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映画「君が君で君だ」を観た。


「君が君で君だ」という映画を観た。
公開時期も知らず、なんの事前情報もなかったが、ただなんとなくアマゾンプライムを徘徊していたら見つけた映画だった。
実のところ、ポスターもそこまでしっかり見ていなくて、ただ、3人の男の眩しいほどの笑顔とあらすじの不穏さに惹かれた。

1時間44分後、わたしは自分の中の価値観がすべて洗濯機でぐるぐるにかき回されたような気分で茫然とエンドロールを見つめることしかできなかった。
こんな映画が作られた、こんな時代に、生きている自分が、あまりにも奇跡だと思ってしまった。

1人の女性を愛した3人の男の愛の話である。
しかしその愛情表現は、明らかに法の一線を越えたもので、彼女の向かい側の部屋で彼女自身には一切干渉せず、10年間ひたすら観察し続けるというものだった。

彼女のゴミを拾って持ち帰り、部屋を盗聴し、彼女が食事をするタイミングで食事をし、彼女がトイレに行けば3人ともトイレにかけこみ、常に彼女と同じ時間を過ごす。
彼女と出会い、これまでの人生、自分自身の名前すら捨てた3人は、それぞれ彼女が好きな「尾崎豊」「ブラッド・ピット」「坂本龍馬」を名乗る。
どう考えても気味の悪い異常な行為なのだが、3人の世界は実に真剣で幸福そのものだった。
そして、10年経ったある日そんな3人の「異常な日常」が崩れ始める…

こういう内容なので、観る人をかなり選ぶ映画だと思う。
おそらく嫌悪感を抱く人も多い行為が散見されるので、無理だと思った人は視聴を中断することをおすすめする。
 

以下、盛大にネタバレをしながらこの映画の魅力や感じたことについて映画の流れとともに自分の思いを書いていきたい。

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姫との10年

物語は10年前に遡り、姫との出会いから始まる。
姫というのは、男が愛した女性のことである。名前は「パク・ヨンソン」(キム・コッピ)。日本に留学している韓国人の女性だ。
柄の悪い若者集団に絡まれる姫を助けようと返り討ちにあった男2人に優しく笑いかける彼女は姫そのものだった。吊り橋効果も相まってこれはもう恋に落ちる。

その後、この2人の男は「尾崎豊」(池松壮亮)と「ブラッド・ピット」(満島真之介)と名乗り、彼女を一方的に「姫」と呼ぶことになる。
ここにもう1人の男が参加するのだが、それは「姫」に振られた元恋人だった。それが「坂本龍馬」(大倉孝二)であった。

3人は姫の住む向かい側の部屋で生活を共にし、姫を守る「兵士」として暮らし始める。
10年も経つと、もはやその部屋は1つの「国」だった。

姫の生活を10年見守った3人だったが、
姫の暮らしぶりは平穏とは言い難いものだった。
それは、姫のクズ彼氏「宗太」(高杉真宙)の存在が起因していた。
宗太の作った借金を代わりに返済する彼女は、夢だった日本語教師を諦め、風俗で働くこととなる。
借金取りは彼女は荒々しく責め立て、日に日に姫は疲弊していった。

尾崎、ブラピ、龍馬は「姫には干渉しない」
というルールのもと彼女を見守り続けた。
好きな女性が、クズ彼氏の為に転落していく様を一体どのような気持ちで見ていたのだろうか。
わたしは、物語の序盤ですでになんとも言い難い気持ちになった。

やっていることはストーカー行為そのものなのだが、この10年という時間の重みを前にしてひたすらに10年という時間を想像してしまう自分がいた。


3人の「愛」の違い

結末として、この3人の暮らしは終止符を打つこととなる。
3人の生活が崩れ始めるきっかけとなったのが、借金取りとの接触だった。
ここから3人はクズ彼氏・宗太とも接触することとなる。

