、鐙の有無は騎兵の能力を決定的に左右するほどの要因ではなかった。アーサー・フェリルはアレクサンドロス大王が率いた古代マケドニアの騎兵を例に挙げて「鐙がなかったことはおそらく多くの人が思いこんでいるほど大きな障害にはならなかったであろう。古代の騎兵隊の突撃は、中世や近代のそれにくらべても大して変わりがないほど安定した不動の戦法だったのである」[29]と述べている。ジョン・エリスもアッシリア以来の古代の騎兵隊を挙げて鐙の影響を過大評価することを戒める。「みな重い甲冑で身を固めつつ馬上に収まり、大きな騎槍を揮い、そしてさらに思うに、その足部に如何なる補助もなく敵の戦列へまっすぐ突進したのである。つまり鐙は、フランク人が元来馬に乗る習慣を持たなかった点を特に考慮して、彼らがその戦術を発展させる速度を増したのだと考えたとしても、これなくして彼らがこの発展を決してなし得なかったと見なすことは、理屈にあわないのである」[30]。

 しかし鐙の役割を過大視しないとしても、騎槍を水平に構えて乗馬襲撃を行う重装騎兵の能力こそが、「騎兵の優越」を中世ヨーロッパに実現したものであるという考えは、直ちに否定されるものではなかった。

 では、このような騎槍をもちいた乗馬襲撃は真実、騎兵をハワードが説明するように「歩兵に対して絶対的に有利」にすることにつながったのだろうか?[31] この命題について、ここでは十一世紀、十二世紀、十三世紀から著名な戦いを一つずつ例に上げて考察することとする。この年代設定には二つの理由がある。一つは、脇下で固定した騎槍を水平に構えて乗馬襲撃を行うことが始まった時期が、これに適した鞍の出現時期や鐙の普及時期、そのほかの叙述史料や図画史料から、十一世紀半ばから十二世紀ごろと推定されるためである[32]。もう一つは十四世紀に入ると、フランドル市民兵によるフランス騎兵に対するコルトレイクの勝利に始まり、百年戦争におけるイングランド軍の装甲歩兵と長弓兵を組み合わせた戦術の成功、ドイツ騎兵に対するスイス民兵による密集方陣の勝利によって「騎兵の優越」に陰りが見え始めるためである[33]。そこで、真に「騎兵の優越」が発揮されたであろうと推定される十一世紀から十三世紀に時期を絞り、騎兵と能力ある歩兵の戦いを見ることで、当時の重装騎兵の戦闘能力を測ることとした。そしてそれにより「歩兵に対して絶対的に有利」と表現される状況があり得たのかについて示すことができるであろうと考える(ただ、騎兵襲撃が発揮する衝力の本質は心理的なものであり物理的なものではないとする現代の理論に従うなら、そもそも、この議論は的外れか、精々が心理的衝力の重要性を再確認するだけのものとなる)。

ヘイスティングズの戦い(1066年)

 まず取り上げるのは、十一世紀半ばに行われたヘイスティングズの戦いである。この戦いは1066年10月14日にノルマンディー公ギョーム二世(後のウィリアム一世)とイングランド王ハロルド二世との間で生起した。これは騎槍を水平に構えての乗馬襲撃が始まったと推定される初期の会戦である。バイユーのタペストリーでこの戦いを描いた部分には、ノルマン軍に属する槍を脇下に持って水平に構えた騎兵と、投げ槍のように逆手に槍を持つ騎兵の双方が描かれており、当時の混在した槍の使われ方を明確に示している[34]。そのためこの戦いにおいて少なくとも一部の騎兵が騎槍を水平に構えていたことは間違いない。それ故にかつてこの戦いは、重装騎兵の衝撃戦術が勝利をもたらした最初期の実例とされた。しかし、このような単純化を近年の研究結果は否定している[35]。

 この戦いにおいてブリテン島に上陸してきたノルマン軍に対して、イングランド軍はロンドンへの道をふさぐように丘の上に歩兵を並べてこれを迎え撃った。イングランド軍の歩兵は長大な斧と槍、そして盾で武装し『盾の壁』として知られる堅固な密集隊形を組んだ。一方、ノルマン軍は槍兵と弓兵で構成される歩兵隊と、主力である騎兵隊で構成されていた。ノルマン軍の攻撃は当初、歩兵隊が主導した。これは丘上に布陣するイングランド軍に対しては、騎兵の衝撃戦術が持つ力が著しく損なわれることをノルマン軍が理解していたからであるとされる[36]。しかしノルマン軍弓兵による射撃は、イングランド軍の盾によって多くが無力化された。ノルマン軍槍兵による攻撃前進も、当時最優秀の歩兵であったイングランド軍の重装歩兵に撃退された。

 これを受けて、ノルマンディー公ギョームは騎兵による攻撃に打って出た。バハラッハは、前述のタペストリーの図像から、このノルマン騎兵は投げ槍による遠距離攻撃を行う騎兵と、槍を水平に構えて白兵乗馬襲撃を実施する騎兵の二種類で構成されていたと推定している[37]。しかしこの攻撃もイングランド軍歩兵の密集隊形を崩すことができなかった。むしろノルマン騎兵は撃退されて苦境に陥り、ギョームも馬を打ち倒されて、危うく命を落としかけた。ノルマン軍の騎兵隊は最後まで歩兵の密集隊形を打ち破ることができなかったのである。そして彼らが勝利することができたのは、イングランド歩兵隊がノルマン軍騎兵の後退に誘われて密集隊形を解き、追撃に出たからであった。最初は偶然に、次いで意図的な後退が行われたとされる。そして釣り出されたイングランド軍歩兵は密集隊形を解いていたこともありノルマン軍の餌食となった。こうして戦力を損ない当初の秩序を失ったイングランド軍に対して、ノルマン軍は弓兵の援護を受けつつ、騎兵を主力とした攻撃を再び行った。しかしそれでもイングランド軍は容易に崩れなかった。結局、勝敗が決したのは、イングランド軍が指揮官である国王ハロルドを失ってからのことだった[38]。

脇下に騎槍を構えた騎兵と頭上に構えた騎兵(バイユーのタペストリー)
脇下で騎槍を固定したと思われる騎兵(バイユーのタペストリー)

