【前書き】
　皆さん、こんにちは。
　今日も元気にアレンデール城！　早河遼です。

　本作は大学のサークルで出している部誌の2023年度２月号に掲載してもらった作品です。今回も他作品同様に改稿なしでの掲載となります。

　今回の主人公は同じサークルの人から受けた「こんなキャラを書いてほしい」という依頼を基に書いています。人生で初めて受けた依頼という事で、あれでもないこれでもないと沢山悩みました……結果的に従順な子に育ってくれて良かったかなと。

　ただ、案外出しゃばりな一面があるみたいで……最後の最後で何やら良からぬ過去を持ち出してきました。きっと熱心な早河遼ファン（空想の産物）なら「えっ⁉　ここでこの作品と繋がるの⁉」と驚かれるはずです。ええ、正直自分も想定外すぎて驚いております。

　ある意味、今回掲げた課題は「キャラ造形」かもしれませんね。
　意識的にアニメ風のキャラに仕上げてみましたが如何でしょうか。

　是非、コメントで教えて頂けると幸いです。

　王子様と聞くと、やはり御伽噺に出てくるような美青年を連想させる。

　立派な白馬に跨り……とまではいかずとも、ピンチに陥った時に颯爽と現れ、悪人から身を護ってくれる。真面目で優しくて、変に気取ったりしない。それが私の真っ先に思い浮かぶ王子様の理想像だ。

　そう……少なくともいま隣でニヤついている、コイツのことではない。

「なーんか嫌な感じだよなぁ」

　缶のコーラを呷った腐れ縁が、口を釣り上げて言った。

「だって、みんなジロジロ見てくるんだぜ？　かと思ったらスッと去って行くし。気持ちわりぃったらありゃしねえ。お嬢、お前何かしただろ？」

「はあ？　アンタねえ……」

　呆れるあまり溜息をついて、ヤツに向き直った。校則違反の茶髪に着崩した学ラン。煽るように細める憎たらしいその両目に、私は最大限の苛立ちを放った。

「……誰のせいでこうなったと思ってんのよ！」

　人差し指を何度も彼の胸板に突き立てて、私は声を荒げる。雨除けの付いた渡り廊下に、少しばかり甲高い音が木霊した。

　伊藤誠也。

　私のボディーガードを自称する彼は地域で名高いヤンキーであり、校内随一の問題児。そんなヤツに一日中付き纏われるわけだから、人が寄り付くはずもない。当然やばいヤツの仲間扱いされるから、友達もできない。

　ボディーガードというか、むしろ貧乏神。悔しいことに顔立ちは綺麗だけど、他は全て王子様と程遠い。

　言い方を変えるならまさに悪役……ヴィランである。
 
 

　お嬢、という呼び名は本名とは関係ない。けど、私の出自を踏まえると、ある意味で妥当な渾名なのかもしれない。

　私、清水静香は巨大企業の社長を親に持つ、いわゆる令嬢だった。と言っても英才教育を施されるほど窮屈な生活ではなく、むしろ自由奔放に過ごせていたと思う。父が大らかな人で、私に束縛のない進路選択を望んでいたことが関係していたのだろう。

　だから小中共に近所の公立の学校に通学していたし、他の子達と然程大差ない日々を過ごしていた。

　しかし何の差異もないわけではない。着ていく洋服、身に着ける道具とかは全部高級なものだったから、周りの子に羨望の眼差しを向けられた。

　その過程で付いた渾名が「お嬢」だ。

　恐らく私を良く思わない子が皮肉を込めて付けたのだろうが、既に意図を理解していた当時は特に気に留めなかった。

　ただ、そこに「軽蔑」が混ざり込んだ今となっては、話が変わってくる。

　中学校生活も佳境に入り、高校受験も間近に差し迫った時。
　私は令嬢ではなくなった。

　過去の裕福な生活も、洋服も、栄光も、灰となって時間の流れと共に吹き去ってしまった。

　父が度重なる不運により、地位を失ってしまったのだ。一つは出任せも甚だしい不祥事案件。もう一つは、そこから派生した社員全体のボイコット運動だった。
 
 