映画を観ているとなんとも興味深いことを発見する。それは3人の愛の違いだった。
まるで宗教のように同じ部屋で姫を観察していた3人だったが、この3人の愛の形は決して同じではなかった。
結果として彼女への向き合い方、手段が同じだっただけなのだ。


ブラピは、10年前に姫に出会った時から姫にひたすら恋をしていたのだと思う。
しかし、姫に出会う前、彼女に振られヤケになっていた彼の傷ついた繊細なメンタルを鑑みるに、積極的に彼女に接触を図るのは難しかったのだろう。
それが拗らせた結果、10年間のストーカー行為に及ぶこととなるのだが、龍馬のように姫に接触もできず、尾崎のように姫のすべてを受け入れる自信も喪失したブラピはなんともあっさりとこの「国」から降りることを自ら選んでしまう。
彼のメンタルは10年前の20代の頃から止まっていたのかもしれない。
あまりにもまっすぐこの異常な行為にのめり込んでしまうブラピの精神性は余りにも若いように感じた。
映画終盤、尾崎に対して「先に免許取っちゃいなよ。身分証明にもなるし。仕事の幅広がるから。まだ31やから。そんなの周りにごろごろいるって。」と発言したことからも、
彼はやはり「国」の外で、未来に生きることを選んだ人間である。
それにしても、彼のさっぱりとした物言いや視線のギャップは凄まじいものがある。

「愛情を超えた、愛情の先にある、もっと深い愛情なんて、言葉じゃ足りんくらいの、何かで守ってあああああああ!!なあ!!すべてを受け入れるんや!おい!すべてを受け入れろ!なあ!尾崎!」
彼は愛との向き合い方を間違えたのかもしれない。
しかしある意味前向きな人間である。

「重くてごめん、好きすぎてごめん、守りたくてごめん…ごめん…。」
「お前なんかじゃなきゃ無理なんだ。」
「ソンはもう限界なんだ。」
「姫を見殺しにするのが俺らの正義なんか。」

3人の中で、姫と唯一深い関わりがあった人物、龍馬。彼は、姫が学生時代に恋人関係にあった。
姫にこっぴどく振られながらも、周りの目を気にせず必死に縋るその姿は見ていて哀れだったが、視聴者が3人の中で最も感情移入しやすい…共感できる存在だったのではないだろうか。
尾崎とブラピに誘われ、なし崩し的に始めた生活だっただろうが、
彼は最もこの生活において「姫を守る」ことに責任を感じていたのではないだろうか。
物語序盤で、姫の不遇に耐えきれず大声で泣いたりするなど、彼にとって「姫に干渉しない」というルールを守ることは苦痛だったように思う。
そりゃそうだ。一度付き合っていたのだから。好きな女性が毎日風俗で働くことを、他の男を想って泣くことを、見守るなんて拷問に近い。むしろ彼の反応が正常だろう。
劇中、本名を捨てたはずにもかかわらず、自分の名前を間違えられた際に「田辺です。」と直すシーンからも、彼は現実世界に生きていたかったのだと思う。
それでも、自分では姫を守ることができないから「兵士」として彼女を見守ることを選んだ彼の首についた重い枷の、なんと皮肉で悲しいことか。
物語終盤、見守ることに耐えきれず姫に干渉しまくる彼だが、彼の愛はどうしようもなく情けないくらいにただの愛だったのだ。


「そんな姫かわいいやん」
「どうせ抱き締める程度でしょ。あいつは抱き締める程度でしょ。」
「私は食べるよ。だって姫の気持ち受けとめたいもん。」

この映画に一番の衝撃、そして価値観の破壊を与えたのが尾崎という人物。
映画を観た人なら分かるだろうが、化け物である。
彼の存在なくしてこの映画は語れない。
池松壮亮さんの演技の素晴らしさは別の記事でたっぷり語りつくしたいほどだが、この人物、本当にヤバい。
尾崎自身の、物静かで冷静な性質が序盤まで彼を普通の人間にしていたよう思ったが、むしろこの「国」での生活を始めるまで彼は普通だったのだろう。

