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14回臨時号:「僕らの世界は変われるのか」

  このブログでは1993年と2018年の時間と出来事について書き続けているが、イレギュラーとして「今、2020年4月」のことを語りたいと思う。

  なぜってそれは本日、4月7日に日本でも緊急事態宣言が発動されるから。そしてイタリアをはじめ今や世界中で2月からパンデミックの蔓延により社会ストップが起きているのだから…。いまトルナトーレ監督は何を思い、どんな物語で世界を捉えているのだろうか、と考えてみる。そして僕はこの事態と今後どんなカタチで語っていけるのだろうか。最近は、コロナ禍というのはもはや一つの時代なのではないだろうかと感じている。もっと大きな時代のスケールでみれば高度経済資本主義というストーリーの最終章が始まったとも見れるのだが…。

 そして、93年の弘樹や18年のヒロキが「トルナトーレ監督と出会えない」こと以上に、大切な国内各地にいる仲間とも当分会えなくなるだろう。ましてやイタリアにいる友人とは想像以上に長い期間会えなくなることが簡単に予想される訳だから、今の状況で感じている気持ちを(自戒の意味も含めて)記録しておくべきだと考えた。

◆時代の変わり目で繰り返される災事

 奇しくも連載第7回時に僕は400年前のペスト(黒死病)について触れていて、隣に住むファビオからその時のことをしっかりと語り継がれたことが、僕の中にはある。それはまるで 自らが乗り越えてきたかのように「今ごと、自分ごととして語る彼の姿から浴びた大切な経験」として僕の身の芯に深く遺されたものだ。読んでくれた人は、それを当事者意識を持って読んで感じてくれただろうか。遠い国の昔話として、自分とは関係があるかないかだけの思考に陥りがちな意識スタイルでは、それは多分難しいだろう。(加えて自分の筆力の無さについては、なんとか改善したいものなのだが)秋のサルーテ教会の大切な祭事の時までには、奇跡的に今の騒動が収まっていることをただ祈るばかりだ。

◆離れていても「心はひとつ」

 ヴェネツィアのファビオとロベルタは、SNSメッセージやビデオで僕らに連日語りかけてくる。

「ヒロキ、ヒナコ、クラ、カンジロー、みんな元気でいるの?日本は大丈夫か?」

あなた達こそ大丈夫なの?と問いかけたい気持ちがあるのに、彼らから発せられる「家族へのメッセージ」の様なその愛に心打たれてしまって言葉にならない。湧き上がってくる想いを適切なイタリア語で返すことが出来ない、そんななんとも言えない感じが喉元にひっかかっている。

 先月から僕ら家族はNHKのイタリア語会話を毎日聴くことを再開した。今起きている事態をロベルタたちとやりとりしながら話すレベルとは程遠い「基本会話」のレッスンである。四月に入ってまた初級の内容に戻ってしまったが、それでも「毎日続けていこう、僕らは彼らと繋がりたいのだ」という気持ちで聴いている。愛の姿勢とは、直線的で効率化されないものなのだと言い聞かせるように。

 

◆安易な情報処理によって、このまま思考停止に陥ってしまっていいのだろうか?

 連日イタリアが大変だ、という日本のマスメディアの報道と、日本人のそれに対するリアクションに違和感を感じている。そこに一理あることも分かるが、それが真理をついているとは到底思えないのだ。例えば「医療崩壊」と「戒厳令・都市封鎖」についての報道が繰り返し流される。日本の医療はイタリアとは違う、衛生面でも管理体制でもああはならないだろう的なコンテクストで語られる。もしくは単に恐怖心を煽る内容に終始していたりする場合も見受けられる。「一日に何度もハグをして、密接なコミュニケーションしているお国だからね」「観光でもイタリアは世界中から人が来るからさー。なんか都市封鎖によってヴェネツィアの運河の水が綺麗になったらしいよ」という皮肉的な記事をそのまま受けてリアクションしている人がいる。そしてそれをわざわざ僕に伝えに来る。いつしか僕らは意味を考えずに反応するだけの存在に成り下がってしまっているのだろうか。

 他にもある。地方で定住をすすめる政策は今の日本では最重要課題の一つとなっている。それには僕も共感して関わらせてもらっているのだけれど、今回のコロナ禍によって心が汚染されてしまっている例を、ちらほらと見かけるようになった。例を挙げると「地方は暮らしていてもほとんど人と会わないし、都会より安全だ。だから地方に暮らすといいよ」というピーアールが始まった。これもなんとなく流して聞けば「そうだそうだ今こそチャンスだ」と同調する人も多いのだろう。でも、ちょっと待ってほしい。物理的な人の量だけの問題だと捉えられない「地方の現状を露呈し、認めてしまっていること」の様に僕には見える。そもそも東京は地方出身者のるつぼだ。同胞たちが故郷を離れて暮らし、何かの理由でそこで戦っているのだとしたら、それを共有する心はなくなってしまっているのだろうか。そして地方こそ、濃厚な人間関係を大切にしていると言い続けてきたのはどうなってしまったのだろうかと心配になる。僕はこの二十年近く日本の地方のまちを巡りながら仕事をしていて、環境破壊より恐ろしい速度で進行している「地方の関係性破壊の現状」を数多く見てきた。これは都会と云われる場所よりその破壊スピードが速く、とにかく闇は深い。車社会とIT化による「暮らしと働き方、人と人との関わり方の激変」ぶりに二律背反のパラドックスが見え隠れしていることが証明されることに繋がらないことを願いたい。

