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好きなことができなくなったら

 

 文章が書けなくなった。
 いや、正確には、“自分のための文章”が。

 noteで定期的にエッセイを書くようになったのは2020年頃からだったか。
 生活の中で気づいたことや見つけた愛について記していたら、ありがたいことに読んでくれる人がいた。
 本質的な価値は数字じゃないとはいえ、「スキ」が増えるとうれしい。noteで記事を公開することが楽しくなった。

 わたしはちょうどその時、人生に大いに迷っていて、生きるのにかなり必死だった。
 だから、文章を書くことで自分の心の声に耳を傾けることができたし、不器用なりに生きている意味を見つける作業だったのだとも言える。

 わたしには書きたいことがたくさんあって、それを形にする時間がいくらでもあった。

 変わったのは、昨年の頃だ。
 エッセイを書き始めて、書く楽しさに取り憑かれたわたしは「書くこと」を仕事にしたいと思い、幸いなことに“ライター”という仕事を通して、それを叶えることができた。
 会社員時代のお給料とは比べ物にならないけれど、それでもなんとか今日まで続いている。
 仕事で書く文章は、結構かっちりとしていて、普段書いているエッセイとは全くの別物だ。
 書きたいことはなくならないだろうし、ひとりの作家として、エッセイはエッセイで続けていこうと思っていた。

 けれど、見立てが若干甘かった。
 確かに「書きたいことがなくなる」ことはなかった。ただ、単純に書く時間が減ってしまった。
 それと、書く体力。いや、厳密に言うと体力ではないのかもしれない。 

 おそらくだけれど、「書く」作業には、体力ではなく……いわゆるMPと呼ばれる、「マジックポイント」が必要なのだ。
 わたしの「文章を書くMP」は、もっぱら仕事にあてられ、自分のためのエッセイに使われることが少なくなっていた。

 それを、心のどこかで「どうしようか」と考えていたものの、気にしないようにしていた。
 自分のために“好きだから”書いていたはずのエッセイを、「書かなくちゃ」と思ってしまうのもいやだったから。
「スキ」をもらうのは本当にうれしかったけれど、それが目的になってしまってはいけない。noteに記事を投稿することを、義務のように感じてしまうのは不幸だと思った。

 だから、また気が向いたときに書こう、そう思った。
 そうしていたら、結構な時間が経ってしまった。

“自分のための文章”を書けなくなってしまった理由は、真剣に分析すると他にも要因はあると思う。
 それは良いとか悪いとか、幸、不幸ではなく、事実として「たぶん、こういうことも理由のひとつだろうな」という心当たりがいくつか浮かぶ。
 いまはそれらを挙げ連ねることはしないでおこうと思う。

 自分のための文章を書かなくなって、少しばかり自分の中に変化があった。

 それは、書けないかわりに「積極的に色々な作品を見るようになったこと」。
 ここ最近は映画や小説、ドラマ、漫画……ジャンル問わず、色々な作品を手にとってみている。
 これまでのわたしはと言うと、もちろん作品に触れることは好きだけれど、どこか腰が重い部分もあった。

 作品を鑑賞する。それはつまり自分の時間を奪われるということでもある。
 だからこそ、以前のわたしは「せっかくなら失敗したくない」と、変に神経質になって作品のレビューを舐めるようにチェックしたり、「本当に今これを見るべきなのか」と自問自答したり、そんなことを繰り返していた。
 そうこうしているうちに段々と面倒になり、結局何にも触れることができず終わる……ということが多かった。

 けれど最近のわたしはどういう風の吹き回しか、「時間が奪われようとも、おもしろくなくとも、別に良いか」と軽い気持ちで映画や小説の世界に耽っていることが多い。
 やはり全ての作品が「大成功だった」と終わることは少ないけれど、そのおかげでこの数ヶ月はたくさんのコンテンツに触れることができた。
 言い方を変えると、「インプット」だ。でも、別に「勉強しよう」と思って鑑賞しているつもりはない。

 今のわたしは喉が渇いて水を求めるように、ごく自然とそれらを摂取している。それは自分にとって新鮮な感覚だった。

 とはいえ、このまま時間の流れに身を任せていたら、本当に仕事の文章しか書かなくなるのでは、と思ったので、8月頃から日記を書きはじめた。

 日記を書くのは会社を休職していたとき(「本日、きゅうしょく日和」)以来だった。
 
 久しぶりだったため、はじめる前に自分なりのルールを決めた。

 それは「正しい日本語や綺麗な文章を書こうとしない、誰かに見られることを意識しない、書けない日は書かない」だ。

 とにかく、力技で「自分のために書く」動作を思い出したかったのかもしれない。
 良いものを書こうとしすぎると、億劫になっていくだろうから、乱暴でも良いから思ったことを素直に書いていこうと決めた。

 いま、2ヶ月ほどが経過した。
 案の定、書けない日は相変わらず全く書けていないけれど、普段noteで公開しているエッセイより拙くも、反射的な文章が並んでいる。
 どうでもいいことばかり羅列されていることがほとんどだが、後から読むと、意外と芯を食っているようなことが書かれているときもある。

 自分はエッセイを書くときは常に“落とし所”を決めているつもりなのだけれど、日記にはそういったものがあまりない。
 近頃めっきり仕事のために整えられた文章ばかり生成していたから、その無秩序さにどこか安心感を覚えた。

 言うなれば、これはリハビリだ。

 今書いているこのエッセイだって、実はオチなどない。

 ただ、今衝突している問題、端的に言うと「仕事の文章ばかりで、自分のための文章を書けなくなった問題」は、自分の人生においてはじめてのことで、それを簡単に「こうしたら解決しました、チャンチャン」と終わらせるのはあまりにも勿体無いような気がするのだ。

 わたしは元来、負の感情や出来事を負のままに残しておくことに抵抗があり、どうにかプラスに変えようとするきらいがある。
 そのために、結論を急いでしまったり、自分の中の苦悩をすぐに排除しようとする。
 それは生きていく上でとても大事なことだけれど、苦悩や障害と上手く付き合う方法をのんびり探すのも悪くない。

 だからこそ、自分の未解決の苦悩をあえてここに残しておこうと思った。



 わざわざ宣言するほどのことでもないけれど、件のリハビリのような日記をnoteにときどき公開しようと思います。


とても励みになります。たくさんたくさん文章を書き続けます。