姫との出会いの後、明らかに恋を自覚していたブラピとは異なり、
尾崎は自分の胸のうちの感情に名前をつけられないでいたように思う。
姫の住む部屋の向かい側の部屋を借りたブラピに対してはじめに困惑の表情を見せていたことからも、彼はだんだんとおかしくなっていたことが分かる。
(このおかしいという表現も、映画を観た後では正しいのかどうか分からないのだが。)

彼は、ブラピや龍馬とは違い、自分自身の感情を明確に自覚できていなかった。
ブラピが尾崎に言った、「人を好きになったことないくせに。」という言葉や、学生時代のビデオに映っていた尾崎が「かわいい彼女が欲しいです。」と言っていたことからも分かるように、恋愛経験はほぼないに等しかったのではないだろうか。

愛情に関して、生まれたばかりの赤ちゃんだ
ったのだ。
そんな柔らかで最も脆く危うい状態のまま、彼は望んだわけでもなく、10年間1人の女性の人生を見守り続けたのだ。
彼の愛の形が歪んでしまうのも仕方ないのかもしれない。

映画を観れば観るほど、彼の異常性が露わになり、わたしはぞっとするのと同時に、「これが彼の愛なんだ」と理解してしまった。
何があっても見守り続け、彼女のすべてを受け入れることが愛。
彼女に干渉し、何かを欲することは尾崎の愛に反していたのだろう。
姫の自殺(結果として未遂)を止めもせず、ただ見守り、姫の全てを受け入れる為に髪を食べる…常人には理解できない域に達していた。

しかし時折、尾崎の心象世界が展開されるのだが、そこで尾崎は姫にプロポーズし、2人は愛し合っていた。
尾崎は姫に干渉したい気持ちがなかったようには見えない。
彼は、姫を守る兵士の自分と、姫に干渉する自分を完全に切り離していた。
途中から、龍馬がつけていた枷を自分でつけるようになることから、やはり尾崎は姫に干渉したい自分を無意識に抑えつけていたのかもしれない。
物語終盤、やっと尾崎は姫に話しかけるのだが、そのシーンのなんと不器用で拙く、切ないことか。
ボロボロでひまわりを差し出す彼は、優しい愛を知らない怪物のようだった。


映画そのもののクオリティの高さ

この物語は、3人の男と1人の女性を中心に描かれる。
というか、それ以外の主要な登場人物は数える程度しかいない。

明らかに異常な愛なのだが、何故だかわたしはこの愛の物語を否定して視聴をやめることができなかった。
まず、映画そのもののクオリティが非常に高いのだと思う。
ほとんどがボロ家の一室で繰り広げられる出来事とは思えないほど、広がりのある空間に感じられた。

そして、この映画は視聴者を置いていくような独りよがりなものでは決してないのだ。
そこがこの映画の魅力の一つだったと思う。
俳優の演技も、とても真に迫るものがあり、何よりこの映画に関わる人々すべての真剣さというか迫力が伝わってくる。

おかしいのに何故か感情移入してしまうこと

3人の男の愛は非常に興味深い。
しかし、個人的にこれまた悲しかったのが姫のクズ彼氏・宗太の存在だった。
はじめは、よくいる「元々クズな男」だと思っていたのだが、物語が進むにつれそうじゃないことがわかる。
いや、結果的に彼女を風俗で働かせて借金を肩代わりさせているのだから、クズには違いないのだが。
映画では姫と宗太の出会いのシーンも描かれる。
そこにはただの恋人同士が映されていたのだ。
普通に出会い、普通に姫を助け、普通に恋をして、普通に付き合い、楽しく日々を過ごす2人が。
尾崎、ブラピ、龍馬ができなかったことをやったのけたのが宗太だった。