 つまるところ、この戦いにおけるノルマン軍の勝利は、重装騎兵の衝撃戦術によるものではなかった。敗北したとはいえ、この戦いにおいて重装歩兵で構成されたイングランド軍は、槍兵や弓兵に支援されたノルマン軍の乗馬襲撃を幾たびも撃退することができた[39]。現在においてイングランド軍が敗北した理由はハロルド王の戦死を除くと、第一にノルマン軍騎兵隊の退却に釣られたイングランド軍歩兵隊が追撃のために隊形を崩したこと。次いでノルマン軍が騎兵だけに依存せずに弓兵と槍兵の支援を受けることができた一方で、イングランド軍の下馬した歩兵隊には弓兵や騎兵といった支援戦力がなく、戦いの主導権を常にノルマン軍に渡してしまっていたからであるとされる。また、イングランド軍がかくも頑強に抵抗できたのは、歩兵の密集隊形と防御に適した地形のおかげであるとされた。つまりこの戦いの示すところは、密集して固く隊伍を保ち、地勢の優位を得たときの歩兵の防御力の高さと、隊形秩序を失ったときの歩兵の脆弱さ、そして諸兵種協同の重要性である。これらは古代や近世と同じく、十一世紀においてもまったく変わるところがなかったのである。

 しかしこの戦いは、未だ騎槍を水平に構えて行う乗馬襲撃が始まったばかりの出来事でしかないと評価することもできた。何故ならば、バイユーのタペストリーから判断する限り、彼らの多くは槍を脇下に持つ方式で構えており、後に一般化する槍を脇下で固定して、より衝撃力を発揮できる方式を採用していなかったと思われるからである。そのため歩兵に対して騎兵が絶対的な有利を示せなかったのは、軍馬も武器も戦術も未発達であったからであるという見解も成立する。しかもノルマン騎兵は丘を駆け上らねばならなかった。そのため白兵乗馬襲撃の衝力は著しく損なわれ、歩兵と対峙したとき軍馬は著しく疲労していたはずである。これらを考慮するとバハラッハが述べるように、この戦いにおけるノルマン騎兵の価値は、軍馬を危険にさらすリスクと引き換えに、馬上の高みから敵を攻撃することを可能にした程度のものであったのかもしれない[40]。そこでさらに時代を約一世紀進めて、脇下で槍を固定した乗馬襲撃が確立された十二世紀半ば、1176年のレニャーノの戦いを見ることとする[41]。

レニャーノの戦い(1176年)

 レニャーノの戦いは北イタリアの支配権を求める神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世率いる皇帝軍と、ミラノを中心としたロンバルディア都市同盟軍との間で1176年5月29日北イタリアにおいて生起した。この戦いにおいて主導権を握っていたのは騎兵であった。特に皇帝軍が戦場に投入した戦力は、そのほとんどが騎兵であり、その数は3,000名に上った。しかもその騎兵は、バルバロッサの異名で知られる伝説的な皇帝に率いられ、フェアブリュッケンをして「偉大なる騎士軍」[42]と呼んだ当代最高の重装騎兵であった。まさしく「騎士は未だ最盛期にあった」[43]。しかし一方で、これに対峙したのもまた、当時において傑出した市民軍を生み出した北イタリアの諸都市から派遣された兵士たちであった。貴族と富裕市民層で構成される騎兵の質はドイツ騎兵には劣るものの数の上では同等であり、中世ヨーロッパにおいては類を見ない共同体意識を共有する一般市民で構成される歩兵は質において皇帝軍に対して遙かに勝り、その数も10,000名以上と十分であったとされる。都市同盟軍は最盛期にあった騎士を迎え撃つに相応しい相手であった。

 戦いはまず騎兵同士の前哨戦で始まった[44]。700名の都市同盟軍の騎士たちは林を抜け出た所で、不意に皇帝軍の騎士300名と激突した。両軍ともに予期していなかった遭遇戦において、数に劣る皇帝軍の騎士たちは評判に違わぬ力量を示した。彼らはたちまちの内に都市同盟軍の騎士たちを圧倒して、これを敗走させたからである。前哨戦の勝利と自軍と同程度の敵軍の規模を伝え聞いた皇帝フリードリヒは、側近から戦いを避けてパヴィアの友軍と合流するようにとの助言を退けて「逃げることは皇帝の威厳にとって価値がないと考える」として、全面攻撃のために騎兵部隊を前進させた[45]。そして皇帝軍の騎士たちは皇帝の信頼に応えた。彼らは都市同盟軍の騎士に襲いかかり、わずかな例外を除いてことごとくを戦場から排除したのである。皇帝軍は勝利を確信した。フリードリヒは、逃げる敵の騎兵を追撃することなく、騎士たちの全力をもって戦場に取り残された都市同盟軍の歩兵隊と、敗走して歩兵に合流したわずかな騎士たちに襲いかかり、勝利を完全な物にしようとした。

「しかしロンバルディア人たちは死か勝利かに備えていた」と皇帝軍に随行して戦闘に参加した大司教の随員は証言する[46]。ミラノ市民を中心とする都市同盟軍の歩兵隊は、団結の象徴である旗車(carroccio)と呼ばれる旗印を立てた戦車を中心に密集隊形を組み、盾の壁と槍衾で騎士たちの乗馬襲撃を迎え撃った。彼らは堅忍不抜の抵抗を示した。皇帝軍の騎士たちは繰り返し攻撃に出ては撃退された。そして遂には皇帝フリードリヒも乗馬襲撃の最中に馬を殺され、落馬して味方の視界から消え失せてしまった。それは団結した市民の歩兵隊が、精強なる騎士で構成された騎兵隊に勝った象徴的な瞬間であった。しかもまさにこの時、一旦は敗走して戦場を去った都市同盟軍の騎士たちが、援軍の騎兵隊と合流して意気を取り戻して戦場に帰還した。彼らは歩兵隊を攻めあぐねて疲弊した皇帝軍の騎兵隊の側面に襲いかかった。都市同盟軍の歩兵隊も呼応して反撃に転じた。

 こうして戦いは皇帝軍の大敗に終わった。落馬して戦場の混乱の中に消えたフリードリヒは、三日後になってようやく無事にパヴィアに現れるまで戦死したとすら思われた。この戦いは、午前九時から午後三時までの長きにわたった[47]。通例、騎兵戦闘はその性質上、短期間で終わることから、戦闘時間の多くは騎兵隊による歩兵隊への攻撃に割かれたものと推定される。つまり、このとき都市同盟軍歩兵は、騎兵戦に適した地形で、孤立した状況下で、鎖帷子の甲冑で身を守り騎槍を水平に構え、あるいは剣を掲げて突進してくる重装騎兵を相手に長期間にわたり、ほとんど独力でこれを撃退して、歩兵の密集隊形が持つ力を証明したのである [48]。そして、その間に騎兵は再集結を成し遂げ、歩兵と協調した反撃を成功させて勝利につなげた。ここでも勝利の要諦は諸兵種協同にあった。また、これは単発の出来事ではなかった。約五十年後の1237年11月27日においても、ミラノ人を中心としたロンバルディア都市同盟軍の歩兵は、皇帝フリードリヒ二世のドイツ人騎士を中心とした騎兵隊を相手に旗車(carroccio)を中心とした密集隊形を組んで激しい後衛戦闘を行い、自軍の後退を成功裏に終えている[49]。

ブーヴィーヌの戦い(1214年)

