自分らしさの蓋を外して出てきたものは、明るくはなかったけど美しかった
「物語を書いて生きていきたいのなら、四の五の言わず今すぐ書きなさい」
身体のケアをするために尋ねたセッションで言われたのは、意外な言葉だった。
「一日5分でもいい。トイレに行くくらい当たり前の感覚で『物を書く』という事ができるよう、自分の日常にそれを落とし込んで行く。それが今のあなたのやるべき事です」
私の中にずっとあった甘ったれた気持ちを、全て引っ剥がすような強い言葉。その方が言っているから響くのではなく、今の私に本当に必要な言葉だから響く、そんな感じだった。
「料理人は食材を調理して、調整して、新たな料理を生み出す事ができる。でも大抵の人は作るだけで精一杯、食材を消費するだけ」
「言葉も同じなんです。多くの人は言葉を消費するだけで終わっている。言葉を創造できるのは、一握りの人間。あなたにはそれができるのだから、そのエネルギーを言い訳に使っている場合じゃない」
これまでどれだけ「才能がある」とか「文章を書く事はすべての人に出来る訳じゃない」とか言われても全く響かなかったのに、このときの言葉は非常に重く、わたしの核を貫いた。
ああ、ほんとうに、言い訳なんてしてる場合じゃないなと。
今にして思えば、たくさんもらった褒め言葉を受け取れなかったのは、この時引っ剥がされた甘ったれた気持ち、もっと言えば恐怖とか不安という殻で自分を守っていたから。
拒絶され、否定される痛み。自分の無力感と向き合う恐怖。それらを感じたくないから、自分が「人生をかけてでも書くべき」人間なのだと、信じる事が怖かった。信じてしまったら、書かざるを得ないから。口では「書きたい」と言いながら、心では「書きたくない」と頑なに拒絶していた。
*
書けなくなった──正確には、SNS上の自分に違和感を感じて、文章を人に見られる事が怖いという気持ちが抑えられなくなった2月から、ずっと葛藤していた。
最初は本当に、何も出なくなった。書こうと思わないし、書かなくても世の中には楽しいことがたくさんあるんだから生きていける、なんて思うことすらあった。人と関わるのもなんとなく嫌になって、SNSも見なくなった。
そうは言っても、何も書かないでいると苦しくなって、感情が爆発してしまった。やっぱり、苦しくても、いや苦しいからこそ、私には言葉にする事が必要なんだと思った。
最初は単語レベルでもいいとハードルを下げて、感情を吐き出した。吐きそうとか、死にたいとか、そんなものばかり。
そのうちそれが日記レベルになって、思考や感情を言葉にできるようになるまで、そこまで時間はかからなかった。
ただ何か、エッセイや記事として完成に持っていく気力はなくて。ほとんど読む人がいない二次創作ならと思って手をつけてみたけど、それも結局書き上げるまでには至らなくて。
自分に課したハードルが異様に高いのだということにも薄々気付いていたけれど、気付いたところで完成へのハードルの高さは変わらず、結局ただ垂れ流すだけ。
同時に、人に見せることが途端に嫌になった。
人から見える場所に出すなら、人の役に立つ文章、人に伝わる文章を。
占い師として、オタクとして、「逸見灯里」として。
そう思うと、急にうんざりした気持ちになって、別に伝えたいことなんてないし、と心が閉じてしまう。
書くことそれ自体は楽しい。だったら、誰にも見せず自己満足の文章を書くだけでいい。今のままでも十分だ。そう思う事すらあった。
*
ある昼下がり。本当に何気ない瞬間。それこそ洗濯物を畳んでいるようなときに、「自分の中にある物語を紡ぎたい、書いていたい」という、強い衝動が湧き上がってきた。実際の温度として、身体に熱を感じるほどの。
「そんな事をして何になる」
「お金にならないのだから無駄なことだ」
そう言われて生きてきた私にとって、以前はその思い込みの方が「現実」だった。しかしその時は、その強い衝動、わたしの中にくすぶる熱が「現実」なのだと実感した。
だって、親の言っていた事は実感できないけど、この腹の底から湧き上がる熱は、今確かに、身体が感じているのだから。
それで気付いた。
別に何を書いてもいい。それこそ二次創作だっていい。
誰に見られるとか、何を書くかとかは問題じゃない。
本当の問題は、私がずっと「物語を書いて生きていきたい」という自分の本音に蓋をしていたという事。
その蓋を外すことが、自分らしく生きるということで、今の私には必要な事なんだと気付いた。