「おいおい、高校デビュー失敗したからって落ち込むなよ？　な？」

　誠也の素っ頓狂な声に意識を引き戻され、私はまた小さく嘆息する。

「まあ、気持ちは分かるよ。期待してた新生活で出鼻を挫かれると、すっげぇ気が抜けるよな」

「うるさい。同情するなら今すぐ私から離れて。そうすれば視線も止むから」

「おいおい、相変わらず辛辣だな。悪いが、その要望には応えられねぇ。何故なら、ガキの頃に立てたお前との誓いがあるからな！」

「アンタも律儀ね……逆に鬱陶しいぐらいなんだけど」

　──俺がお前を護ってやる。
　だから、お前も俺の傍から離れるな──。

　小学校の時に立てられた誓いとやらをこんなところで持ち出されても、逆に恥ずかしいだけだった。

　本当にこの男は、身体だけが成長して精神はずっと子供というか……まるで歳下を相手にしている気分だ。

　喧騒に満たされる校内の廊下。その白い壁に黒板の如く描かれた落書きを横目に、吐き気をぐっと堪える。

「……悪いけど、もう誠也に護ってもらう必要はないから。てか本来ならアンタとは高校の時点でおさらばする予定だったんだし」

「ホント可愛くねえな、お前は。というか、この場所で小中の頃の常識が通じるとは思うなよ？　今まで何とかなってたことも、ここでは──」

　誠也の余計な忠告が、不意に遮られる。

　突然、前に現れた巨大な人影。「噂をすれば」と呟く誠也の小声。すぐに尋常でない空気を肌身で感じ取った。

　おもむろに、目線を上げる。

　そこには盾のような胸板を張った巨躯の男が、鋭い睥睨をこちらに向けていた。恐怖によるものか、すぐ横の教室で他の生徒達が息を殺しているのが解る。

「……おい」

　今にも首を掻き切りそうなほど濃密な殺意を、男は重低音の声に乗せて放出した。

「どけ、新入生。この俺を誰と心得ている」

　空気が一気に張り詰めたのを感じ、思わず息を呑む。

「一度なら許してやる。だが二度目はない。肝に銘じておけ……ここは俺の通る道だ。さっさと道を開けろ」

　ひっ、と小さく情けない声が教室から聞こえてきた。反応や空気感から、彼がどのような人物なのか漠然とだけど理解させられる。

　けど、今の私にあるのは恐怖じゃない。
　単純な、憤りだった。

「何よ偉そうに！」

「ちょっ、おい。お嬢？」

　珍しく動揺する誠也を無視して、私は大男に一歩近づいた。

「廊下は個人の所有物じゃないんだけど。子供みたいな駄々捏ねないでくれる？」

「あ？　なんだ、テメエ……」

　大男の目の端が、怒りによるものか充血した。

「女だからって調子乗ってんじゃねえぞ？　悪いが俺は誰であろうと容赦しねえ。その態度改めねえと、今すぐぶっ飛ばしてやる」

「ふうん。じゃあやってみたら？」

　ピキッ、とどこかから異様な音がした。

「ふざけんじゃねぇぞクソガキがぁぁぁッ！」

　咆哮を上げて、男は拳を振り抜いた。

　一瞬の出来事だった。大男が鬼の形相をして足を強く踏み込み、銃弾の如く拳を放ってくる。背後で誠也の叫び声が聞こえてきたが、庇うには多分間に合わない。

　そう判断できるぐらいには、余裕があった。
　余裕ができる程、相手の動きが鈍く見えた。

「おっふ」

　静寂を破ったのは私ではなく、大男の声だった。
　それも最初の貫禄が嘘かのような、呆けた声。

　放たれた拳を軽くいなし、無防備なみぞおちにストレートを決める。態勢が崩れたところで更に襟を掴み、彼の股間を膝で蹴った。

「おっふ」

　より一層、情けなくなる男の呻き声。いっ、とすぐ隣で小さな悲鳴が聞こえた気がした。

　だがこれで終わりじゃない。若干内股になる大男の襟を両手で掴み、奴の丸太のような脚を引っかけた。

　態勢を崩し、ズンと床に倒れ込む巨体。追い打ちをかけるべくその背中に跨り、片手で項を掴み、もう片方で腕を逆側に引っ張った。

