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【怒る】と【叱る】

教育や育児の場において良く挙げられる話題。
【怒る】と【叱る】の違い。


敢えて簡単に表すのであれば、実務的な【怒る】とは私情が入っていて、単なる指導のみを目的としたものではない。
ある意味では自分の憂さ晴らしのため、ないし、自分の尊厳や権利を守るために行うものでもあるので、教育や育児などの指導として行うには相応しくない…ということらしい。
怒りを受けた側の人間は恐怖や怒り、嫌悪感を抱くこともあるだろう。


令和の現代では人に恐怖を与える教育は【悪】とされている。



一方で実務的な【叱る】とは私情を挟まず(もしくはごく僅か)、あくまでも対象者自身や対象者から享受できる利益を想って強く指導を行うこと。
仮に自分が怒りの感情を持っていたとしても、それを押さえ付けて済ませる必要がある。


このように書くと、どちらが"道徳的"に良いのか一目瞭然だが、短期的かつ効率的にその結果だけを見るのであれば【叱る】よりも【怒る】方が断然良いだろう。


なぜなら、そもそも他人を"指導"し、他人から"指導"されるという現場で何かを得るのは原則として【受手側】のみであるから。
【怒る】、【叱る】を発信した側に反省することはあっても"劇的で明らかな変化"は見られないだろう。



世の中には注意されることや怒鳴られることに慣れている人が沢山いる。
あまり良い話ではないが、年がら年中、他人から怒鳴られたり叩かれている人に取ってみれば『こんなことしてはダメだよ』というような普通の叱り方では効果は薄い。
では、上手く伝わるように【工夫】をすれば良いのではないか?と考えられるが、他人からの忠告や指導に対して、最初から聞く耳を持たない受取手へ物事を理解させて行動や考え方を改めてもらうことはとても難しいことである。




教育に何十年も費やしている人でも、相手次第では上手くいかない。



そもそも大多数の人はこの【工夫】が上手くできず、結果としてパワーハラスメントを始めとした”恐怖”や”嫌悪感”の中で自らの伝えたいことを伝え従わせてるのだ。


やむを得ない。聞く耳を持たない人に恐怖や嫌悪感なしで”指導”を行わなくてはならないのであれば、本来、沢山の時間がかかる。
食事を共にしたり、労力をかけたり、場合によっては金銭を消費しなくてはならないかも知れない。
信頼関係を築いたり、或いは受取手側に『あの人がそういうなら従おうかな』と思わせられるように、指導者側が著名人になったり特殊な人脈を築かなければならないかも知れない。

それなのに、実際の現場では【時間や労力をかけている余裕がない】場合が殆どである。


家庭であれば、親が子供に『勉強しなさい』と一回叱っただけで親の言う通り子供が勉強するだろうか?
会社であれば、上司が部下に遅刻癖や商談の纏まりの無さ、会議での態度、仕事に対しての姿勢を『直しなさい』と一回叱っただけで改めることができるようになるだろうか?


要するに、受手側が聞く耳を持っていない状況で”恐怖”も”嫌悪感”も抱かせないように、フェアな状態で受手側に何かを伝えることは大多数の場では不可能に近く、仮にそんなことができる人がいたとしても、それはごく僅かの限られた人のみと言える。


だから、私は教育の場において【叱る】ことでは効果がでない人たちに【怒る】でも良いのではないかと提案しています。
『【叱る】を実行したけど、効力がないから、もうあの人は知らない。放っておこう。』なんて【対象者を放棄してもいいという選択肢】がある現場ばかりではないはずです。


限られた時間、限られた武器しか持たない人が"結果"を出さなければならないのであれば、受手側へ恐怖や嫌悪感を与えることは【必要悪】に近いものではありませんか?

但し、今は各種ハラスメントに厳しい時代。
怒り方には最大限注意が必要です。

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