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初めての参加と、過去の清算

5/21(日) 東京流通センターで行われた「文学フリマ東京36」に初参加した。一次創作を書くのは初めてだ。なんなら小説を書き始めてからまだ1年ほどしか経っていない。
その経緯をここにまとめておく。


初参加に至った経緯

 1年と1ヶ月前、私は死んでいた。
いわゆるクリエイターと呼ばれる職業に就いておきながら、自分の「好き」を諦め、「無」の自分を責めながら生きていた。
 そんな時に出会ったのが「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会(以下ニジガク)」だった。
 実は5年以上前に創作活動をしていたのだが、目標に向かって何かを作り上げる事にも自分の大好きを追求する事にも励まず、適当にやっていた結果自然消滅していた。
 そんな"終わっている"人の状態でニジガクを視聴した結果、自分の好きな事を追求する、今やりたい事をやるというメッセージを、そして百合という概念を学び、今まで行っていたイラストではなく小説を書いてみることにした。確か昨年の6月頃から書き始めて、二次創作で3冊小説を、合同誌の主催を1度経て、自らのスキルアップと過去の清算(後述)を図るべく参加を表明したのが「文学フリマ東京36」だった。

書きたいものを決める

 参加を決めた時はまだ書きたい内容が定まっていなかった。そこで私は、二つの大テーマを決めた。

・好きな百合の関係性
・自分の過去と向き合う事

前者はニジガクの話になってしまうので割愛。
後者について、 私が二次創作で小説を書き始めてから今回のオリジナル作品まで通して自然と書き続けていたのは、「親と子の問題」だった。

 決してネグレクトや虐待を受けていたわけではないし、そういった家庭環境下にあった人からしたらだいぶ恵まれているかもしれない。しかしそれが問題だった。
 母は過保護で、用もないのにノックも無しに部屋の扉を開けて話しかけてくるようなタイプだった。
 父は強情で、絶対に子供の下手には回らないタイプだった。常に上から目線で話し、個人の常識を子供に押し付ける。私が虐めや学校での問題を家庭に持ち込んだ時は詳しい話も聞かず「男だったら泣くな」とただ怒鳴るだけだった。
 おそらく父は自分の子育てのスタイルを「放任主義」「自分の力でなんとかさせる」だと思っている。また、妻に異常に甘く、子供よりも妻を守る。

 そして二人が共通して言っていた事、それは「大学には行かせられないから就職しろ」だった。
 父も母も高卒だった。大学がどういう場所で、行くと何があるのかを知らない。ただお金がかかるという認識だけはあるようだった。
 中学生だった当時、自分のやりたい事を見つけるよりも前にこの言葉を真に受けてしまった私は、言われるがままに地元の工業高校に進学した。
 実は2つ離れた姉がいるのだが、姉は看護師になる為に看護学校に通っていた。学費は出してもらっていた。姉が進路の事で親と喧嘩しているのを見ていたが、ああはなりたくないと反面教師として捉え、私は敷かれたレールに乗っかったのだった。

 最初にこの過ちに気がついたのは高校三年生の頃だった。前述の経緯で入学した私は既に自分の将来について考える事は放棄していて「なんとなく就職するんだな」とぼんやりしていた。受験シーズンになって周りが就職先や進学先(デザイン科にいたので進学希望者は全員が美大だった)について考えている中、母が働いている業種の就職先を選ぼうとしていた。(そう望まれていたから)
 自分が何も考えていなかった事、既に手遅れである事にようやく気付き、担任に相談して大泣きした。担任は「就職をしてから考えても充分間に合う」と言って励ましてくれた。結局そのまま進学したが、ようやく「間に合った」状態になったのはあれから丁度10年経った頃だった。(後述)