「どう？　まだ続ける？　満足するまで付き合うけど？」

　啖呵を切った、その時だった。

「ひぐっ……ごめんなさい」

　床から、啜り泣く声が聞こえてきた。

　思わず拍子抜けしてしまった。もう数分程抗うものかと踏んでいたのに、敵は割とあっさり折れた。むしろ虐められた子供のように、泣きじゃくっていた。

「今まで学校の強い人ボコスカできてたから……調子乗ってました……。ぐすっ……許してくだしゃい」

　えっ、と間抜けな声を上げてしまったのと同時に。
　廊下の至る所から、歓声が沸き上がった。

　喧しくて上手く聞き取れなかった。けど「凄い」だの「俺達は自由だ」だの「あの新入生何者だ」だの、賞賛や喜びの声であったことは確かだった。

　称えられるのは久々だったから、嬉しかった。ただ、正直褒められることではない。何よ、こんなに隙だらけな泣き虫相手に。コイツを好き放題させてたこの環境にも問題があるわ。

　すっかり呆れ返ったのと、羞恥心が湧き出すのを抑えるべく、私は軽く手を振る程度で廊下を去った。離れてもなお寝そべっていた大男など、振り返りもせずに。

　それから下校時間までしばらく、私の大男討伐事件は学年中でひそひそと噂される結果となった。
 
 

「おい、お嬢。待てって」

　校門を出て、住宅街に出たところで息切れの誠也が声をかけてくる。振り返ると、眩い橙色の光が両目に突き刺さった。

「掃除当番があるから待てって言ったよな？　守ったやれなかったことを怒ってるのか？　あれは急にお前が挑発するから──」

「うん？　別に私は怒ってないけど」

　そう答えて向き直るものの、誠也の表情にはやはり軽薄が滲み出ている。少しは反省しているのかな、と期待した私が馬鹿だった。

　ま、怒ってないのは本心だけども。

「あの時は、自分で自分の身を護れることを証明してあげただけだけど？　もう誠也に庇ってもらう必要はない。だから勝手に帰ったの」

「……あのなあ、お嬢さん」

　困惑するように笑って、誠也はかぶりを振った。

「確かに俺は知ってるさ。昔、お前が護身用に空手とかを習得させられてたことぐらい。柔道に関しては少し鈍ってたが……まあ、そこはどうでもいいさ」

　向けられた彼の眼差しに真面目さは微塵もない。ただ普段じゃ考えられないほど真っ直ぐで、ほんの少し動揺してしまう。

「昼は運が良かっただけだ。だが、毎回こう上手くいくとは限らねえ。学校は勿論、帰り道に襲われる可能性だってあり得るんだぜ？」

　何よ、弱い者扱いして。
　気づけば、自分の拳を強く握っていた。

「お前が強いことは十分認めてる。それも俺に匹敵するぐらい。だがなぁ、もう少し自分の立場を理解しろ。自分がどれほど危ういところに立っているかってことを」

「……うるさい」

「もはや周りの人全員が敵と言っても過言じゃねぇ。けど俺は違う。俺だけはお前を護ってやれる。だから──」

「うるさいってば！」

　たまらず、私は感情をアスファルトにぶちまけた。
　自分の声で、耳がキンと鳴った。

「どんだけ過保護なのよ、アンタは！　逆に私の自由を奪ってるってことが解らないの？」

　勢いよく、私は顔を上げる。誠也は目を丸くし、眉根を微かに下げていた。軽率な彼に似合わぬ表情だったけど、この際どうでもよかった。

「何？　アンタも私の失墜を馬鹿にしたいわけ？　金持ちから貧乏に一変したのを、まるで漫才みたいに面白がる。所詮アンタも、あの外道達と同類ってことね？」

「ちょっ、何言ってんだよ。そんなこと一言も──」

「何が違うのよ。私を弱い者扱いして、自分を高く上げようとしてるくせに。内心では馬鹿にしてるんでしょ？　どうせコイツは自分がいないと何もできないって。子供扱いしないでよ！　少なくともアンタよりは、成績も良いんだから！」