 次いで最後に取り上げるのは十三世紀、1214年7月27日のブーヴィーヌの戦いである。ここでも歩兵隊は印象的な働きを示した。この中世ヨーロッパ最大規模の戦いは、反フランスの意向で寄り集まった神聖ローマ皇帝オットー四世率いる連合軍とフランス王フィリップ二世率いるフランス軍との間で生起した。従来、この戦いで注目されてきたのは騎兵であった。それは当時の年代記が騎士の働きを中心に記述されていたからである。しかし、実のところ戦いには数多くの歩兵が参加していた。現在の研究では歩兵の数は両軍ともに騎兵の三倍以上と推定されている。そして残されている数少ない歩兵に関する記録を見ると、彼らが主力の対決の中で重要な働きをしたことがわかる[50]。

 この対決では当初、勢いに勝る連合軍がフランス軍を上回り、フィリップ二世その人の命を奪いかけた。騎兵とともに白兵戦を演じたドイツ人歩兵の一団がフィリップに襲いかかり、歩兵が振るう戟の一撃が彼を落馬させたのである [51]。国王の供回りの決死の救出行によりフィリップは辛くも難を逃れることができたが、もしここでドイツ人歩兵隊がフランス国王の命を奪っていれば歴史は大きく変わっていたであろう。その後、最初の勢いを失った連合軍は次第に互いの連携を保つフランス軍に圧倒され、全面的な敗走を余儀なくされた。

 敗走する連合軍の後衛は、ブローニュ伯ルノー・ドゥ・ダンマルタン率いる400名から最大でも700名余りの歩兵を中心としたフランドル人の傭兵隊であった[52]。その歩兵隊は密集して円陣を組み、槍や戟を連ねて騎兵の攻撃を寄せつけなかった。円陣の内側にはルノーとその騎士たちからなる騎兵が集結し、そこから幾たびも繰り出ては反撃を成功させた。あらゆる年代記作家は、この傭兵隊の傑出した働きを高く評価している[53]。もちろん最終的にルノーは捕虜となり、傭兵隊はフィリップが送り出した三倍以上のフランス軍によって壊滅することになる[54]。そして結局戦いは、寄せ集めで互いの連携を欠いていた連合軍の敗北に終わる。

 しかし攻撃においても防御においても連合軍の歩兵が果たした役割は、決して騎兵の添え物にとどまるものではなかった。特に大規模ではなかったにせよ、小さくまとまり歩兵と協同して行われた騎兵の白兵乗馬襲撃に対して、ルノー率いる歩兵が良く持ちこたえたことは注目に値する。つまり、規律を保ち隊伍を崩さない密集した歩兵を単独で打ち破る能力を、十三世紀においてもなお重装騎兵は持ち得なかったのである。最新の研究成果に基づき、この戦いについての論考を2015年に記したジョン・フランスは次のように書く。「堅固に密集した歩兵の騎兵に対抗する能力は、当時の戦争において既成の事実であった」[55]。また彼は、フランス軍の勝利の理由として、各部隊の連携が取れていたことを指摘する。これも先の二つの戦いと同様の、協同行動の重要性を強調するものである。

 このように騎兵の能力だけを取り上げるならば、中世ヨーロッパにおける騎兵の歩兵に対する絶対的な優越は説明できるものではなかった。バート・S・ホールは「機能だけを重視する立場をとるならば、重装備の騎士を正当化しようとしてもうまくいかないことは目に見えている」 [56]と述べる。成功は多くの場合、騎兵単独ではなく、歩兵との連携の中で勝ち取られたのだ。

 では、どうして中世ヨーロッパは騎兵が優越していたとして知られるようになったのだろうか?
 その答えについてホールは「戦闘で騎兵が名声を博したのは数が多かったからとか数量的要因のせいではなかった。騎兵が重要視されたのは敵の隊形を崩すことができたからだった」と述べている[57]。これは多くの場合で騎兵が敵歩兵の隊形を崩すことができたことを示しており、上記のような戦例があったとしても歩兵が騎兵の攻撃に耐えられなかったことを意味する。これら全体を俯瞰してフリードリヒ・エンゲルスはすでに十九世紀の時点で次のように述べている。「騎士によって構成された正規の重騎兵が、この時期にはあらゆる戦闘を決定した兵科であった。騎兵兵科のこのような優越は、それ自体がすぐれていることによって生じたのではなかった。(中略)この優越は、主として、歩兵の質が悪かったことから起こった」[58]と。

 歩兵の質、つまりは歩兵の能力、ここに結局のところ騎兵の優越に関する問題の要諦があった。近年になり騎兵の優越について論じたモリロの結論も「騎兵は四世紀から十四世紀までを通して、特別優れていたわけではなかった。歩兵が劣弱だったのである」[59]としてエンゲルスと変わらない。もちろん騎兵の能力は中世を通して進歩していった。八世紀から十世紀の間に鐙が導入され、ほぼ同時期に蹄鉄が、次いで拍車が加わった。十一世紀後半には鞍が騎槍をもちいた衝撃戦術に適した形になった[60]。軍馬の質も時の進展とともに向上した。これらは技術決定論が唱えるほどの決定性を持たなかったにしろ、揺れ動く馬上で兵士が安定して戦うための助けとなった。兵士は騎兵の利点である高さと速さを十全に活用できるようになっていった。板金甲冑が普及するのも、脇下で固定した騎槍を支えるための特別な支持具が胸甲に取りつけられるようになるのも十四世紀以降になってからであるが、脇下で騎槍を固定して乗馬襲撃を行う中世盛期の重装騎兵が、カール大帝やオットー1世の頃の重装騎兵に比べて、その能力を格段に進歩させていたことは疑いの余地がない。しかし、それでもなお、先に挙げた三つの戦例が示すように、これらの発展は究極的に、歩兵に対する騎兵の優越には大きな影響を及ぼさなかった。重装騎兵による騎槍を構えた正面からの乗馬襲撃が有効であるためには歩兵の質が低いか、あるいは様々な手段によって歩兵の力を弱める必要があった[61]。これはつまり、中世における騎兵の時代についての能力的問題は、騎兵ではなくむしろ歩兵にこそ目を向けねばならない主題であることを意味する。

