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専業主婦がいなくなった日

専業主婦の年収は…

『専業主婦を職業として捉えた場合、年収は◯◯◯万円です!』という話を聞いたことがあります。

正直な話、私はその説に対して絶対的に【反対派の立場】です。
【専業主婦】という括りだけで仕事量や仕事の質・収入が決まるならば、【社長の年収は3000万円】です。【サラリーマンの年収は300万円】です。

…そんな滅茶苦茶な括りですら成立してしまう。

一言で社長と言っても、年収0円の社長がいるし、年収5000万円の社長もいます。
年収が240万円のサラリーマンがいれば、年収1000万円を超えるサラリーマンもいます。
その収入の差は一体何なのでしょうか?


例に習って『△△職の年収は〇〇万円』と言ってしまうならば、平均や中央値を取って算出することは可能であると言えますが、『□□の仕事を年収換算した場合は…』という暴論は働いたことのない人や正社員、自営としては働いたことのない人しか飲み込むことのできない、あまりにも酷すぎる話だと感じてしまいます。

年収300万円のサラリーマンがみんな仕事に対して手を抜いているでしょうか?
年収1000万円のサラリーマンはみんな死ぬ気で仕事をしているのでしょうか?
答えは”NO”ですよね。



そもそも今の日本は、必ずしもその人がこなした仕事量=収入の差となるような甘い世の中ではありませんから『専業主婦の仕事を年収換算したら?』という質問は『社長の仕事を年収換算したら?』とか『丸の内で働いているサラリーマンの年収はいくらですか?』みたいな意味の分からない質問と同じ様なものなんです。


専業主婦は必要な存在

私は決して専業主婦が悪いと言っているわけでも、楽な生活を送っているだろうと言っているわけでもなく、専業主婦を仕事として捉えて年収がどうこう言うのは可笑しいということを言いたいのです。


私は寧ろ、専業主婦は居た方が良いと考えている側の人間であり、否定したい気持ちは家事や育児を"年収"という物差しで測ろうとした人物に対しての感情です。
家事や育児は仕事ではないからこそ成り立つのであって、そこに意味や価値を求めてはいけません。
意味や価値がないからこそ不完全でも許されたり、家族みんなで手伝ったり、夫婦で分担したり、支え合ったりして生活していけるのです。

家事と育児は仕事ではない

諄いようですが家事や育児はお金のためにするわけではなく、自分や家族のためにするものであり、間違っても赤の他人のためにするような【仕事】ではありません。


ですが、『仕事ではないから』と言ってあからさまに手を抜いたり、サボったりするようなことはいけません。
家事も育児も仕事ではないので、それだけをしていても馬鹿にされたり、『お宅は楽で良いわね』みたいに貶されることもあるでしょう。


例え仕事ではないとしても、それでも家事や育児をしてくれることを厭わない、思いやりを持って家族のために尽くしてくれる人が1人でも居てくれたら、家族みんなが幸せになれる可能性が上がることは間違いありません。


専業主婦が居なくなった日

私が思い浮かべる理想の家族。
夫兼父は外に働きに出る。
妻兼母は自宅に居て家事や育児に専念する。
子供は何事も自分で考えて失敗を繰り返しながら成長する。


時代遅れだと言われることを覚悟していますが、失敗を繰り返して成長していく子供にとって【休める場所・安らげる場所】は何よりも重要な拠点になるものであり、そのために常にとは言いませんが、母親が万全な状態で待機している必要があるものだと考えています。


確かに親がいなくても、親がだらしなくても、親がいつも疲れていても子供は育っていきますが、それでは私の親としての気持ちが収まらないのです。


とある日、専業主婦である妻兼母が倒れました。



重い病気ではないものの、数か月は病院のベッドで過ごすことが決まり子供たちは大きな不安を抱えることになりました。

自分の子供だから…なのか、その表情を見ていれば手に取るようにわかる。
家がなくなるわけでもない、子供たちのおもちゃがなくなるわけでも、ましてや明日から友達と遊べなくなるわけでもない。
食事だってお小遣いを増やすと伝えたのだから、自分で好きなものを買って食べられるようになるはず。


生活としてはあまり変わらないのではないか?
それなのに、どうしてそんな顔をするのだろう。



その時、子供たちにとって一番必要なのは【母親がいてくれる家】なのだと強く感じました。



夫兼父の負担

専業主婦がいる家庭にとって、【専業主婦】というのは本当に偉大な存在です。
”外で働きたくない”とか”働くより楽そうだから”という考え方を持っている人は除くとして、家族のために専業主婦という立場で我慢している人は沢山いるはずです。

人は誰だってチヤホヤされたいから本当は外に出たいし、専業主婦というだけで貶されたりする日があったとしても、それでも変わらずに家族に尽くす。
勿論その貢献度には各々差はあるものですが、いずれも素晴らしいことです。

話を前節に戻しますが、専業主婦がいなくなった家族はとても大変な思いをします。
子供たちは母親がいることによってできていた【休憩できる場所・安らげる場所】を失い、何かに挑戦することに対して臆病になりました。
無理もありません。
不慮の事とはいえ、失敗したときに身体や心を癒す場所を失ったのですから…
私は【変わってしまった子供たち】にどんな言葉を掛けて良いのか、すぐには分かりませんでした。


そして父親は仕事に加えて家事・育児をこなす必要があります。それは妻兼母が家族に尽くしていた分、より重いものになりました。


或いは妻兼母が日頃から適当な家事や育児をしていてくれたのであれば、大した負担にはならなかったはずですが、それは夫兼父が己の無力さを感じる結果となりました。


ひと度会社に出社すればバリバリのビジネスマンとして、他に抜きんでて高年収を得ることのできる人間であるはずだが、たった2人の自分の子供たちが休憩できる場所を与えてやることすらできない。

育児どころか家事だって『家族のために愛情を持って』なんて考えていられない。


その時、初めて家事や育児そのものが”難しいこと”、”大変なこと”なのではなくて、【家族のために尽くす】という気持ちを持つことが何よりも難しくて大変なことなのだと知りました。


少なくとも、その家族にとって専業主婦である妻兼母は大きな存在であることは間違いありません。
専業主婦の価値は家族次第です。



ですから、専業主婦の仕事を年収で表すと〇〇〇万円!だとか、そういう考え方は邪道なのではないかと考えるに至りました。

【専業主婦】の存在意義は赤の他人が評価するものではないと断言します。



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