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第九回 「日本映画監督協会から執筆依頼が来た」の巻

二〇一七年 十二月 ヴェネツィア

「最後に必ず帳尻を合わすイタリア」

 扉というのは急に開くものだ。さっきまでニコニコ笑っていた赤ちゃんが火がついたように泣き出すように、それは起きる。または、ピザが食べたいと思ったらそれがすぐに届けられるように、突然やってくる。(余談だが、イタリアでは宅配ピザはないけれど、近所の人が色々持ってきてくれたりする)それにはもちろん予兆はあるんだ。本当は事が起きる前に三回ベルは鳴るとも云われるが、本人は大抵そのサインには気づかない。「外の世界で発せられた偶然と、内なる世界の思い」を繋げる交換手は居眠りが大好きなのである。それは自分の意識が閉じているからなんだろうか。でも、そんな時でも足は止めてはいけない。ステップは踏み続けなければならないのだと、僕はものの本から学んでいた。ヴェネツィアに来てから二ヵ月、僕は上手に踊ることが出来ているのだろうか。そんな不安でいっぱいだったのだが、その扉は突然ガチャリと音を立てて開いた。そして、扉の奥から僕の家族がやってくることになったのだ。


 話は少し遡って、先月末のある日のこと、エリザさんから連絡がきた。エリザさんとはCGILという労働組合の敏腕職員である。彼女には家族滞在のビザの件で何度も相談に乗ってもらっている。大学のインターナショナルオフィスや警察、役所など滞在ビザ取得に直接関係ある部署が、どうしてもクリア出来なかったこの案件について、良いアイデアがあるという連絡だった。そもそも大学の外部講師の制度や労働法に照らし合わせると、僕というはイタリアではなぜか法律上で当てはまらない存在だった。一つ一つ申請手続きを進めていくと、どんな方向からアプローチしても必ず壁にぶつかり、暗礁に乗り上げてしまい途方にくれていたのだ。

 驚くことにエリザの戦略はとてもシンプルで、実にイタリア的だったといえる。まず、現在考えられる三つの方法で、クリア出来ていない部分をそのままに申請をそれぞれに対して出すのだという。その時に申請を提出したという領収書をもらい、他の申請アプローチの際にその領収書を提出する、「申請は進んでいるから、大丈夫だ」と。同様にそれぞれの申請プロセスで同じことを行う。その際に大事なことは、全ての関係部署の担当者としっかりコミュニケーションと関係性があるかどうかということだった。というのはシステム化の弊害で必要項目を埋めないと申請までいけない訳なのだが、そこは担当者がどうにかすればいいのだとエリザは言う。どうにか出来るなら最初からやってくれよと思いつつも、「本当にやれるんですか?」と僕は真摯に問い直す。すると、「大丈夫よ、ここはイタリアなのよ。そして日本人であり、身元引き受け先もしっかりしているヒロキで無理だったら、他の人たちもみんな困ることになる」とあっけらかんと返してくるではないか。幸い僕は(今まで暖簾に腕押し状態ではあったが)何度も何度も通い続けたこともあり、既に担当者とも名前で呼び合えるようにはなっていたし、僕が創った映画に興味も持ってくれていた。


 エリザが「すぐに家族を呼んでしまいましょう」と提案した時には、流石に驚いた。しかし彼女だけではなく、ロベルタ教授までもが「それがいいわ、そうしましょう弘樹」と言ったのだ。「だって家族も早く来たいでしょう。ヒロキは寂しくないんですか?」とまで言う。そりゃあ寂しいに決まっているし、それが出来るようにこの半年くらいの間戦い続けてきている訳で……。目の前のイタリア女性たちは、なんという斬新なアイデアでコトを進めようとしているのだろうか。帰って大家のファビオとロベルタ夫妻にもそのことを話すと、二人ともニヤリと笑ってハグをしてくれた。実際には借りているアパートメントの名義をいったん僕に変更しなければならず、それもまた大変なことなのだけれど、彼らはすぐにそれをしてくれるという。それだけではない。「家族や子供たちに必要なものを全て揃えるから、欲しいものは何でも言って欲しい」と親しい近所の人たちも協力を呼び掛けてくれることになったのである。


 そして家族がヴェネツィアに着いたのが十二月三日のことだ。妻の日奈子が二人の息子(三才と一才)をモスクワ経由で連れてきた。夜遅くの到着でハードな旅だったと思うが、長男の蔵之道は「ママを守らなきゃ」と歯を食いしばって重い荷物を運んできた。僕に会った瞬間に涙が吹きこぼれ声を出して泣いてしまったけれど、ここまで実によく頑張ってくれたと思う。家族が揃ったということはとても大きなことだと、当たり前ながら感じた。ここイタリアで、なんとかなるさと言い切れるかどうかは家族の存在次第なのだとロベルタ教授に言われたことを思いだした。

