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物語依存症?①

どんな文化、どんな時代にあっても親は子に”物語”を聞かせる。僕らの周りにはたくさんの”物語”が氾濫している。神話や御伽噺、映画や小説や漫画、それから政治や歴史、宗教も”物語”である。詰まるところ、人は物語が大好きなのだ。

そして、人は(脳?)は様々な事柄に”物語”を見出す能力を持っている。実際には何の関係もないある事柄とある事柄の間に何か関連性を見出してしまう。占いやスピリチュアル的な言説をまともに信じるかどうかはさておき、その思考パターンは誰もが身に覚えはあるだろう。

偶然を必然と捉え直すような行為をよくしていると自分でも思う。否応もなく、再現性のない因果関係を構築してしまう思考。

例えば、自分の人生。

自分自身、自分の人生には物語があり、意味があると思っている。
“過去の様々な出来事や体験があり、今の自分がある”。
陳腐なセリフだが多くの人はそう思っているだろう。これはつまり再現性のない因果関係の構築であり、過去や現在の自分に対して物語的な意味を与える事でもある。そうやって人は生きている。

このどうしようもなく物語を見つけてしまう人の性について、少し別の角度から話を進める。

シミュラクラ現象

この画像を見ると思わずに見えてしまわないだろうか?
これは”シミュラクラ現象”と呼ばれる。脳の過敏すぎる顔探知システムの副産物である。

進化論的に考えると、この3点が顔に見えるほど過敏な認識システムを持った個体の方が、それを持たない個体よりも生存的に優位であったという事だろう。

それと、これに似たようなもので行為者探知システムというものもある。何か物音がすると、思わずそちらに顔を向けてしまう。そこに何か(誰か)いるのではないか?と。

これらは生存戦略の上で獲得していった能力である。この過敏すぎる探知システムの副産物として、原始的な宗教が生まれたのではないのかという説もある。風や波などが引き起こす自然現象を見るにつけ、そこには認識することは出来ない人智の及ばぬ何か(=神)がいるのではないかと。脳の過敏すぎる探知システムは、”不在の行為者”を発見してしまったのである。(この辺りはジョナサン・ハイトの”社会はなぜ左と右にわかれるのか”に詳しく書かれているので是非そちらを参照してください)。

これと同じように、脳は様々な現象について物語を見出してしまうのではないかと考えている。

とりあえず眠いので今夜はひとまずここまで。。








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