　私の勢いに気圧されたのか、誠也は口を噤んだ。もしくは図星だったのだろう──私を内心で見下していたことが。余計に悔しくなって、必要以上に口の中で想いが膨らんだ。

「それか何？　私を悲劇のヒロインに仕立てて、ヒーローになって、今までの汚名を返上しようとしてるの？　ばっかじゃないの……それだけじゃ、アンタの拳に付いた血は拭えないわよ？」

「…………」

「沈黙は承認と見做すけど？　……まあ、いいわ。そういうことだから、二度と私に寄り付かないで」

　そう言い残して、私は踵を返す。背後から足音が追ってくることは勿論ない。喉の奥に残る後悔を強引に呑み込んで、逃げるように帰路を進んだ。
 
 

　少し、言い過ぎただろうか。

　住宅街を抜けた先で、ふとそんな言葉が頭に浮かぶ。

　何を今更悔やんでいるんだろう。馬鹿にしていたのは本当のはずなのに。私は至極当然な意見を口にしただけなのに。何も後悔する必要なんてないはずだ。

　甘ったれた自分の人格に舌打ちして、私は坂を下り、おんぼろな軒並みの合間を突き進んだ。すぐ横には窓硝子の割れたまま放置された一軒家。頭上では、二羽のカラスが嘲笑していた。

　室外機の埃っぽい轟音を浴びると、少し広い道路に出る。その一角には、赤茶色に染まった私の家。夕陽にも見放された悲壮感溢れるアパートは、いつ見ても胸を締め付けられる。

　どうして、こうなっちゃったんだっけ。
　私達家族が、何をしたと言うんだろう。

　こんなのあんまりだ。出来ることなら過去に戻るか人生をやり直したい。お金持ちになりたい、なんて我儘は言わないから普通の日常が欲しい。それだけで十分なのに、それすらも許されないのだろうか。

　唇を強く噛んで、拳を握った。普段以上に感情の制御が効かない。これも全部誠也の所為だ。アイツのヒーローごっこが、私の自尊心を滅茶苦茶にする。自分の身ぐらい、自分で護れるのに。

