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感情を解放するには、まず「自分」をしっかり安定させること

最近、心理療法の先生から何度も「いきなりトラウマに踏み込まないこと」「まずは自分の中に冷静な感覚を培うこと」と言われる。

しかし私は、自分を大切にするなんて考えもせず、この6年間、ひたすら、がむしゃらにトラウマに突っ込んできた。

あらゆる技法を試して、持ち前の集中力と底力でなんとかなってきたから、先生の言葉に、これまでの自分を否定されているような気がして、ここ最近は、治療院に向かうのが憂鬱になっていた。

昨日、「自分の中の欠落を埋めるには、感情を解放して受け止める必要がある」といった旨の記事を書いた。

この記事を書いたあとに、色々な感情が湧き上がってきたが、ふと「ただ泣いて泣いて泣きまくっても、誰にも受け止めてもらえないのが怖い」という言葉が湧き上がってきた。

確かに、「泣く」というのは人間の根源的な行動で、大抵は何か助けを求めたり、食事を要求したり、相手に何かを求める形で発現する。また、泣いているという状態は弱い状態だから、周囲に危険があるとおいそれと泣いてはいられない。

私の最初期のトラウマは悪意のないネグレクト。普通の赤ん坊よりもずっと泣き声が大きく、なかなか泣き止まなかったらしく、面倒を見る事に疲れた祖母が、放置したら泣き止んだので、以降私は泣くと放置されたらしい。

この出来事から、「泣いても助けてもらえない」というのは私にとって根源的な恐怖として刻まれている。実際、私は未だに泣き虫で、夫の前ではよく泣くけれど、わんわん大泣きしていたと思ったら急に虚しくなって泣くのをやめてしまう。

つまり、感情の解放には「受け止める側」が必要になってくる。そして同時に、そこは安全な場所だという認識が必要なのだ。

それはどの心理療法でも変わらないと思う。やはり最初は、カウンセラーやセラピストが擬似的に作り出した安全圏の中で行う事が一般的だと思うし、パートナーや友人に頼れるならそれでもいいだろう。

しかし他人がいても、自分で受け止める準備が出来ていないと、やはり完全に解放する事は難しい。それに、ずっと一緒にはいられないし、他人である以上、自分の苦しみや要求を100%理解する事はできない。

だから最終的には、自分で受け止められるようになる必要がある。

しかし今の私はどうだろう。調子が悪くなるとちょっとした事ですぐ不安になるし、恐怖で動けなくなるし、無理やり自分を鼓舞してまともに振る舞っても、やはりその反動で落ちてしまう。

今の治療院で、一度だけ、検査の過程で耳の反射区(ツボ)を刺激してもらった事がある。その時、心の底から「落ち着いている」という感覚を味わった事が、ものすごく印象に残っている。

なぜなら、それは今まで味わったことのない「落ち着き」で、いつも「冷静に振る舞えている」と思っている自分の感覚とはあまりに違いすぎたためだ。それと普段とを比較して、「普段」は殆ど冷静と言える状態ではないと、直感的に気付いてしまった。

「冷静に振る舞えている」と思っている私は、その実、周囲への恐怖や不安から頑なに自分を守ろうと感情を抑え込んで、動じないようにあらゆる感覚を閉じて、麻痺させている状態なのだ。実際、人と話すととても緊張するし、家に帰ると、いつもどっと疲れていた。

そんな不安定な状態で、暴れる子供自分の感情の面倒を見る事は出来るだろうか? そんな不安定な状態のじぶんに、子供が安心して心から甘える事ができるだろうか?

常に警戒態勢で、自律神経が興奮している私の肉体は、心にとって「安全圏」と言えるだろうか……?