 

◆物事はそんなに単純化されるべきものでもない

 また少し前まで「観光立国」だの「インバウンドでお金を落としてもらうことが大事だ」みたいなキャンペーンを貼り、それが活性化の切り札なのだと言わんばかりの論旨が進行していた。その正義の剣を振りかざしていた人たちが、イタリアで起きていることを自分ごととして捉えていないようだ。もちろんイタリア全体としても、ベネツィアにしてもそういう観光重視の側面でやっていることは否定はしない。ただ表面的な部分だけみてしまっては大切な部分を見落としがちだ。彼らの「暮らしやまちの在り方への意識」の高さは感動に値するものだと僕は思う。観光地として多くの人たちを満足させ、魅了させる部分は実はその精神にこそある。よその人が来ることに対して、彼らは旅人のHOMEとして場をつくり整備する。逆にあなたたちのHOMEとして大切にしてほしいと思いを伝えることが彼らの観光のスタンスだ。これは特にキャンペーンや政策として掲げて行っているわけではない。観光だろうが、日々の生活だろうが、目の前にいる人や家族、暮らしを取り巻く環境に対して強いコミットメントを持ち、誇りをもって生きている。だから自治会の制度なんてなくとも、地域の自治活動(楽しみのイベントも含む)には積極的に参加するし、小さなコミュニティ内での経済活動にも意識的なのだろう。それはどんな小さな集落でも寂れたり、限界集落とも呼ばずに踏ん張っているところからも見て取れる。そういう根幹をなす意識が、彼らの観光や地域づくりに現れているからこそ結果として輝きを放つことになっているのだ。

 

そんなこと言われても私達は知らないのだから仕方がないでしょうとと片付けてしまえば、もちろんそうなのだろう。もしかしたら僕は少しムキになり過ぎているのかもしれない。でも、僕がなぜわざわざ「その大切な部分」について敢えて書くかと云えば、それは僕ら日本人と相通じる歴史と文化に繋がっていることだと感じるし、もっと言えば日本がこれから大きく舵を切る時の決断要素としてとても大切なポイントだと思うからだ。(と書いていて気が付きました)

 

◆「暮らしのインフラ」とは何なのか

 緊急事態宣言が出て(あともう一段階程度のステップを踏んで、いずれ非常事態宣言が出されるのかもしれないが)改めて社会的なインフラという言葉が多く使われるようになった。このインフラという言葉は「何の」という連体修飾語が何を指すかによって意味合いは大きく変わってくる。日本で社会のインフラといえば主に「経済活動や生命維持」に関わることが主になっている。後者の生命維持に関わる電気・水道・ガスなどについては高度経済資本主義の世界においては世界共通の認識になっているかと思う。しかし、前者の経済活動に関連してくる「道路や交通機関、流通」他に挙げられるものでは医療については、真っ先に社会インフラとされているかどうかについては、お国柄が大きく影響していることを押さえておく必要がある。例えばイタリアでは、「暮らしのインフラ」として衣食住環境以外で最も重視されているものに「文化・芸術」がある。または「家族を単位とした地域コミュニティ」が挙げられるだろう。日本では暮らしよりも経済活動が優先されているから「暮らしのインフラ」などという言葉自体発せられることもないし、ましてや文化や芸術などがインフラだと認識している人など殆どいないのではないだろうか。(他の欧州各国でもそういう面があるのかもしれないが僕が実際に確認した訳ではないのでここではイタリアとしておく)

 

 イタリア全土において道路はガタガタ。流通はないとは言わないが、機能してるとは言い難い。郵便などは届いたらラッキーという状況は数十年前から変わってないようだ。(イタリア国内から国外へはまだましだが、国外からイタリア国内への郵便はかなり怪しい)たぶん流通という観点では、地域内での消費が基本で(物々交換もいまだに多くある)どこでも何でも揃うことが良いことだという発想が無い。役所や警察に関しても昼には閉まってしまう中で、家族と過ごす時間を優先する国。そして医療に関していえば、どちらかといえば医者にかからないように、心も体も豊かにストレスなく暮らすことが大事だというスタンスをとっている。日本の病院では高齢者医療が無償という歴史が長くあったこともあり、「トメさん最近病院に来ないけど、具合が悪いのかね~」などという異常な会話が普通にされている状況とは大きく異なっている。イタリアという国において医療より「文化・芸術が暮らしのインフラ」として存在する理由がたぶんここにある。

 

