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三、ヴェネツィア 「両国くんの事情」

◆2018年、7月。

 「互いにどうしても譲れない一線まで来てしまい、僕からはいったん『お別れ』を告げました」

はしご酒も三軒目。ヴェネツィアのバーカロ(立ち飲み居酒屋)で、元公務員の両国くんは静かに、こう切り出した。イタリア語で新星を意味するノーヴァ通りの裏筋にあるこの店は、いつもなら店外まで男女がワイン片手に盛り上がり、とても静かに語れる場ではない。

しかし、今の時期はヴァカンツァも始まり地元の人が「外」に出て行っているせいか、店内は両国くんと僕の二人だけだった。元々目の細い彼が、更にそれを鋭くさせてこう続ける。

「でもね、ヒロキさん。そうまでしないと守るべきものまで守れなくなる。そう判断した為です」

「そっかぁ、それならそれでいいんじゃないかな。僕は日本を離れて九ヵ月、プロジェクトのことは全く分からなくなっているし、両ちゃんに任せた以上全て従うよ」

のっぴきならない状況なんだろうことは分かった。男女の関係ならまだしも、一年半もの間コツコツとプロデューサーとして進めてきた仲間たちに「お別れ」を告げた彼。刀のツバに手をかけ、静かににじり寄りながら僕の反応を見逃さんとする姿勢に、正直ヒロキはたじろいだ。一ユーロで呑める赤ワインを既に三杯は呑んでいるはずなのに、まるで酔っていない様子だった。そうか、そこまで追いつめられていたのか。もしかしたら、追い込んでしまったのは僕なのかもしれないと感じた。

そもそも最初から何かひっかかるものがあったのだ。海外嫌いの両国くんが、家族連れでわざわざ僕を訪ねてくるという。もちろん、最初に誘ったのは僕の方だったんだけれど……。「両ちゃん、ヴェネツィアに来たらさ、今まで超えられなかった壁を越えられる体験が出来るはずだよ、。だから、一度遊びにおいでよ」と。

でも、三ヵ月経っても半年が過ぎても、彼が来る気配すらなかったのだ。それが急遽くることになって、気づけば滞在六日目が今日だ。すっかりあの違和感の様なものも、勘違いだったのかなと思い始めた矢先の場面がコレなのである。


僕は少し間を取ろうと、四杯目のワインとしてプロセッコ(ヴェネト州特産のスパークリングワイン)を頼んでみた。


「臆病は伝染する」

無意識にふと口から出た言葉に、両国くんがビクッと反応する。

「いやぁね、僕の好きな小説に、ある心理学者の言葉が出てくるんだ。『臆病は伝染する』ってね。それが妙な説得力を持って、物語を大きく変えていくんだ。確かに臆病や恐怖ってのは伝染していくだろう。一人が挫ければ、ひとたび恐怖にしゃがみ込めば、隣の人もそうする。右にならへだ。失敗の事例なんて挙げれば幾らでも出てくる。それがどんどん連鎖して、まるで正義の御旗の様に掲げられる。誰も未来の可能性に期待なんてしなくなる。そうなれば自ずと選択肢は、二択になってくる。リスクを負うか…」

「…回避するか、ですか?」

「そう!」


うーんと両国くんは考え込んでしまった。余計なことを言ってしまったかな、もしくは誤解を招いてしまったか、僕も一瞬頭を巡らせた。四杯目のプロセッコの乾杯をするタイミングもすっかり失ってしまっていた。

  でも大丈夫、両国くんはそこまでマイナス思考の人間ではない。そして何より、いい奴だ。いい奴とかいい人と云うと、世間一般では「特に取り柄のない奴のこと」を指すことが多いが、彼に限ってはそんなことはない。彼は元来辛抱強いし、「告白する前にフラれる」という特技だって持っている。今回ヴェネツィアまで一緒に来てくれた奥さんには「あなたは私の恋愛対象ではないわ。けれど、結婚には向いているかもネ」なんて言われちゃった挙句、めでたくゴールイン。結婚おめでとう両国くん。そして更に、結婚後に安定した職に就く人は多いが、なんと両国くん、公務員を辞めてさえいる凄い奴なのである。


「でね、さっきの言葉なんだけど…」

「さっき、というと?」

「臆病は伝染する」

「はぁ、分かるような…」

「いや、違うんだ。あの言葉には続きがある」

「ふむ、続きが?」

「うん。そして、勇気も伝染する」

「えっ⁉」

「『臆病は伝染する。そして勇気も伝染する』心理学者のアドラーはそう言っているんだ」


だから何だ、という顔をしたようにも見えたが、気にせず僕はプロセッコのグラスを彼の顔の前に突き出した。

「サルーテ!」

いいグラスだけから鳴るコツンという音と共に両国くんの顔にも少し赤味がさした様に見えた。


そろそろ、次の店に移るタイミングかもしれない。四軒目はちょっとお洒落なカクテルバー「イル・メルカンテ」にでも行ってみようか。そして、腕のいいバーテンダーに頼んでみよう。込み入ったことも少しは話せるようになった、僕のつたないイタリア語で……。

「勇気が発動するカクテルを二つ、ペルファボーレ!」

(1993年5月獨協「すばらしい日々」に続く)


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