エリザの立てた作戦も、つまりはそういうことになる。これからは弘樹ひとりではなく、家族で一緒に申請手続きを行いなさいということだった。

①滞在申請(正式には家族招聘)手続きは粛々と。(止まっていても無視)

②それぞれの担当者にも家族を紹介する(役所であっても警察であっても)

③他の生活に必要な手続きも進める

④観光ビザでの滞在期限三ヵ月が、いつの日なのかをベースに事を進める

⑤アパートの権利移行が済んだ段階で観光ではないという既成事実が発生

⑥あとは役所と警察の「担当責任者の裁量」


 それで要はなんとかなるということだった。移民問題で揉めているヨーロッパ・イタリアであり、僕ら以外に申請手続きもままならない人たちがごまんといるのだという。そして、そういった事態を招いているのは政治と法律の責任であり、「イタリア式のお役所仕事」によって移民トラブルは更に増幅しているのだという。自らに原因あり!と彼女らは言い切った。

 

 その後、僕らは言われた通りに、役所にも警察にも家族で通った。相変わらずどうやったら、ちゃんと手続きを進められるのか、そのルールも見えない混沌とした状況に変わりはなかったが、少しずつ変化も訪れた。警察署の部長や職員も、妻のふるさとである沖縄には興味を示したし、何しろイタリアは「女性と子供には極めて優しい国」なのだった。(余談だが、イタリアでは生まれ故郷がどこかのかが極めて重要。日本でいうところの「お国はどこですか?」という質問には、日本より深い意味がある)

 関係ある人に対して、なんとかしようという意思こそが、彼らの行動の原理であり、法律にもシステムにも「余白というか、隙間がある」のがこの国の面白いところだと思う。だからこそトラブルも多く時間がかかることもあるが、最終的に何とかなってしまう。というか、なんとかしてしまうのがイタリア人がイタリア人たる所以であると言えるかもしれない。という訳で、この家族滞在許可については、再び3月までゆっくり寝かすことになった。


「笑ってほしいの⁉」

 同じ頃、日本のうちの会社でも、モスクワやルクセンブルクでの仕事があり、僕も行ければ行きたいなと思っていたのだが、今回のことでそれは断念した。脚本家のモレスキンを始め、他の仲間たちにそれは任せることが出来た。でも、家族のことは家族しか出来ないのだ。

 家族揃っての新たな暮らし。それはまたいろいろと準備することも多くなるが、そういう手間をじっくりかけることが、ここでヴェネツィアでの生活の楽しいことでもある。クリスマスまでの一日一日の、まちや人々の変化も著しい。そういう至極当たり前なことへの喜びをも、僕は少しずつ感じられるようになってきていた。そして、普段からこのまちは文化芸術が暮らしの中に溢れているんだけれど、この時期は特に音楽や演劇、オペラなどが上演されているのが目についた。ヴェネツィアで代表的な音楽といえばやはりビバルディ。彼が晩年に演奏や作曲、音楽人の育成に力を注いだ教会でのコンサートには近いうちに行こうと思っていた。(貧富や身分をこえ、修道院からプロとして自立できるような育成が高く評価されていたらしい)

 そんなある日、僕が所属する日本の監督協会から、とある原稿執筆の依頼」が舞い込んできた。広報部会の金田さんからで、お題は「私のこの一本!」とあった。もちろんこの一本とは、自分にとっての大切な映画について語れということなんだろう。これが監督協会からの依頼でなかったら、気楽に書けるものではあるが、何せ監督協会の会報に書くということであるから、頭をひねらなければならなかった。とりあえず原稿を引き受ける旨のメールを送った。

「文化庁の芸術家派遣制度でヴェネツィア大学に来ている協会員の林弘樹です。僕は今、映画学マスターコースの学生をサポートする立場で、週に1本ずつ映画を撮っています。自分の今までの映画の作り方を、全てほどいていく様な現場の日々。そんな時にこのお題を頂き、今までを振り返る機会にもなりますのでお引き受けさせていただきます。声をかけて頂いた編集部の方々、ありがとうございます」

 とまあ、こんな感じの文面だ。二十八歳で監督協会に推薦してもらい、その後入ってからというもの、(何の委員会にも入らず)取り立てて役に立ててなかったから、これまでも原稿依頼があれば進んで引き受けていた。問題はどの映画を取り上げるのかであった。そうだ、やはり自分の映画制作の原体験に関わるものにしようと思い立った。そして、その作品はまさにビバルディの「四季」に関係するものだったから、うまいこと筆はするすると進み、これを読んで大御所の監督たちがどう思うのかは特に考えずにすんだ。一年後、僕という人間が変わってしまって、そのあと日本で監督としてどうしていくのかなんて分からないけれど、それはそれとして今を刻んでおくことも良いかなと思ったのだ。


