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走りながら思想しよう・“中今”考2.

“中今”をウイキペディアで見ると、「今この一瞬」、「過去と未来の真ん中の今。遠い無限の過去から遠い未来に至る間としての現在」とある。また保江邦夫氏著書『願いをかなえる「縄文ゲート」の開き方』には、『中今というのは日本神道の秘奥に位置する言葉で、東京大学の仏教学者だった中村元先生はそれを仏教用語の“刹那”ではなく、悟りの境地である“涅槃”に該当する状態とお考えのようでした。また矢作先生は「この中今の時だけ人は高次元につながることができる」とおっしゃっています…』とある。読書をしていて時々シナプスとシナプスの新しいつながりが生ずるが、まさに“中今”という概念が私の中で霊肉化した感じだ。そして執拗なイメージ化が起こった。
中今の時とは漠然とした概念ではなく、非常に生理的かつ超自然的な、人間に許された恩寵の時間ではないか?私に湧いてきた具体的ビジョンは臨死体験も“中今の時”ではないかということだ。当然、死と誕生もまた解脱しなければ永劫に輪廻転生、六道輪廻する人間にとっては肉体に宿る、肉体から離脱するという超自然的な時だ。私たちの意識に許された“中今”へのアプローチが、死と臨死体験であり、様々な修行はまさにこの“中今状態”への接近肉迫そのものだ。瞑想や禅、密教修行、導引、気功、仙術などはすべて、中今状態を自在に操作する修練に思われる。さらに佐賀鍋島藩の『葉隠』、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」。メメント・モリ“死を想え”などもまた“中今”への参入のことではないか。比叡山千日回峰行然り。私の中ではシナプスがさらにつながった。ひょっとしたら茶道の目指す“侘び寂び幽玄”もまた、中今へのアプローチとして編み出されたかもしれない。千利休の大成した茶道の行式はよくカトリックの聖餐式を秘めていると言われる。箱の中のように狭い空間。小暗い光。小さな出入口。身分立場を超えてひっそりとした心で主客が自他を忘れてゆらゆらと立ちのぼる湯気と茶、茶器の深山幽谷を共有する。当時、千利休のような豪商であれ大名であれ、死はすぐ間近であり、臨死体験者もそこらじゅうにいたはずだ。松尾芭蕉辞世の『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる』などは、死が近づき異世界に引き寄せられる臨場感そのものだ。一時的にこの世とあの世の境界を超えるタイプの“中今”。


■画像はヤフー秋の光画像より。

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