 地元にいる間に2回転職をした。自分のやりたい事を、そう思ってデザインに関わる職種に応募するも尽く惨敗。(今思うと何も準備をしていなかったから当たり前なんだが)
 最終的に前職で東京出張に行った時、下請けで仕事を依頼していた会社に面接に行った。東京に行けばなにか見つけられる、地元には何もないと思ったから。
 その場で採用を貰い上京を目指すも引越し費用が微妙に足りない事に気がついた。本当は頼りたくなかったが意を決して父に「お金貸してください」と懇願すると答えは以下の通りだった。

「東京で働く意味が分からない。地元で働けばいいのに」
「一銭も貸さない。自分で決めたんだから自分でなんとかしろ」

 後者は人によって「当たり前だろ」と思うかもしれないが、それでも私は「お前が子供の退路を絶ったからこうなったんだが」と思っていた。
 結局3ヶ月の期間工で引越し費用を貯めた私は、言われた通り親の力は一切借りず、上京した。

で???

「自分の過去と向き合う事」
それは親への憎しみと、自分の好きなように生きられなかった後悔と、地元への嫌悪感だった。

それを書いたのが今回の作品である。


しかしここで一つ問題が浮かび上がる。
地元も両親も嫌いなあまり、上京してからかれこれ10年以上経っているのに帰省した事は3回ほどしかない。しかも帰省したところで外に出歩かなかったので、街の様子がどうなっているのかが分からないのだ。
 なので過去と向き合うという意味も込めて、数年ぶりに取材旅行と称して帰省をする事にした。

地元へ

この作品の主人公であるオニールと藤野は地元、岡崎市を飛び出して東京へと向かう。私は逆に東京を飛び出して地元の岡崎市へと飛び立った。

2/11(土) 6:45
前日の金曜、仕事が終わってから池袋で夜行バスに乗り、土曜の朝に東岡崎駅に到着。あまりにも早すぎるし、そもそも駅前に特に店が無いのでレンタルサイクルを借りる事に。

早朝の東岡崎駅。近隣で空いているのはファミマだけだし、マジで人がいない。


1番近いコメダ珈琲(それでも5kmくらいある)まで向かい、開店とほぼ同時に入店、半分寝ながらこの後の計画を練っていた。

作中でオニールと藤野が通っていた女子校は実在する。何を隠そうと私が通っていた工業高校のほんの数kmほどの場所にあるのだ。とはいえどちらも中には入れないので、周りの街並みを見て記憶を呼び覚まそうとした。
それぞれの学校の中間あたりにある当時行きつけだった本屋は、潰れてなくなっていた。

SBRがウルジャンに移籍した直後は学校帰りに買いに行っていた。


その後この街にもドンキホーテが出来ている事をその場で知ったり、その駐車場でレンタルサイクルの鍵が開かなくなって苦労したり、

土曜の朝9時にドンキで立ち往生したときの写真(奥にイオンが見えるがまだ開いてない)

様々な事がありつつも作中に登場する「イオンモール岡崎」と「六名公園」へ向かった。
イオンはさすがにテナントの入れ替わりが多くて、当時の面影はあまり感じられなかった。ただ映画館は健在だった。(今回の作品では映画が度々登場する)
作中に登場する六名公園ではまさしく子供たちが野球をしていた。

冒頭でオニールと藤野が野球をする公園。野球をしていますね。


一通り見る予定だった場所を回り終えて、次の場所までは距離があったので、合間で「シビコ」へと向かう事にした。

シビコとは

シビコとは「無」の象徴である。
私が物心ついたころから存在していた商業ビルである。
ダイエーがモールになった時も、ジャスコがイオンに変わった時も変わらず商店街にあり続けた。
中は妙に陰気臭くて、テナントが撤退して何も無いエリアもいくつかある。基本的には地下にあるスーパーを近隣住民が利用して成り立っていた。