『さて、今回取り上げさせて頂く作品は「笑ってほしいの!?(95年 石川北二監督)」にした。本作品は東京学生映画祭(以下、東学祭)で満場一致でグランプリを受賞した、僕にとって忘れられない自主映画である。

 東学祭は来年で三十周年を迎えるらしいが、当時は、関東五十大学の七十五サークルが加盟する学生団体だった。毎年三百本程度の作品がエントリーし(そのうち半分位はまだフィルム作品)、本選に選ばれるのは八本くらいだったと思う。映画「笑ってほしいの!?」は、二年間の撮影期間で8mmFILM(制作費は二百万と聞いている)で撮られた百三十五分の青春映画である。うろ覚えになるが、簡単に内容を紹介させて頂く。

 舞台は早稲田大学、入学式に現れた主人公の二人。そのうちの関西弁を話す男が、式の最中に煙草を吸っているところを職員に咎められ揉みあう中で、会場を火事で燃やしてしまう場面から物語は始まる。事件に巻き込まれたもう一人の東京弁の男も罪を着せられ、二人は式の翌日に退学処分となる。関西弁の男の誘いから、二人はお笑い芸人を目指すことになり、映画はビバルディの四季の曲になぞらえながら「春・夏・秋・冬、そして再びの春(入学式)」という五つの章立てで展開していく。クライマックスの「再びの春・入学式」でプロとして魅せる二人の「芸」は、二十数年経った今でも鮮やかに思い出せる感動的な場面だ。笑いあり、涙あり、恋愛や友情あり、実写に加えアニメーション、その他8mmで実現できる全ての映画技法を駆使して作られた映画愛が詰まった作品だった。


 この作品を初めて観たのは東学祭の予選会で、当時僕は大学二年だった。映画の道に進みたいと思っていたが、誰に教わるでもなく悶々としていた頃だったと思う。ある日ふと「映画はカメラだ!Filmだ!」と思い立ち、新宿のカメラのきむらで中古のZ800の8mmカメラを苦労して手に入れた。ファインダーに映る景色や、同居人の男や当時付き合っていた彼女にカメラを向けて十七分の「ビロードの時代」という短編を撮った。ろくな筋もなく暗く意味不明な処女作は、まわりを閉口させていたであろう。しかし、その時の自分はファインダー越しに見える世界に酔いしれていた。そんな矢先の予選会当日、自分の作品を上映する一つ前に登場したのが、この「笑ってほしいの!?」というモンスター作品だった。

 余りの衝撃の為、見終わった後に自分の作品が上映されたことすら記憶にない、それから三ヶ月余り僕は引き籠ることになる。大学にも行く気も失せ、気づけば同居人の男も旅に出たまま帰って来なくなった。彼女とも別れた。自分の身に何が起きたのか本当に分からなかった。唯一僕が出来た事は、石川監督に手紙を書いてみることだった。


 確か石川監督からの返信にはこんなことが書かれていた。

『僕は小栗監督の『眠る男』の現場で制作進行の仕事をしています。今の自分には、撮りたいモノが、意欲がなくなっています。学生時代にやりたいことをやりつくしてしまったような…。

林君がやりたい、知りたいと言っている映画のことは、運良く現場に入れるなら制作進行は良い選択かもしれません。映画づくりの最初から最後までに関われるという事という意味では…。

 いつかまた僕が映画を撮ることがあるならば、湘南の海でブサイクな女の子がおでん屋をやる映画を作ってみたいと思います(以下、略)』


 読んでいて何か、悔しくて温かくて涙が出た。あんな作品は僕には作れない。でも、この人とは違うんだ、そもそもが…。自分が今の三流喜劇のような状態から脱出する為には、「自分なりにやるしかないんだ」ということは分かった。何かが始まった気がした。


 話は戻ってヴェネツィア、あれから二十三年。監督という仕事を始めてから十五年が経ってしまった。ファインダー越しに見る世界は、自分の意識の中で何が変わっているのだろうか。

「笑ってほしいの!?」は青春劇であると共に喜劇でもある。「喜劇の本質が風刺であるならば、そして自由が欠落している所に喜劇が成立しないということであるならば、日本映画界は今まで喜劇を作り出す術を持っていなかったということである」そう増村保造監督は、イタリア滞在記にそう記してある。


 そうであるならば…、そしてこれは僕の願いでもあるのだが、もし本当の社会的なドラマを実現することが出来るのならば、それはすなわち優れた喜劇を作り出す喜びを知ることになるんだろうと思う。今は、目の前にいる仲間たちに笑って欲しいの、だ。そして一年後、声高らかに笑って日本に帰る自分でありたいものだ』



第10回 1993年 北海道篇へ続く


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