 その視点に立つと、中世末期から近世における『歩兵の復興』がどのようなものであったのかが良く理解できるものとなる。歩兵が全般的に力を取り戻していくとされるこの時代の当初において、歩兵の装備や戦術は本質的に変化していなかった。彼らは古代と大差ない形式で、能力を進歩させた騎兵と対峙した。槍や矛槍、戟といった長柄の武器、そして弓、これらは古くから歩兵が親しんできた武器であった。もちろん弩は新しい武器として採用されていたし、イングランド軍の長弓に注目する研究者は、弓の威力向上を強調する。十五世紀以降は銃器の登場で説明しようとする向きも強い。しかし、モリロはこのような反論に対して次のように指摘する。「このような反応は、スイスの長槍兵たちが、マケドニアのファランクスのそれと武器においても戦術においても本質的に同じものをもちいていた(中略)という事実を無視している」[62]。1302年にフランスの騎士からなる騎兵隊を打ち破ったフランドル市民兵も、弩兵を活用したものの、その主力は槍を始めとする長柄武器を手にした密集歩兵隊であった。河川や沼沢地という自然地形の援護は、二百年前にヘイスティングズにおける丘と同じく騎兵の能力を制限したにせよ、防御を整えた密集歩兵が持つ恐るべき力を世に知らしめる端緒となった。コルトレイクの戦いの後、再び戦場で対峙したフランドルの市民兵を打ち破るためにフランス騎兵が行った戦術行動は、ヘイスティングズでノルマンディー公ギョームが行ったのと同じく、偽装退却や欺瞞行動で歩兵の隊形を崩すことであった[63]。あるいはスコットランド人たちの『槍の壁』もイングランド騎兵をくい止めるだけの力を十三世紀末に証明した。そしてスコットランド人たちを打ち破るために必要だったものは、重装騎兵ではなく弓兵であり、スコットランド騎兵の襲撃から弓兵を守るために必要とされたのは騎士たちを馬から下ろし密集させた歩兵隊であった。
 つまり中世末期の歩兵の勝利において、歩兵の側にも騎兵の側にも何らの新しいものは存在しなかった。そこにおいて歩兵はヘイスティングズやレニャーノ、そしてブーヴィーヌで示した騎兵に対する防御能力を単純に発揮するだけで良かった。

歩兵の問題

 問題はどうしてその能力を歩兵が常に発揮できなかったのかにある。ブーヴィーヌの戦いについて記した中でフランスは述べる。「鍵となる言葉は「堅固さ」である。しかし、この品質は短期間にのみ召集される軍にあっては生み出すことが極めて困難なものなのだ」[64]。そして「堅固さ」を生み出すのは部隊の内にある団結と規律であり、それはモリロがいうように兵士の間に「信頼」がなければ生まれないものであった[65]。恐怖を誘う騎兵の襲撃に直面してもなお逃げないだけの士気と勇気は、隣に立つ仲間が逃げないという信頼を基礎とするものである。フェアブリュッゲンも、ブローニュ伯の傭兵隊が例外的な能力を発揮した理由を「専業兵士としての長い経験と実践、つちかってきた軍隊精神(esprit de corps)の賜物」 [66]とする。さらにこの信頼を強固にして、歩兵が騎兵に対して攻撃に出ることさえ可能とするものに訓練が挙げられる。なぜならば、密集隊形を維持したまま前進することは、訓練をしていない兵士たちにとっては不可能であったからである[67]。

 このような歩兵を作り上げるためには、大別して四つのやり方がある。ここでは本質的には変わらない最初の三つを説明し、次いで異質な最後の一つを説明する。まず一つ目は、自然に団結する小規模な地方共同体に所属する兵士たちを集めることである。これにはスイスやスコットランドの歩兵が当てはまる。隣に立つ戦友が、幼いころから見知って共に苦労してきた隣人であるとき、半強制的な信頼がそこに発生することは人間社会を生きる誰もが知るところである。もう一つは雑多な兵士をかき集めて、共同体が持つ自然な団結を徹底的な教練と経験で置き換えるやり方である。後の近世の戦列歩兵がこれに当てはまる。そして第三のやり方はこの折衷の産物である。ある程度の均質な兵士を集めて、教練と経験を積ませるのである。レニャーノやコルトレイクにおける市民兵たちがこれに当てはまる。そしてこの三つの本質は普通の人々を兵士にするやり方である。もちろん最初の一つは完全に地域特性に依存するものであり、普遍化は不可能であった。そして後ろの二つのやり方を実現するには、十分な数の人間を集めて長期間に及ぶ集団教練を行わせ、その長期間彼らを養うばかりでなく、戦争が終わっても部隊を維持して経験を失わせないだけの富と権力が必要であった。モリロは、これらの事実を総括して次のように述べる。「事実上、中世において戦場に野戦で使い物になる歩兵を生み出すことができた政体は、イタリアにあった独立して豊かな都市国家と、その縮小版であるフランドルの諸都市のみであった。それ故に騎兵は所与のものとして、戦場における支配権を得たのである」[68]。そして近世的な国家が形成されるに従って、「教練がヨーロッパの戦争に帰還して、それに伴って歩兵の優越が戻ったのである。そして中央権力の復活こそが、近世国家の誕生であり、それが支配を永久化した」[69]と述べる。

 それでは優秀な歩兵を生み出す最後の一つのやり方は何であるのか? それは最初から最高の戦士を揃えること、つまり騎士に代表される戦士階級の兵士を歩兵としてもちいるやり方である[70]。891年のデイルの戦いやヘイスティングズの戦いなど、中世前期からヨーロッパでは幾度となく、このような歩兵の精強さが示された。なぜならば高品質の甲冑と武器を手にして、優れた武技を誇る騎士や戦士は、馬から下りれば優れた歩兵となった。しかも騎乗していたならば追撃にかまけたり、あるいは逃亡するような状況下であっても、馬という逃げる手段を奪われた彼らは戦列にとどまることを余儀なくされた。当時の指揮官は、騎士を下馬させた効用の一つとして、決死の覚悟で戦わせることができると指摘する。先に挙げた三つの方法がいかにして羊の群れを戦わせるかを模索した方法であるとするならば、最後の一つは獅子の集団をいかにして戦わせるかを模索した方法である。下馬した騎士は、装甲歩兵として不十分な質の徴集兵の前面や内部に配置されて全体の質を向上させることもあれば、彼らだけで隊列を組んで戦うこともあった。攻城戦においても、彼らの重装甲は大いに力を発揮した。下馬した騎士は中世においてもっとも信頼できる歩兵であった[71]。

 このような四つの手法によって中世ヨーロッパにおいても優秀な歩兵を生み出すことができたのは、例示した戦闘からも明らかである。しかし特に数量を揃えることができる第二と第三の方式で歩兵を集めることは決して一般的な事例ではなかった[72]。第四の方式は、騎士を馬から下ろす指導力や権威が指揮官に求められた。結局、中世を通してヨーロッパでは、地域的な差異はあるものの優秀な歩兵を主力とするに足るほど集めることが難しい状況が続いた。これを踏まえた上で、騎槍を水平に構えての乗馬襲撃が行われるようになった時期を見てみると、それがフランク王国分裂後の政治混乱期であったことがよく理解できる。二つの時期の一致は決して偶然ではない。かつての歩兵は密集隊形のまま攻撃前進をする能力を持ち、正面からの打撃や敵を拘束する役割を担った。しかし今や歩兵の練度は前進して敵を拘束するどころか、その場で密集隊形を保ち続けることすら怪しいものへと低下した。これに対応する形で騎兵は歩兵が担ってきた役割を直接引き継がねばならなくなった。甲冑を強化し、重たい騎槍を水平に構えての乗馬襲撃はこうして発展した。つまり、攻撃と防御において信頼できる正面戦力が存在することを前提とする機動性を活かしての側面攻撃や、隊列混乱効果をねらっての投げ槍をもちいた遠距離攻撃よりも、歩兵が担ってきた正面戦力の役割を肩代わりすることに重点をおくように変容したのである[73]。