　家の前で立ち尽くし、時間だけを浪費する。

　何も吐き出せずにただ直立していると、不意に異様な空気を感じ取った。途端に、背中から全身にかけて悪寒が駆け巡る。

　何かが、近づいてくる。

　足音が聞こえた。ひた、ひた、と静寂に潜む音だ。それも一つじゃない。二人、三人……四人。いや、最悪もっといる。殺意を持った沢山の気配が、私を取り囲んでいた。

　ようやく頭が冴え渡り、背後を振り返る。

「……おっと、気づかれちまったか。本当なら気づかれる前にさっさと済ませたかったんだが、まあこの際どうでもいいか」

　相手が誠也だったら、どれほど良かったか。

　だが現実は甘くない。自分が認識している以上に広大で、残酷だ。アイツも忠告していたはずなのに、今になってその重要性を痛感することになるなんて。

　そこに立っていたのは、サングラスをかけた強面の男だった。五十代前半と見られる彼は少し白髪の混ざった角刈りで、発達した肉体を黒いスーツで包み込んでいた。

　男の背後には、部下と思われる男達が疎らに並んでいた。坊主の男。金髪の無精髭。七三分けのサングラス。そのどれもがヤクザらしい厳つい容姿をしていた。

　ごくり、と固唾が流れ落ちる。
　こいつら……絶対強い。

　流石の私でも、全員は捌けない……！

「わりぃな、嬢ちゃん。俺達もこんなことはしたくねぇんだ」

　強面男は口に咥えていた煙草に火を付け、灰色の溜息をついた。

「だがなぁ、お前の父ちゃんがいけねぇんだ。アイツがいつまでも借金を返さねぇからこうなった。憎むなら、あの男を憎むんだな」

「お父さんが……？」

　恐怖が、徐々に苛立ちへと変換されていく。

「……お父さんが、何をしたって言うのよ」

「あ？　言っただろ、借金を返さねぇんだって。しかも不祥事で堕落した社長サマだろ？　……舐めてんのか、ケジメつけねぇ甘ちゃんがよ」

「お父さんは……何も悪くない」

「ああ、そうだな。嬢ちゃんの前では何もしてねぇだろうな。だがよく覚えておけ。世の中はアンタが思ってる以上に深いんだ。嬢ちゃんの知らねえところで、父ちゃんは汚ぇツラたくさん見せてんだよ」

　無知を馬鹿にするように、男は眼差しを向けた。

　……言われなくても、知ってる。

「良いか？　教えてやるよ。アンタの父ちゃんはな……結婚が決まってた社内の女をなぁ、合意なしに穢したんだよ」

　全部、父から聞かされた。

「それだけじゃねぇ。契約してる子会社から必要以上の資金を獲得し、我が物にしてたんだ。どうせ女遊びに費やしてたんだろ。何処までも汚い野郎だ」

　それも、聞いた。

　全て、別の人から着せられた濡れ衣だってことも。

「まだ納得いかねぇか？　これが現実なんだよ。新聞、雑誌、テレビでも取り上げられてる。いいか？　アンタら家族は、社会の汚物なんだよ」

　うるさい。アンタ達は何も知らないくせに。

　お父さんが、どれだけ人格者だったか。社員全員を気にかけ、少しでも口論になれば真っ先に相手のメンタルを心配する、馬鹿が付くぐらいのお人好しだってことを。

　最初の家が取り押さえになった日だって、罪を着せた人を憎むより先に、私達家族に土下座したのだ。巻き込んでごめん。これも社員の期待に応えられなかった、自分の不甲斐なさの所為だ、って。