でも、物語を書いて生きていく自分を想像してみたけれど、今ここからどうしたらいいかわからなくて、途方に暮れてしまった。
*
また別の日のこと。
とんでもなく落ち込んで、ふさぎ込んで、自己否定ループにハマってぐるぐるしていた。
私は定期的に死にたくなるので、もはやそれは生活の一部だったのだけど、この頃はその本気度と自暴自棄具合がかなり加速してきていた。
「私が死んでも、私以外の人間が役割を果たせばいい」
「私なんて生きていても無駄だ」
「生まれて来なければよかった」
細かいことはもう覚えていないけど、こんなふうにひたすら自分の存在を否定しまくってボコボコにしていた。
ただ、自分を苛め続けていた時、苦しくて仕方がないはずなのに、お腹の辺りに光を感じる瞬間があった。
それはどれだけ私がひどい言葉で否定しても、私をずっと見守り、応援して、私が自分の人生を生きる事を決めるのを待っていた存在。
直感的に、これが「魂」みたいなものだと思った。
涙で目を腫らしながら、光に問う。
「私はこんなにダメな人間で、生きている価値もない。もう生きているのも辛いし、諦めたいのに。どうして見捨てずにいてくれるの。そんなところで、ずっと待っていられるの。あなたが諦めれば、私は心置きなくこの命を捨てられるのに」
すると光がこう言った。
「わたしの人生を生きられるのは、私しかいないからだよ」
そう言われた時、うまく言えないのだけど、ただ「愛」だと思った。
誰かに求められ、愛されなければ、自分には価値がないと思っていた。むしろ、自分は価値がないから愛されなかったのだと、そう思って生きてきた。
自分の中に空いた穴を埋めるために、必死に走ってきた人生だったと思う。しかし、いつからか「その穴は自分の中にあるものを見ようとしていないからなんじゃないか?」と思うようになった。
そしてこの時、その光が、穴を埋めるものだと気付いた。
私の中に既に愛はあって。
誰からも必要とされなくても、何より自分が自分を必要としていた。
どんなに自分で自分を否定しても、どんなに酷い言葉を浴びせて、逃げようとしても、見捨てずに待っていてくれた。
何か、それってすごい事だと思った。
私は、他の誰でもない、自分自身のために、自分の人生を歩んでいかなければならない。こんなにも私を必要としてくれている存在がいるのに。
葛藤がない訳じゃなかった。自分を傷つける言葉でぐちゃぐちゃになった心には、怖さも怒りもあった。愛を受け入れがたい気持ち。
でもすぐに氷解して、
「こんなになっても諦めないでいてくれてありがとう」
「たくさん傷つけてごめんなさい」
そういう気持ちが湧いてきて、また泣いた。
ただ、その時の涙は、とてもあたたかかった。
*
自分らしさの蓋を外すためのプロセスは、自分の中だけでなく、人との関係でも起きた。
書けなくなっている間、私の創作物が好きだと言ってくれていた子が一人、離れていった。
とても傷付いたし、苦しかった。声を上げて泣いた。まるで失恋した時みたいな気持ちで。その時の取り乱しっぷりと来たら、人に見せられたものではなくて。
でも、きっと不健全な関係性だったと思う。すごく大好きだった。でも大好きだからこそ、不安から相手を繋ぎ止めようとしたし、そうすればするほど自分らしさから離れていった。
自分の書きたいものよりも、相手が喜ぶ事が優先で。でも、お互い本音で話せていないような感覚があったから、どんどんわからなくなっていって。
なんだかまるで、もう手放したはずの古い人間関係のパターンをもう一度演じているような感じがした。
有り体に言えば、無理をして付き合っていたんだと思う。
もっと腹を割って話せばよかったかな。
自分らしくいられれば違ったのかな。
かなり、かなり引きずった。
けれど、傷付いて悲しい反面、どこか安心もあった。
ああ。これで、自分の創作に心置きなく向き合える、と。
代わりに、別の友人とは距離が縮まった。
その子は私の書く創作物の元ネタを知らないけれど、二次創作を読んで感想を書いてほしいとお願いした。
もらった感想は、元ネタを知らないからこそ、元ネタの作品を介しての感想ではなくて、「私の書くもの」に対する感想や考察だった。私はそれがとても嬉しかった。
自分でも気付かなかった、でも本当は見てほしいと思っている部分に触れてくれる。