騎兵の優越の本質

 以上のことから、能力的な問題から時期的な問題への解答を示すならば、ヨーロッパの戦場における騎兵の伸張は、国家の中央権力の退潮と相関関係にあると言える。中世ヨーロッパにおける騎兵の時代には中央権力の不在あるいは弱体化を必要とした[74]。これは、もちろん騎兵の能力にも不利に働いたであろうが、歩兵ほどの弱体化をもたらすものではなかった。そもそも騎兵の維持には歩兵と比べることができないほどの費用が必要であった。大規模な歩兵戦力に訓練を施し、編制を維持することができる政体であっても、同じことを騎兵戦力に行うことは困難であった。それゆえ古代ローマ帝国崩壊後から近世国家が生まれるまでの長きにわたり、必然的に騎兵は小規模集団ごとに訓練され維持され、その費用には余剰の富を独占することによって生まれた個人資産があてがわれた[75]。しかもこれは個人ごとの技能を前提とした騎兵の性質と親和性が強かった。分散した権力を担った地方の支配階級は、独占した富を活用して自ら戦士となるか、あるいは代わりとなる馬を含む戦士たちを従えて、その権力と富の維持につなげた。加えて戦術単位を構成する員数が少ない騎兵は、集団訓練においても歩兵とは異なり少人数で大きな問題はなかった。こうして小さな血族の集まりや恩顧関係の中ではぐくまれた戦士階級の子弟は自然と優れた騎兵となった。優秀な騎兵を生み出す土壌に、必ずしも中央権力は必要なかったのである。しかも重装騎兵が軍事システムの基盤となったことで、ますます地方の支配階級の立場は向上し、彼らの中央権力に対する反抗心を助長した。王権の弱かった中世の西洋諸国が優秀な騎士を輩出したことは、その証明であろう。そしてこれが人的資源を戦力化する手段を持てなかった中世盛期のヨーロッパにおいて騎兵の優越が語られた理由である。

 つまり「騎兵の優越」とは、フランク王国の分裂期に始まり、ヨーロッパにおいて新しい富の分配の姿が現れて定着し、寒冷化による凶作や黒死病に代表される疫病の流行、そして長期化する戦争によって社会構造の形が大きく変化する十四世紀ごろから動揺を来し始め、各地の諸身分などの同意と敬意を必要としながらも、ある程度以上の領域に行政を行き渡らせた近世的な国家が形成される中で終焉するものであった。そして中世における「騎兵の優越」は、封建制と同じく決してヨーロッパ全体で均質なものではなかったし、個々の事情によって歩兵の能力が一定水準以上に達すれば、無効化あるいは相対的に弱体化させることができる程度のものに過ぎなかったと結論づけることができる。

中世ヨーロッパを騎兵が優越していた時代と描くことは正しいのか?

 前節までにおいて「騎兵の優越」に関する時期的な議論を明確にし、これと合わせて表裏の問いかけであった、どうして歩兵に代わって騎兵が戦場で優越的な地位を得ることができたのか、どうして中世の終わりから歩兵が復興を始めたのか、それらの所以を明らかとした。ここではその優越を前提として、騎兵が優越していた時代とは何なのか、そもそも所与のものとしてこれまで取り扱ってきた、ヨーロッパ中世の一時期を騎兵が優越していた時代とみなす概念が本当に正しいのかについて考察する。

「城塞の時代」

 それでは何故、騎兵が優越していた時代がそもそも存在したのかという疑問が生まれるのであろうか? それは実際、大局から見たとき、中世ヨーロッパの戦争形態を支配したものは規模の様々な攻城戦であったからである[76]。この事実をそのまま受け止めるならば、一見したところ攻城戦における主役とはなり得ないであろう騎兵は戦争の添え物となる。八世紀末におけるフランク王国軍の主力を歩兵と砲兵であるとしたバハラッハの主張は、攻城戦を中心とする戦争に対する認識の自然な帰結である。これに対し本項では騎槍を構えた重装騎兵が真に活躍する会戦形式の野戦を、攻城戦を中心とした戦略の中で捉え直し、それでもなお中世盛期において騎兵が戦争において大きな存在感を発揮したことを示す。そしてそれは会戦時における軍事的能力だけでなく、それ以外の戦役全般における軍事的能力、そして騎乗でも徒歩でも戦うことができる戦士たち、つまり騎士や従騎士などと呼ばれる社会階層が持つ社会政治的な影響力を含めて語るべきものであったことを明確にする。

 すでに述べたように中世における騎兵の優越は決して後世にイメージされたような圧倒的なものではなかった。それでも、カール大帝が完成させたフランク王国の秩序が崩壊し政治権力が分散していく中、徴集される歩兵の数と質が低下することで重装騎兵を基盤にした軍事システムが形成されることになった。そして中心に据えられた野戦の戦術は、白兵乗馬襲撃であった。1097年のドリラエウムの戦いや1128年のティールトの戦いは、このような重装騎兵がほとんど独力で戦場の帰趨を決めたものである[77]。しかしこれらは、当時にあっても、どちらかといえば例外であった。騎兵は他兵種の支援を必要とする場合の方が遙かに一般的であり、馬を下りた戦士が歩兵として戦うことも時代や地域、状況による差はあるものの、特別に異例なことではなかった。もちろん、中世が進むにつれて騎士に代表される騎兵の役割が、ますます騎槍を構えての乗馬襲撃に特化していったことは事実である。そして敵の隊形を崩す公算がもっとも見込めたのが重装騎兵の攻撃であったこと、そのために中世後期に至って軍隊が、しばしばすべての中心に彼らを据えて、かつての重装歩兵が担った役割すら請け負ったことも前項で述べた通り事実である。だが重装騎兵を野戦軍の基盤にしたとしても、中世ヨーロッパにおける戦争の中心は会戦形式の野戦ではなく攻城戦であった[78]。