ここで、冒頭の、先生の言葉を改めて振り返る。

「いきなりトラウマに踏み込まないこと」
「まずは自分の中に冷静な感覚を培うこと」

これはつまり、自分の感情をしっかりと受け止めるために、まずは受け止め手としての冷静で穏やかな「自分自身」をしっかり築く必要があるという事なんじゃないか。

私の中で、ひとつの謎が解けた。矛盾していたものが、一本の線につながった。

幸せになることが怖かった。どこかに罪悪感があったから、幸せになってはいけないと思っていた。それに、穏やかで安心できる生活は、いつか脅かされるという強い恐怖心がある。だから自分を追い込んで、ネガティブな方ばかり見ていた。

しかし、冷静な自分──パーツ心理学では「セルフ」と言うらしい──は、体の感覚を養ったり、睡眠や栄養で身体を整えて、できるだけストレスを避けて、穏やかな状態に持って行く事で育っていく。

つまり、言葉としては短絡的に感じるかもしれないが、「自分を大切にしていい」「今ここの幸せを感じていい」という事。むしろ、するべきで、それが、自分の心の解放にも繋がっていく。

安全な身体の感覚と、「泣いても大丈夫、そばで見守っている」と心から言える穏やかな自己が確立されれば、内なる感情も、安心して泣いて、感情を解放する事ができるのだと思う。

なら、もう少し気楽に、喜びにフォーカスして生きてみようかな……と、素直に思うことができた。

あくまでこれまでの積み重ねで自分がそう思えるだけで、思えないなら思えないでいいと思うし、私もまた、そう思えないほど落ちる事もあると思う。

また、「自分のやり方が否定されている」と感じているけれど、これまでやってきた事は、少なくとも、私にとっては間違いではなかった。

私はとにかく「納得感」が大切で、ぶっちゃけとても頑固だ。人の顔色を伺う割に、自分の中で腹落ちしないと、行動には移せない。

だから、「いきなりトラウマに踏み込まないこと」が、リスク回避の観点から見れば正しかったとしても、個人の人生においては、必要な場合もあるのだ。

誰の人生にも段階はあって、「踏み込まない治療」に出会えて、そこから始められる人もいるのだろう。もしそうなら多分、その方が安全だ。私と同じやり方は、できる人とできない人がいると思うし。

確かに、傾聴でトラウマにいきなり突っ込んだから、フラバで仕事をやめざるを得なくなってしまったという見方もできる。

しかし大きな視点で見れば働けなくなる事は必要な経験だったと思うし、当時は安全圏も足場もぶっ壊れてしまったので(というかそもそもなかった事に気付かされたと言う方が正しいかも知れない)、自分を顧みずに核に突っ込む事で、辛い感情を吐き出す事が必要だった。

それに、傾聴でも気付きや癒しはあったし、言語化に集中し続けたから、言葉だけでは足りない事、身体へのアプローチへの必要性にも気付く事ができた。

まあ、ここでも、身体に着眼したはいいものの、初めてのボディセラピーで、トラウマに一気に踏み込みひどいフラッシュバックを起こしてしまったのだけど……。おまけにその時は状況が色々と最悪で、トラウマに踏み込もうとすると、身体が強ばるようになってしまった。

当時は気付かなかったが、この事で漸く「いきなりトラウマに踏み込んではいけない」を、身体が伝えようとしてきていたんだろう。

それにより、「もう少し楽なやり方がないか」と思えるようになり、アクセスバーズに出会うことが出来た。

アクセスバーズを続けていくうちに、回復が早くなったし、直感も開いて自己イメージもかなり変わった。

その効果を意図してのものではなかったけれど、もしかしたら、アクセスバーズは冷静な自分、つまり「セルフ」の構築、足場作りに一役買っているのではないかと思う。

この数ヶ月、本気で自分のこれまでが失敗だったんじゃないかと悶々と悩んでしまっていた。しかし、こうしてプロセスを振り返ってみれば、失敗を次に繋げられているし、逆にこれまでの経験があるから、今回の「いきなりトラウマに踏み込まないこと」も身を以てその大変さを実感できる。

もちろんあくまで私自身はこうだった、という話なので、人それぞれプロセスや必要な事は違うだろう。

自己を掘り下げることはこの数年ですっかり癖になってしまったから、また一進一退にはなるだろうけれど。今回の気付きで、言葉の本質に気付き、矛盾が解消されたから、また歩き出す事ができる。

些細なことを気にしてくよくよ落ち込む性質は、些細な幸せに気付き、喜びを得られる感受性でもあると思うから。

今は、できるだけ自分を大切にして、冷静な自分──「セルフ」をしっかり育てていこうと思う。

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