これまでの関係性の積み上げがあるからかもしれないけれど、それ以外でもたくさん話を聞いてもらっていて、すごくありがたいと思う。
*
鑑定セッションには、創作のことで悩むお客様がいらっしゃる。
先日も、創作についての相談を受けた。
作品を読ませていただいた上で、私がその方にお伝えした言葉が、自分にも突き刺さった。
「今まで培ってきたものを曲げる必要はない」
「好きを貫いて書いていって」
「物語を書いて生きていく」と腹をくくったはいいものの、まったく書く気になれなくて苦しんでいる時に、この言葉を他者にかけている。
この構図が、自分の中の苦しみを溢れさせた。
今までも、お客様との対話の中で、お客様が鏡のように感じる事はあったけど、この時は特に強烈だった。いちおう、お客様を憎むとか、そういう感情はない。何なら嫉妬すら湧かなかった。
そこにあったのはただ、自分に対する怒り。
でも、怒りで自分を切り刻んで「何やってんだお前は」と鼓舞するのは何か違うと感じた。
そんな事をしても、萎縮するばかりで余計に書けなくなる。
ひとまず、自分が「創作をして生きていく」とはどういう事なのかと明確に想像してみた。
たとえば金を稼ぎたいなら手段はいくらでもある。出版社への持ち込み。小説投稿サイト。そういう場所にオリジナルの作品を公開することを想像してみた。
すると、身体がこわばって、震えた。
もし、誰からも評価を得られなかったら。よしんば得られたとしても、そこに価値がついてしまったら。商業というラインに乗せられて、売上という明確な数字で結果が出てしまったら。
「おまえの書くものには価値がない」
そう示されてしまったら、立ち直れる気がしない。心の奥がとても小さくなる。断崖絶壁に立たされて足が竦むような、そんな弱々しい気持ちになる。
noteでだって、何かを書くときは、そこから飛び降りるような感覚で投稿ボタンを押していた。スキ数には今だって一喜一憂してしまう。
私は自分の価値を他人に定められる事をとにかく恐れている。
恐れているのは、傷つく事が怖いから。
事実、わたしはとんでもなく傷つきやすい。否定されて傷付いたら、もうその場に蹲って、歩けなくなるくらい弱い。でもそんな自分の弱さをずっと認めたくなかった。弱ければ見捨てられると思っていた。
そんな自分をひた隠しにして、隠した事すら忘れて、必死に強がって生きてきた。
そのせいか、何故かすごくて強い人のように見られる事が多かった。子供の頃は勉強ができる優等生だった。会社員時代も、身に余る評価をもらう事があった。
裏を返せばそれだけ完成度の高い鎧を作り上げるほどに、私の中の恐怖は強くて、鎧の中の心は弱々しかった。
好きなことを否定されるのが怖いから、出来る範囲だけで勝負する事しかできなくて、本当にやりたい事からは逃げ続けたから、自分の「好き」が埋もれてしまったんだ。
もう一度、その怖さに向き合わなくてはならない、と思うと、苦しくて、動けなくなった。
とりあえず文章として、浮かんできた気持ちを吐き出してしまおうと、スマホのメモアプリに書き留めたあと、ふと何気なくカメラロールを見返した。
カメラロールを見ようと思ったのはまったく別の目的だったけど、その時あるフォルダが目に入った。
そのフォルダは、もらって嬉しかったnoteのコメントやTwitterのリプライ、感銘を受けた記事のスクショだったり、自分の中に宝物としてしまっておこうと決めた言葉が詰まったもの。
かなり古い言葉も含め、スワイプしながら読み進めていると、何か急にこみ上げてきて、声を上げて泣いてしまった。
もちろん嬉しかったのもある。けれど、それらの奥にある愛に、改めて触れたと感じたのだ。
今までもらったコメントや、心に残したかった言葉たちは、それを投げかけた人たちにはそういう意図がなかったかもしれないけれど、少し前に気付いた「ずっと私を待ってくれていた光」と同質のものだった。
私は一体、今までどれだけたくさんの愛をもらってきて、そしてそれを蔑ろにしてきたんだろう。あの頃の私は何一つわかってはいなかった。それが情けなくて苦しくて、大声を上げて泣いた。
他者の返す輝きは、自分の光だった。その事に、ずっと気付けなかった。私には見えないという、ただそれだけの理由で。
これまで評価されていたのにそれを受け取れなかったのは、私が私を見ようとしていなかったことと同義だ。外から与えられる愛は、自分の本質から目を逸らしている限り、そのあたたかかさに気付くことはできないのかも知れない。