 中世ヨーロッパにおいて会戦が稀であったことは、印象的にも数値的にも示されている。たとえば中世前期、カール大帝による三十三年間におよぶザクセン征服において、大帝本人が野戦を行わねばならなかったのは僅かに二回だけだったと彼に親しく仕えたアインハルトは述べている[79]。もちろんこれは誇張であり、実際のところフェアブリュッケンに従えば少なくとも大帝は八回の野戦に従事した[80]。しかし彼やデルブリュックも認めるところであるが、真に決定的な会戦は、アインハルトが述べるように783年に発生した二回の戦いのみであった。フェアブリュッケンはフランドルにおける事例を取り上げて、1071年から1328年の約250年の間に十一回しか真の会戦が生起しなかったとして、会戦が稀であったことを示している[81]。ジョルジュ・デュビーは「ブーヴィーヌの戦以前にカペー朝歴代諸王がおこなった決戦はただ一度」[82]と述べている。加えてディ・マルコが示唆したように、中世ヨーロッパにおける大規模な征服遠征が、ノルマンディー公ギョームによるイングランド征服と、第一次十字軍によるパレスチナの征服のみであり、これらが西ヨーロッパと比較して城塞が少ない地域で成し遂げられたことも、当時の戦争において城塞が重要であったことを示すものである[83]。

 これらの事実を受けてフェアブリュッケンは、重要な拠点を攻囲している最中に敵の救援軍と戦闘を余儀なくさせられるような、退くに退けない場合や不意の遭遇戦を除いて、会戦は「両軍が会戦を望み、どちらもが勝利する可能性を有している時にのみ生起した」と結論づけ「ほとんどの戦役は如何なる野戦も生起せずに実施された」と述べる[84]。つまり、後に見るように更にもう一つ別の例外事項を設ける必要があるものの、ジム・ブラッドベリーが「戦争はおそらく1%の野戦と99%の攻城戦で構成されていた」[85]と述べることは、行き過ぎた主張ではないのである。そしてこのような戦略環境と、中世を通しての築城術の絶え間ない進歩を合わせて考えれば、中世盛期のヨーロッパを「城塞の時代」と見なすことは正当な判断であるといえる。

「城塞の時代」と騎兵の関係

 それでは城塞を中心に据えて中世ヨーロッパの戦争を捉え直したとき、騎兵の役割はどのようなものになるのであろうか? すでに野戦における当時の騎兵の役割は示し終えている。野戦において打撃戦力としての能力を失い、下馬した騎士に頼る場合を除いて戦列を支える能力も多くの場合で限定的となった歩兵の代わりに彼らは野戦における主役となった。一方で攻城戦において騎兵は、近世的あるいは近現代的な常識に従うならば、副次的な役割しか果たさないように思われる。つまり一見すると、騎兵を中心に当時の状況を捉えることと、中世ヨーロッパを「城塞の時代」として捉えることの双方が両立することには矛盾があるように見える。この問題を考察するためにまず中世ヨーロッパにおける「城塞の時代」の本質が何であるのかを確認する。その上で騎兵がそこにどのように関わるのかを明らかとする。

 この時代が「城塞の時代」となった理由は、大きく二つある。一つ目は城塞が地方の防衛と支配の要となったからである。フランク王国による秩序が崩れて以降、小規模化を余儀なくされた当時の野戦軍は、それのみで広大な領域を支配することができなかった。そしてヴァイキングやマジャール人などの到来はかつての征服者である各地の有力者を防御側に追いやった。彼らは自らを守るために、城塞に頼らねばならなかった。加えて中央権力の衰退と封建制の進展は、自力救済を重視する風潮を強めた。各地の封建領主たちは、外敵からだけでなく敵対する同輩たちや、挙げ句の果てには主である国王からも、己の領土を防衛しなければならなかった。こうして大軍を集めることができない地方領主たちは、自らを守る手段としての城塞を重視することとなり、多くの城塞が各地に建造されることになった[86]。たとえばイングランドではノルマンディー公ギョームのイングランド征服以前において数十しかなかった要塞の数が十二世紀までに数百へと増加している[87]。一方、十三世紀までに城塞の国となったと称されたフランスも、たとえば十世紀以前において一つの城塞も存在しなかったメーヌ地方では、十二世紀までに六十二個の城塞が建築されている[88]。そして当然のことに、これらはすべて地方領主の防衛意識の高まりを示しているだけでなく、彼らの支配が城塞を中心として強化され、その権威が伸張していったことを示すものでもあった。これについてブラッドベリーは逆説的に「地方領主の社会的および経済的な成長は、地方の要塞の増加によって特徴づけられる」[89]と述べている。つまるところ中央権力の弱体化と「城塞の時代」は不可分の関係にあったのである。

 理由の二つ目には城塞が多くの場合で攻撃を、長短の差異はあるものの一定期間、撃退するに十分な防御力を保有していたからである。なぜならば、前述の理由から軍の規模はますます小さくなる一方で、城塞の建築技術は向上していたために、城塞の防御力は大砲が一般化されるまで常に攻撃側の攻城技術を上回っていたからである。確かにフランク王国期において、彼らの拠点はしばしばザクセン人の強襲によって陥落した[90]。しかし城塞は中世を通して、初歩的な土手盛りと木造の柵で築かれた砦から、石造りの城壁と幅の広い堀を備えた堅固な要塞へと進化していった。結果として多くの場合、攻城戦は長期にわたる攻囲となり、付随する補給の問題が常に攻撃側を苦しめるようになった。そして攻められた側は侵攻軍と野外で戦わずに、事前に物資を貯めていた城塞に籠もり、敵の動静を見守ることを選択肢の最上位に置くようになったのである。しかもこの時代、国王を始めとする領主たちの非能率な行政能力は、彼らが巨大な軍を一時でも編成できたとしても、基本的にそれを維持することができなかった。そのため時間は常に防御側の味方であり、城塞は時間を稼ぐ最良の手段であり続けたのである。

 西ヨーロッパ全域で見れば地域差はあるものの、おおよそ十一世紀までに社会は封建化し、権力の多くが地方に移った。そして「十一世紀と十二世紀において城塞は景観を構成する一般的な存在になるばかりでなく、要塞設備の向上によって年を追うごとに強固なものになっていった」[91]。中央権力の退潮と地方領主の台頭が城塞の数を増加させ、軍の規模の縮小と建築技術の向上が、城塞の防御力の優越を保証した。これらすべてが合わさったとき、最終的に城塞は「諸侯の領土における支配を強化するだけでなく、王を否定し王に抵抗することをも可能にした」 [92]。

これらは中央権力の不在あるいは弱体化を必要とした「騎兵の優越」と同一の進展を示すものである。つまり「城塞の時代」は「騎兵の優越」が発生する事象と本質を同じくするものであり、それ故に二つの概念は時期を同じくし、決して相反するものとはならなかった。

