サディスティック・ポリリズム

 ポリリズムとは何か、その美学とは何かを考えるときに、真っ先に思い浮かぶのは「騙し絵」である。同じような考えをお持ちの方は少なくはないと思う。「複数の要素が同時に共存している」。音楽とは樹木のように、まずリズムがその主幹を形成し、メロディが花や葉のようにそれを彩るといった関係性で成立しているが、その幹=リズムがそもそも単一、一本ではないというところから、その存在自体の奇抜さが際立ってくる。騙し絵にも、これと定まった「見方」というのは存在しないのだ。ある一つのなにかを描いているわけではない。

 ただ面白いのは、絵にはない要素をポリリズムは持ちうるということである。それは「明確な主従関係」である。有名な騙し絵のひとつに「アヒルとウサギ」、「娘と老婆」がある。これらは全て、共存するそれら二つに主従関係はなく、無意識にその絵を眺めたときに「どちらがまず目に入るか」というのは、ある種それを「観る側」に委ねられている。絵自体がその優先順位を「かくあるべき」と主張してくるわけではない。もちろんその絵の描き手には、何らかの意図はあるのかもしれないが、それはあくまでその輪郭をぼやかして我々の眼前に立ち現われる。

 作り手に何らかの意図がある、という点では、音楽も絵画も同じなのであるが、ポリリズムと騙し絵のそれぞれにおける「"共存"の見え方」には、やはり差があると言わざるを得ない。それはどのようなところに生まれるかというと、奇しくも、ポリリズムが音楽である―すなわち、時間の経過という要素に依拠しているというところである。

 絵画には、その存在に時間という要素は関わってこない。我々が絵画を鑑賞するとき、その全ての情報は、一度に立ち現れる。他方、音楽、一つの楽曲の持つ全ての情報を「一度に」得ることは不可能である。先ず4/4のリズムが情報として我々に提供される。そしてそれがこの楽曲のリズムを構成する主軸、主幹であると認識させられたころに、5/4、3/4といった異なるリズムが顔を出し始める。ここには必ず順序が存在し、すなわち時間もまた存在する。そのなの流れに身を任せながら、我々は悪趣味にも「混乱」を愉しむのである。

 絵画は、その前に立ち止まって、受け手のペースでそれを解釈することができる。その時、ある意味でその場の時間は「止まって」いる。しかし音楽は、それを許さない。我々を休ませることなく、流れ続ける時間に乗って、次から次へと混乱の素ともいえるポリリズムを耳孔から脳髄へと流し込んでくるのだ。そこに現れる、サディズムとマゾヒズムのそれにも似た関係性は、主観客観を問わず、非常に官能的で興味深く、面白い。

#短文 #エッセイ #音楽 #リズム #ポリリズム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?