「それなのに金を貸せだ？　はっ、ふざけるのも大概にしろ。怒りを堪えて貸してやった俺の寛容さに感謝してほしいものだ」

　お父さんは……自己肯定感が低いんだ。

　他人を労わるくせに、自分を極限まで責め立てる。だから悪人に騙されるわけだけど、そんなお父さんが私は大好きだ。

　誰よりも人を傷つけることを恐れるお父さんが、強姦なんかできるはずがない。金を盗み取る度胸があるわけない。

　そんなことも知らないくせに、こいつらは……！

「んで、今度は期限内に返さねぇと来た。……どこまで汚ぇ野郎なんだよ。もう十分だろ。これでアンタの父ちゃんが──おっと」

　……気づいた時には、足を振りかぶっていた。

　けど、歴戦の風格を醸し出すこの男相手にはあまりにも無謀すぎて、容易く片手で防がれてしまう。

「……逆ギレか」

　男の目が、瞬時に冷え切った。

「所詮、親と子は似た者同士、ってことか。残念だ。嬢ちゃんだったら理解してくれるとおもったんだけど……なッ！」

　語尾で吼えて、相手はくいと手を捻った。途端、足の付け根に激痛が走り、喘ぐ暇も与えられないまま空中で回転させられ──。

　そのまま、地面に叩きつけられる。
　そう実感した瞬間、顎や膝など至る所で鈍痛が滲み、歯を食いしばった。

「悪いな。俺達は女子供に手加減できるほど、甘くねぇんだ」

　頭上で、低く重い声がのしかかってくる。
　首の裏で冷たいものが走り、全身が震えた。

「野郎共。早くコイツを捕らえろ。ずらかるぞ」

　トーンを一切変えず、男は言った。足音が幾つも重なるのを耳にし、もう駄目かと覚悟して、ぎゅっと目を瞑った。

　が、その時だった。

「ぐはっ……！」

　遠くの方で、悲鳴が聞こえた気がした。最初は幻かと思ったけど、段々と数が増えて激しい物音と混ざり合い、ようやく現実のものだと理解する。

　ベースとなっていたのは、徐々に音量を増していく何かの駆動音。これはもしや……バイク？

「何だ？　何が起き、い……ッ！」

　駆動音が止み、男が悪態をついたところで、今度は骨のめり込む音が響く。クレッシェンドする喧騒。靴の摩擦音。悲鳴と重なる、ごみ箱の倒れる音。

　それらが止んだ時、不意に何者かに両腕を掴まれ、ひっ、と情けない声を上げる。抵抗する暇もなく、何者かの腕に抱きかかえられて、包囲網から離れていく。

　この態勢。この抱えられ方。
　これっていわゆる……お姫様抱っこでは？

「言ったろ？　何があってもお前を護るって」

　段々とはっきりしてくる視界の中で、彼は言った。見慣れた茶髪を揺らし、頬に掠り傷を付け、白い歯を見せて笑っている。

「せい……や？」

　最後まで、目を疑った。

　どうしてこんなところに。あんなに近寄るな、と強く非難したのに。アンタに護られる必要はないって、酷いこと言ったのに。

　答えを得られるより先に、私はアパートに隣接した空き地の芝生に降ろされる。

「ははっ、こっぴどくやられたな？　さっきの威勢はどうしたんだ？」

「誠也……どうしてここに」

「アイツらは全員倒す。あんなの、俺の手にかかればお茶の子さいさいだ。良いか？　怪我してんだから絶対に動くんじゃねぇぞ？」

「ちょっ、質問に答えなさいよ！　もう私がアンタに護られる資格は──」

　上体を起こし、そう言いかけたところで。

　誠也の顔が、右耳のすぐ横に来た。

　左肩に手を置かれ、半ば抱き留められる形で。

「……黙れ」

　吐息の混じった、誠也の言葉。
　いつもの軽薄さとは正反対の、冷めた声音だった。

「……いいか、静香」

　静香。
「お嬢」じゃないその呼び名に、キュッと肩が引き締まる。

「俺の言うことを聞け。これは命令だ。無視したらただじゃおかねえ」

「……はい」

「それともう一つ」

　普段と違う息遣いに、思わず呼吸が止まった。
 

「──二度と、俺の傍から離れるな」

 
「……はい」

　半ば操られるように、私はゆっくり頷いた。

　よし、と明るい口調に戻ったかと思うと、誠也は私の耳元から離れた。自分らしくない、と自覚しているものの、胸の奥底で物寂しさが焼け跡の如く滲んでいく。

　恍惚に似た気分から我に返り、私は顔を上げた。

　夕陽に照らされて影を背負う誠也の背中は、普段の何倍も大きく見える。なんだ、ここにも陽が入るじゃないか。ふと、そんなどうでもいいことが脳裏に浮かんだ。
 

 
「チッ、今日のところは見逃してやるよ」

　そう悪態をついた角刈り男は、傷だらけの部下を引き連れて踵を返した。黄昏を浴びて去って行くその背中は拍子抜けしてしまうほど小さかった。