姫と宗太の関係がおかしくなったのはミュージシャン志望の宗太を支える為に、姫が自ら夢を諦め、金銭的な支援をすることを宣言し、しかもそれが自分の幸せだと言い放った瞬間からだった。
わたしはその時の宗太のなんとも言えない悲しい顔が忘れられない。
長い年月で2人の関係は変わってしまった。
宗太は尾崎に、自分たちの過ごした日々、変わってしまった重みを訴えた。
しかし、尾崎はそれも知っていた。そう、10年間見ていたから。

宗太に対して、まるで姫本人かのように姫の想いを語った尾崎は、10年間の年月を経てもはやほとんど姫と同化していた。

姫と過ごし、少しずつ歪んだ関係を続けた宗太と、その時間をひたすら見守り続けた尾崎たち。姫を救うことが誰にもできなかったのがやりきれず、悲しい。

映画の中のわたしたちの存在

姫の借金取り、恐らくヤ●ザの友枝(向井理)と姐さん、星野(YOU)の存在もこの映画の“観やすさ”の点で外せない。

彼、そして彼女はわたしたちなのだ。3人の異常な愛を嫌悪し、馬鹿にする友枝も、3人の愛を否定することなく最後まで見届ける星野も、わたしたちなのだ。この友枝と星野は映画の中では2人の人物としてそれぞれ描かれたが、現実世界のわたしたちに置き換えるとこの2人は1人の人間の中に同時に存在すると言ってもいいのではないだろうか。わたしたちは、異常な愛を理解できずに否定するし、そしてある意味理解したいと思う気持ちだって存在する。

「あんなの愛じゃないでしょ。気持ち悪い。」

尾崎、ブラピ、龍馬の愛を馬鹿にする友枝に、それはお前の愛が半端だからだと諭す星野。
しかし後日友枝は「俺は半端がいいっすわ。」と言う。
わたしもそう思う。この発言で救われた者は多いのではないだろうか。
友枝の存在はある意味この映画の救いだし、優しさだし、同時にどんな愛も否定できない証明だとすら思った。


「どうせ抱き締める程度でしょ。」

抱き締めることが愛。
わたしは抱き締めることは当たり前の愛情表現だと思っていた。おそらく、ほとんどの人がそうなのではないだろうか。
しかし、尾崎の放ったこの言葉が何より深く胸に刺さり、映画を観終えて数日経った今でもこの言葉が忘れられない。
まるで、触れること、抱き締めることが、どうしようもなく浅はかな愛情表現だと言うように吐き捨てる尾崎の、不器用で真っ直ぐで歪んだ愛の姿を思い出すからだ。

姫に差し出したはずのひまわりを食べ、海の中でもがくシーンは明らかに異常そのものであるはずなのに、美しいとしか形容できなかった。

映画ラスト、尾崎は姫と結ばれるシーンを想像しながら空港に向かう。姫が韓国に帰国するからだ。
その時すでに3人の国は崩壊したのだが、尾崎だけが姫を守る兵士を辞めることができなかったのかもしれない。

このまま韓国に行くのか、行かないのか、そして韓国に行って姫に「干渉する」のか、それともまたしても「兵士」として彼女を見守るのか…わたしには分からない。

しかし、わたしはこの先を深く想像し、考察することはしたくないと思った。
姫を10年間見守った尾崎たちの愛、を見守ったわたしだからこそ、
これは愛であると言い切ってしまいたかったからだ。



(おまけ)

劇中、
3人の大の大人の男が歌って踊り狂うシーンや、池松壮亮さんの割れた腹筋にブラジャー姿、髪を食べる池松さん、ひまわりを食べる池松さん、池松さんと満島さんの謎タイミングでのキスシーン、向井理さんの脱色眉毛がかっこいい…
他にもいろいろツッコみたい部分が山ほどあるのですが、この一見おかしなシーンたちも愛を前にするとなんだか普通に見えてしまうのがおもしろいところですね。
この映画に出会えてよかったです。
この映画に関わる方すべてに、感謝です。

とても励みになります。たくさんたくさん文章を書き続けます。