 そして、ある程度の防御力と数を確保した城塞は、攻撃側の攻撃に耐える時間を稼ぎ、その間に征服者の補給線を攻撃して弱体化させることや、至急の援軍に駆けつけて、敵の後方を攻撃することができる存在として、中世ヨーロッパの戦争における中心となった。攻勢側は自軍の戦力や補給能力などを見極めた上で、成功の見込みが大きい城塞へ攻撃をしかけた。攻撃は強襲の形を取ることもあれば、一定期間を要する攻囲戦の形を取ることもあった。こうして当時の戦争の一般様式が生まれた。攻勢側は狙った地域の城塞の奪取を試みる。防勢側は良く準備を整えた城塞群でこれを迎え撃つ。そして城塞群のみで守りきれる公算が小さく、それでも支配の維持を望むとき、あるいは喪失が戦略上許されない拠点を守らねばならぬとき、あるいは反撃を望むとき、防勢側にはこれを救援できる能力を示す必要が生じる。つまり会戦は、この城塞を巡る「前進局面と後退局面が様々に織りなす複雑な戦争展開における最終段階」[93]の帰結となった。

 しかし会戦に至る道を阻害する要因は数多かった。兵力の多寡は、攻勢側にしても防勢側にしても、退却する大きな理由となった。キリスト教徒同士の争いならば教会の仲介も口実になった。味方同士の不和、糧食の不足は攻囲軍が後退する要因として頻繁に現れるが、救援軍の集結の遅れや前進の遅れの理由としても一般的であった。そしてこれらの要因を基に、一方が会戦を決意したとしても、もう一方が同じように決意するとは限らなかった。判断を下す指揮官や君主に助言をする側近たちは、多くの場合しかも年を重ねていればいるほど、運が介入する会戦に対して慎重であった。フェアブリュッケンはクラウゼヴィッツの金言を引用して「いかなる戦闘も相互の同意なしには生じ得ない」ことが、限定された行軍路を全軍で進む中世では、よく当てはまることを指摘する[94]。それ故に会戦は、城塞を中心とした戦争の最終局面で、両者が勝利の確信を持ったとき、あるいは一方が不利を承知で、心理的陥穽や物理的陥穽に囚われたときに、ようやく生起するものになったのである。

 では、これほどまでに会戦が避けられた理由は何であったのだろうか? これは攻城戦が一般的であった当時の戦争における会戦の位置づけを決める問いかけである。この問いかけに、ブラッドベリーは「重要性は間違いなく数量のみで決まるものではない」[95]と答える。会戦の結果がもたらす戦略的影響は甚大であり、しかもそれは驚くほどの短期間で成し遂げられた。ノルマンディー公ギョームは事実上一日でイングランドを征服したが、ただの一度の会戦をすることなくノルマンディーを征服したアンジュー公ジョフロワ五世は、代わりに十年におよぶ数多くの攻城戦の積み重ねを必要とした[96]。あるいは中世最大の会戦とも称されるブーヴィーヌの戦いでは、その一日で神聖ローマ皇帝オットー四世が事実上破滅し、その道連れとして同盟者イングランド王ジョンのアンジュー帝国も再興の芽を摘まれた。デュビーは、その決定性から会戦=決戦を神明裁判に列して「託宣と同様に、聖の領域に属する」として、それ故に会戦は稀であり「密度たかくたえずおこなわれていた封建戦争の歴史のなかで、つまり、決戦にかんしては一握りの日付しか出てこない」と述べた[97]。

 つまるところ、中世ヨーロッパにおいても会戦の重要性は些かも減ずるところがなく、むしろ重要すぎるからこそ避けられたのである。そのため、実際に会戦が生起しなかったとしても、あるいは前哨戦規模で終わってしまったとしても、会戦で勝利することができる野戦軍を持つこと、すなわち野戦軍の戦力基盤である重装騎兵を維持し拡充することは、究極的に城塞を攻めるにおいても守るにおいても不可欠であり、可能な限り騎兵の攻撃力を増せるよう馬具や甲冑、騎槍の扱いや用具に改善が施されていったのである。

 更に付け加えると、城塞の数が増していき、その規模が拡大することで、歩兵で構成される守備戦力の必要性が増し、ますます野戦で信頼できる歩兵戦力を維持するための資金が失われた。これは野戦軍を小規模にする要因であるとともに、野戦における騎兵の優越を持続させる要因となり、重装騎兵を野戦軍の主力として頼りとする風潮に拍車をかけた。そして城塞の攻防においては、機動性に欠けるが重装甲を誇る戦士階級の歩兵が、投射兵器を操る兵士と並んで、重要な役割を果たした[98]。彼らは攻撃においては、投射兵器を物ともせずに城門へと強襲を仕掛けることができたし、防御においては、質の低い守備兵を鼓舞する中核となった。これも騎士に代表される戦士階級に依存する軍事システムを重視する方向への発展を促進する要因であり、当然ながらこれらの戦士階級は野戦ともなれば重装騎兵となり得る兵士たちであった。

 また多くの城塞が、ヴァイキングやマジャールのような襲撃者たちから国境地帯を防衛するために築かれた様々な築城陣地から派生したという側面も重要である。ホフマン・ニッカーソンは、封建制が九世紀頃の、このような襲撃者から辺境を守るために生まれたと指摘している[99]。突然の襲撃に対して迅速に対応するには、現地の大小様々な地方領主たちを主力とした軍を集めるのが、連絡手段も移動手段も限られていた当時において最も適当な軍制であった。築城陣地には召集された歩兵が配置され、封建軍がこれを救援した。そして、このような緊急時の援軍対応において最も役立つ兵種は機動力のある騎兵であり、築城陣地は時を経て地方領主の城塞となっていったのである。

 以上のように中世ヨーロッパにおける「城塞の時代」は、「騎兵の優越」と矛盾するものではなく、むしろ中世ヨーロッパ的な重装騎兵が会戦の主役になるための前提条件を整えるものであった。しかし城塞と騎兵の関わり合いは、会戦における騎兵の活躍を後押しするだけにとどまるものではなかった。その関わり合いは、もっと広範囲な戦略的、あるいは社会的なものであった。それは百年戦争において特にイングランド側がもちいたことで有名な「騎行」に代表される略奪遠征など、地方社会を荒廃させた大小様々な戦時の収奪への関与である。

略奪と騎兵

 会戦における重装騎兵の激突は騎士道の華であったが、一方で戦争の現実は戦地で命令の有無にかかわらず行われた略奪であった。騎士道は民衆に適用されるものではなかった。中世末期、ヘンリー五世は「焼き討ちのない戦争などマスタードのないソーセージほどの価値もない」と豪語する[100]。イングランド軍が行った「騎行」は十四世紀半ばから十五世紀半ばまでの百年戦争において特に知られる大規模な略奪行であるが、この用語の歴史はもっと古く、早くも十三世紀前半には使われ始めており、百年戦争に限定されるものではなかった[101]。また、「騎行」という用語が使われていなくとも、それは類似の行動が諸国で行われていなかったことを示すものでも決してなかった。ブラッドベリーは城塞をめぐる戦争において「焦点となる拠点周辺の荒廃は、防禦側に物資を与えることを防ぐためにおいても、攻撃側が略奪することを防ぐためにおいても、不可欠であった。最初に周辺地域が荒らされ、それから城塞となるのが当時の戦争の公理である」[102]と述べる。