岡崎市民の認知度100%のシビコ。

 予想通り、シビコの中は時間が止まっていた。本当に何も無い、自販機だけのエリアがあったり、ベンチと机だけが置かれたエリアに地元の高校生が座って勉強をしていた。

1階の昇りエスカレーターから入り口を写した景色。左下の看板が例のカフェの案内。
マジで何もないエリア。こういうのが無限にある。 

シビコの地下にあるカフェで食事を摂ろうと店に入ると、店員のおばちゃんが気さくに話しかけてくれた。カレーライスを頼んだのに「今そこのお客さんがハンバーグセット頼んだから、同じのだったらすぐ出るけど、どう?」と言われたので、「カレーください」と頼んだ。(このセリフはほぼそのまま作中に登場させている)

アイスコーヒーも頼んだけどミルクとストローだけ先に来た。


 「街の人の温かさ」をこのタイミングで初めて体験した私は、作中にそのまま登場させると共に、もしかしたらこの街で唯一まともな大人だったのかもしれないと、東京を離れる二人がふと思い出すという流れにした。


最後に向かったのは、元実家だった。
元というのはどういうことかというと、こういうことだ。

0~6歳 実家(父母姉自分の4人)ほとんど記憶にない
7歳~20歳 父方の祖父母宅(祖父母父母姉自分の6人)※一番最悪
20~22 NEW実家(父母姉自分の4人)2DKのアパート

向かったのは※一番最悪と書かれた7歳~20歳という一番重要な時期に住んでいた祖父母の家である。
前述した父の詳細を見て頂くと大体察しが付くのだがこの祖父母も最悪で、

祖母……常にトドのように寝転がっている。夕飯はすべて母が準備をするが手伝いは一切しない。文句は言う。週末は家に友達を呼んで日付が変わるまで賭け麻雀に興じる。

祖父……普段は寡黙だが酒を飲むと一変して人に罵詈雑言を浴びせたり、同じ言葉を何度も繰り返す。トイレに行くたびに痰を吐くがエイムがどヘタクソすぎてトイレが汚れる。(そもそもトイレは汲取式だが)週末は家に友達を呼んで日付が変わるまで賭け麻雀に興じる。

この祖父母が1階に住み、私を含めた家族4人は戸建ての2階にある2部屋で暮らしていた。戸建てと言っても当時で築50年は経っていそうな土壁のボロ屋で、虫もしょっちゅう湧いていた。そんな環境で青春時代を過ごしていた。

実に10年以上ぶりにその家を目の当たりにしたのだけど、当時は威勢を張っていた社長が病気で衰弱したような、なんだかみずぼらしい印象を受けた。5年位前に「祖母が糖尿病になったらしい」という風のうわさを聞いた時は家族全員が「勘当したし別にどうでもいいわ」と言っていた。流石に死んではいないと思う。

家のちょうど斜め前に当時小学1年生の頃から頻繁に遊んでいた友達の家があり、その前も通ったのだが、友達のお父さんがちょうど洗車をしていた。当時はかなりかっこいいお父さんだと思っていたけど、今やもうお爺さんになっていて、物悲しくなった。

ちなみにこの元実家の外観や内装はは作中でオニールの実家のモデルとなっている。

 一通り取材を終えた私は、帰りの夜行バスの出発時刻までバーミヤンで原稿を進めることにした。
 結局どの景色を見ても感傷的な気持ちになるわけでもなく、想像していたとおり「何もない街だ」という感想が出るだけだった。
 しかしそれこそが作中で二人が感じていた事であり、自分の中でもずっと変わらない気持ちだった。

「あの場所ってこうだったよね」「地元だとみんなこうだったよね」「親のこういうところが最悪だった」という、誰かと共有することができなかった過去を振り返り、小説という形にして清算する。それが今回の作品なのであり、こうしてこの場を借りて執筆までの経緯をまとめる事も併せて、ようやく前を向いて生きていけるような気がする。

中学校の校門から下る坂道。特に意味はない。


おわり

追記

「これ読んだらどんな作品か気になった」と言って頂けたので、大至急BOOTHで取り扱いを始めました。


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