◆高度経済資本主義の終焉のまえに…

 だから、今回のコロナ禍でイタリアのオーバーツーリズムや地域社会の三密状況、加えて医療の脆弱さにより崩壊が起きたことは、なるべくしてなったと言いたがる人の論理も分からないでもない。でも、僕はその点だけ取り上げて「人間の暮らしの本質を大切にしてきたことの偉大さ」を見ずして非難するべからずの態度をとりたいと思う。効果もあれば逆効果もある。作用と反作用の間の中で、何を大切に生きていくのかという視点を持ち、日々の暮らしを豊かに生きていくこと。一人ひとりが哲学して選択していくこと、それらを「分別智」というのではないだろうか。

 だから「ペストの暗黒の歴史が再びイタリアから」と欧州各国から言われているというニュースは、僕でさえ悔しかった。彼らは当時のことを忘れてはいないし、軽んじてもいない。ただここまでの惨事が拡がった以上は大きく変えていくことも必要だとは思う。ただ何が原因で、何が問題なのか、真実はまだ分からないことばかりだから、日々の対処は試行錯誤の連続になるだろう。日本も一か月後、半年後にどうなっているかは全く予想がつかない。この辛く見えない闘いは始まったばかりで、まだまだ長くかかるはずだから、覚悟と勇気を持ってのぞんでいきたい。

 都市封鎖をしている欧州各国は、流通の面から見たらそれほどダメージを受けていない。それで暮らしが止まっているというニュースは入ってこない。中世からのコロニー、もしくは都市国家の名残りが残る暮らしや都市経済のカタチがあるからなのか。けれど、これが日本で起きたらどうなるのだろう。江戸三百藩の歴史があるといえど、既にそのDNAは薄まり、もはや流通だけの問題ではなくなっている。ただ不安はあるが、期待もあるにはある。真の暮らしと働き方のパラダイム・シフトが起きるチャンスと捉えれば、(実はもともと)とっくに行き詰っていた経済合理システムを大きく改める「ドンデン」の機会だともいえるのかもしれない。

 家から外に出られない状況において考えておくべきことも書いておこう。

仕事も今までのように戻ることはないだろう。震災の復興や復旧と叫ばれていた時にも同じことが語られていたが、元に戻ることなんて何もないのだ。そう、時計の針は戻せない。カタチだけ復旧したら元に戻ったと思うなかれ。「お金を失うことは小さいことだ、信用を失うことは大きなことだ。勇気を失うことは全てを失うことだ」

ドンデンが起きる大転換の時代と言われていることの本質は、僕らの意識を改めることなのだと思う。戻すのではなく、創造していくこと。そしてそれを行うのは自分自身だということ。生き抜くための勇気というものは、自分の為ではなく「大切な誰かの為」に発動し、点火されるのだということ。

 

◆誰と生きるか、何を愛するかー

 最後に都市封鎖され、自宅で籠城し続けているイタリア人の家族に気づかされた大切なことをお伝えしたい。

彼らが一番ストレスを感じることは、家族と過ごす時間が減ることなのだ。やりたいことを大いにやり、美味しいものを食べ、歌を歌い、人生を楽しむ場面において、そのかけがえのない瞬間の連続を誰と過ごすのかはとても大切なことだという。だから今回家の中から出られなくなっても、家族と過ごせることに幸せをながら希望を持ち続けている。彼らは戦後の大変な時期も、今回の苦難の時も決して委縮しない。「暮らしの質」に拘る人たちはだから、生き抜くためのタフさを持っているといえるだろう。

日本でもこれからは(緊急事態により0家族や地域の人たちと、日夜共にずっと過ごすことが出来るようになる。離れていて会えない状況ならば、再会するときを願い、それが適った時に喜びあえるだろう。いま置かれた状況をストレスと捉えるか、かけがえのない時期と感じられるかは結局のところその人の考え方にかかっている。仕事においても例えそれがリモートだったり今までのやり方とは変わっていくとしても、それも全ては相手との関係性があってのことだ。そう改めて考え直していけるのではないか。やり方が変わったら出来ないような仕事の相手とはおさらばする良いチャンスだと見切ればよいではないか。(どのみちそういう仕事は消えるか消費されるだけのもので、何も残らないように感じる)

 

僕らの人生はそう長くはない。
だからこそ同じ時代を共に生きる奇跡を分かち合えればと、そう思う。
生きていればなんとかなるさ。

 

以下、敬愛する劇作家の言葉を贈りたいと思う。

「人生における本当の歓びとは、自分が大切だと信じる目的のために自分が使われることである。

 それは大いなる自然の力と一体になることであって、世界が自分を幸せにしてくれないと嘆いたり、不平を言ってばかりいる利己的な愚か者になることではない。

 私は自分の命がコミュニティ全体に属すると考えている。従って生ある限りコミュニティの為に、出来る限りのことをするのは名誉なのだ。

 私が死ぬときには、すべてを使い果たして死にたい。なぜなら、働けば働くほど生きている実感が湧くからだ。

 私は生きることにこの上ない歓びを感じる。私にとって人生とは短いろうそくではなく、私に手渡された輝かしい松明のようなものだ。

 だから、それを次の世代に手渡すまで、できるだけ明々と燃やし続けたいのだ。」

 

(ジョージ・バーナード・ショー)

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