 つまるところ、数量的に攻城戦が主となった「城塞の時代」の戦争において、しかも騎兵の割合が軍の規模に比して高かった中世ヨーロッパの軍隊において、略奪は戦争を成功に導くための現実的な手段として常に軍事行動に付随するものであった。ほとんどの場合、当時の貧弱な輸送能力では、自軍を後方から支援し続けることは不可能であった。随伴輜重からの補給にも限界があった。たとえ充分な食料を輸送することができたとしても、騎兵を維持するために必要な馬糧は、その容積上の問題から現地で手に入れるほかに術はなかった。現地で購うにしても、行政能力と権力において未熟な中世ヨーロッパの軍司令官たちは、基本的に多額の軍資を持てなかった。それどころか彼らの懐は、召集に応じた味方への報酬の支払いすら滞るほど心許ないものであり、兵士たちは略奪を通して戦争という事業の利益を確保しなければならなかった。また略奪は単なる給養の手段ではなく、攻撃の手段でもあった。既に説明したとおり攻勢側は、守備隊が立てこもる城塞を迅速に攻め落とす能力を持たなかった。しかし、その周辺を荒らし回ることはできた。このような攻撃的な略奪は、短期的には敵軍を誘き出す効果があり、長期的には領主の権威に打撃を与え、その兵員、物資を消耗させて防衛力を低下させ、その先には城塞の奪取と征服が見込まれた。

 特に短期的な敵軍の誘引効果は、前述した会戦が生起する場合の例外事項になった。略奪行の最中、とりわけ略奪後に戦利品で機動性を低下させた遠征軍は防勢側の軍に捕捉されやすく、クレシーやポワティエのような会戦を生起させたからである。一方、守備側からしても焦土戦術は、長期的な不利益を加味するとその場しのぎになりかねないが、それでも有効な選択肢であり続けた。「まず土地を荒廃させよ(そうして)食料となり得るものを(敵に)何一つ残すな」とは十二世紀、フランドル伯フィリップの側近の言葉である[103]。

 このような略奪の規模は、百年戦争でイングランド軍が行ったような全軍をもって行うものから、免状の有無にかかわらず行われた傭兵団による中規模なもの、数名の兵で行われた小規模なものまで大小様々であった。しかし、ほとんどの場合、それは武力によって強制的に行われ、騎兵はそれにもっとも適した兵種であった。騎兵は少数であっても、戦い慣れない農民の集団を大いに威嚇することができた。その機動性から標的とした村落や街に、住民の逃亡や妨害を許すことなく侵入し、略奪の正否にかかわらず、領主が派遣した救援軍に遭遇することなく、逃げ去ることができた。速度こそが重要であった。彼らは迅速に機動して待ちかまえる敵軍との接触を避けた。この作戦行動においては、陣地を保持することや、長々とした攻囲は不要であった。それはまさしく古今東西の戦史が示す、騎兵が持つ機動力がもっとも役立つ任務であった。そして、給養や戦略上の必要から、あるいは戦利品への欲望から、中世ヨーロッパの騎士道は、普遍的にそのような価値観が時代を通して存在したのか実のところ疑わしいが、略奪を止める力を持たなかった。

 エドワード黒太子の側近チャンドスは「イングランド兵は何もかもを劫火にくべることを楽しんでいる」と報告する[104]。また、十二世紀の詩人は騎士が戦争を好むこと甚だしいと非難して「彼らは戦うことなく二つの都市を降伏させるよりも街一つを焼き討ちするだろう」と述べている[105]。加えて、教会すら聖域とはなり得ず、辺境は無法の地となった。こうして襲撃の規模や数が増していくと、地方領主たちは有効な手を打つことができなくなった。十四世紀になるとオノレ・ボレットは「近頃のあらゆる戦争は貧しく働いている人々に、その所有物に、その家財に対して向けられている。これは戦争と呼ぶよりも、略奪や強盗と呼ぶべきものだと私には思われる。このような戦争のやり方を押し進めることは、正義を、そして未亡人や孤児や貧者を守る、誇りある騎士道の定めるところに、あるいは高潔な戦士の古き流儀に、従うものではない」と嘆くことになる[106]。それほどまで、毎年の収穫に生活の多くを依存する農村や地方社会への影響は、大惨事の一言に尽きるものであった。そして戦争の嵐が過ぎ去ると、飢餓や疫病が、その後に続いた。騎兵はこの災厄をもたらす中心的存在として、人々の心に恐怖と共に刻まれた。ディ・マルコは述べる。「地域全域にわたる騎行の荒廃効果と、それが生み出す恐怖は、おそらく会戦での重装騎兵の業績に匹敵するほど、騎兵の軍事的支配を感じさせる働きをした」[107]と。

 略奪は政治的あるいは軍事的な効果以上の印象を社会全体に与え、騎兵はその文脈において他の追随を許さない存在となった。中世ヨーロッパにおける騎兵の優越を語る上において、このような側面を見過ごすことは決して許されるものではない。

終わりに

 中世ヨーロッパで騎兵が優越していた時代は、間違いのなく存在した。それは「城塞の時代」と対立する概念ではなかった。会戦に勝利できる野戦軍を持つことは、城塞を攻めるにおいても守るにおいても、不可欠な条件であった。しかも城塞がもたらした戦略的環境は、騎兵戦力を提供する騎士に代表される封建制に基づく地方の戦士階級を、軍の基盤に据える要因となった。また、騎兵は機動力が戦争において必要とされたから軍の中心となった。加えて、領域的に一貫した行政の不在は歩兵の能力を低下させ、騎兵は会戦にあっては重装騎兵として勝敗を決定づける役割を担うようになった。騎兵ではないにしろ、下馬した騎士たちは、装甲歩兵として攻城戦において、あるいは特定の条件下で、野戦においても際だった働きをして騎兵を提供する戦士階級の存在価値を高めた。戦略的役割に目を向ければ、城塞の防御力が著しい当時にあっては、敵を消耗させることがもっとも優れた方針であった。これは戦域の略奪を意味し、騎兵はその中心的存在として猛威を振るった。騎兵は決して歩兵に対して優れていたから、中世ヨーロッパにおいて軍事的優越を手にしたわけではなかった。まったく別の次元において、中世ヨーロッパは騎兵の時代であり、上記のような条件下でこそ中世ヨーロッパの騎兵は輝くことができたのである。それ故に、マイケル・ハワードの次の言葉は、技術的な面において過大評価があるものの、正当であると考える。
「中世における騎兵の優越は、技術的であるとともに、道徳的で社会的なものであった。その機動性のゆえに発展し、全面的な社会的・経済的支配を与えられた結果、騎兵は、何世紀もの間軍事活動の実権を握ったのである」[108]

※本稿は『十四世紀の歩兵革命の記事と合わせて読むことを推奨する。


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