「一昨日来やがれ！　……ってな。思ったより手強かったが、何とかなったな」

　両手をパンパンとはたいて、誠也は私に笑いかけた。表面では強がっているが、身体の至る所に傷や痣が目立っていた。

「さてと、疲れたし帰って寝るか。お嬢も気をつけて帰れよ……と言っても目の前か。それじゃあ──」

「待って」

　帰路に立とうとする誠也の腕を、未だ立てずにいた私は咄嗟に掴んだ。

　本当にどうしてこの人は……。
　こんなに酷い怪我をしておきながら、平気で笑えるんだろう。

「怪我の治療ぐらいさせて。全部私の傲慢さが招いたことだから、責任だけ取らせてほしい」

「はあ？　責任だあ？　お前はホント素直じゃねぇなぁ……仕方ねぇ」

　振り返って、彼はすぐ目の前に座り込んだ。
　優しい眼差しを、私の目線に合わせて。

「俺はただ、お前の『ありがとう』を聞かせてほしいだけなんだけど？」

「えっ……？」

「その方が治療の何倍も嬉しいんだけど。お前の役に立てたことを実感できるんだけど。……ほら、言って」

　ホント、ずるいヤツ。

　そんなこと子供みたいにねだられたら……断れるわけないじゃない。

「……ありがとう」

　耳が熱くなるのを感じて、私は目線を逸らした。

「貴方のお陰で助かった。それと、もう護ってもらう必要はないって突き放して……ごめんなさい。友達ができないのは、貴方じゃなくて私の問題なのに」

「……いや？　それは違うだろ。悪いのはお前のことを知ろうとせずに距離を置くあいつらの問題だろ」

　そう答えて、誠也は優しく微笑んだ。
　今日は何だか、彼の珍しい表情を見ることが多い気がする。

「まあ、大丈夫だ。時間をかければきっと、お前の良さを理解してくれる人も現れるさ。それまでは俺が隣に居てやるよ」

「……何か弱みに付け込まれたみたいで釈然としないわ」

　はあ、と大きく嘆息する。

「あと、治療だけはさせてほしいんだけど。アンタが怪我してるの見てたら落ち着かないから」

「はいはい。それじゃ、お言葉に甘えるとしますか」

　人を小馬鹿にするような軽い口調が、今では安らぎを齎すほど心強かった。緊張が一気に解れて、思わず表情を和らげてしまう。

　いつの間にか日の沈んだ空は、藍色の闇の中で小さな明星を瞬かせていた。私の貧乏生活の中で、唯一心の許せる存在だった。
 
　　◇
 
「……さてと」

　静香からの治療を受けて家に戻った俺は、すぐに屋根裏に潜り込んだ。席に着いた目の先には、ゴミ山から回収して修理、改造したモニターの数々。とある会社の防犯カメラをハッキングした映像がそれぞれ映っていた。

　そのうちの一つ、社長室を映す画面の先で、男は──俺の叔父は今日も秘書の女を誑かせていた。……相変わらず反吐が出る。その椅子には本来、静香の親父が座っているはずだったのに。

「次はどんな嫌がらせをしてやろうか。そうだな、ヤツの配下──」

　口に指を添えて、さっき相手をしたチンピラ共の顔を思い返す。ヤツらの戦慄した表情を想像するだけで……口端が釣り上がった。

「……あそこを潰すか」

　今晩の遊び場所を定めて、時計を見やる。時刻は六時五分。決行は零時にしよう。あの程度なら、真正面から攻めても秒で殺せる。

　椅子から降りて、床に転がっていた金属製のメリケンサックに指を通す。先端には、一生落ちることのない外道共の血液。俺が犯してきた罪の数々が、そこに刻まれていた。

「待ってろよ、静香」

　黒く小さな凶器を、俺は強く握りしめた。

「お前の無念、この俺が晴らしてやる」

　誓いという名の独り言が、薄暗い室内に溶けていく。

　最初はガキのヒーローごっこだった。
　それが命運に変わったのも、静香が手を差し伸べてくれたお陰だった。

　中学の頃、理不尽なチンピラに絡まれて倍返しにしたのを学校で罰せられた。退学も迫られた中、ただ一人静香だけが味方してくれたのだ。あの時の恩を、一生忘れることはないだろう。

　だから、許せなかった。
　善人が損をして、悪人が得をするこの世界が。

　俺の手はいくらでも汚れていい。
　静香の未来が近い将来、明るいものへと変わるのなら。

　アイツを傷つけるヤツは、何人たりとも許すものか。

「アイツのことは……俺が護る」

　自分に言い聞かせるように、俺は静かに呟いた。

　自分の中に巣食う赤黒い闘志──もしくは殺意が、俺の意志に応えるように小さく笑った。

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