自分の中の愛に気付いたら、他者の愛が染みてきた。
怖くても、今は、私のままでいればいいと思う事ができた。
すると、いつか違う誰かになれるんじゃないかと、いまだに思っていた事に気が付いた。
違う誰かになんて、逆立ちしたって絶対なれやしない。
すごい自分になるから創作物も評価されるんじゃない。
自分らしく創作をしていきたかったら、ただ私が私でいる事、それだけでいい。
「私が私でいる事」とは、目を背けたくなるような、情けない自分も、全部ひっくるめて許してあげること。
評価も、結果も、求めるものではなく、あとからついてくるものだ。
でも、評価の多寡によって表現したいものの幅を狭めてしまうのはもったいない。外から余計な手を加えれば、それは光を遮る行為だ。
そう気付くことができた。
*
繰り返し、繰り返し。
過去の感情に振り回されながらも、いろいろなところからきっかけをもらって、ただ湧き上がってくるものを眺めて、癒やして、気付きに身を委ねて。
停滞のように見えても、着実に「書くこと」を人生の中心に据えていくための準備が進んでいく5ヶ月間だったと思う。
そしてほんの5日前。
「物語を書いて生きていきたいのなら、四の五の言わず今すぐ書きなさい」
書くことをせき止める気持ちを吹き飛ばしてもらえたおかげで、以前より軽くはなった。
それでも最後のピースがハマらないような、そんな感覚があった。
この言葉を言われた翌日、じゃあ書いてみようと机に向かった。けれど、書く内容が決まらなかったので、カードで占ってみた。
「Aを書いた場合とBを書いた場合、それぞれどうなっていきますか」
「この問に対する私の本音とアドバイス」
この2点をそれぞれ引いた。
すると、どちらも芳しくない様子で、さらに私の本音のところには「書きたくない」と解釈できるカードが出ていた。
本音と言っても深さを定義している訳ではないので、どのレベルでの本音を指すのかはわからなかったけれど、少なくとも書くことに前向きではないのは、身体の感覚でもそうだったし、色々と焦ってしまっている、というのはわかった。
セッションで言い渡された課題はもう一つあったので、その日は書くことはやめて、そちらに集中する事にした。
それから、行動できない自分を責めるパターンはなりを潜めていたけれど、手を付ける事は出来ないまま数日が過ぎていった。
相手の言葉を信じていない訳じゃない。それが今、自分に必要な事だと言うのはわかる。ただどこか、抵抗感もあった。
その人の言葉の本質は「書く事を絶対やれ」という意味ではなく「自分のエネルギーが上がる事をしろ」という意味だとも解釈したので、書く以外のエネルギーが上がること、たとえば歌を歌ったり、そういう事でもOKだと思ってひとまず許していた。
もう一つの課題である自己観察をしているおかげで、心や頭の騒がしさからは距離を置けていたのだけれど、やっぱり強烈な不安があるのか、「もしかしたら私にとって『書くこと』はやはり執着で、本当は違うんじゃないか」とすら過ぎった。巧妙な思考の罠。
これはもう、一人で悶々とするよりも、自分のガイドに聞いた方が早い。
そう思い立って、昨日の夜、ガイドさんを呼び出して質問した。
「書くことを習慣化するのって、本当に今すぐやるべき事? 自分を休める事が今は必要だってカードにも言われてたし、どうしても書く気になれなくて……」
正直この時、質問を上手く言葉にできない感じがあった。
まごついていたら、ガイドさんが
「書く事を考えると、どんな感じがする?」
と聞いてきた。
お腹と胸がざわざわして、頭がずーんと重くなる感じがした。
「怖い。あとプレッシャーがすごい」
そこで、その感情の正体はどうあれ、とりあえず宣言してみることにした。
「わたしは恐怖心や重圧があっても、自分の中の物語を形にすることを許します」
すると、そこからどんどん感情が出てきて、自分の内面の旅が始まった。
最初に出てきたのは、比較的新しい感情。
二次創作を公開し始めてから起きた辛かった出来事による傷だった。SNSでの承認欲求や人間関係の悩み、たくさんのネガティブな感情。
ここは、鮮度が高いせいか予想以上にきつくて、身体がこわばっていた。
自分では手に負えないと思ったので、ガイドさんに「今ここで癒せる?」って聞いたら「できるよー」とあっさり、ものすごく軽く言われた。
ハートチャクラを開くイメージをして、深呼吸。息を吐く時に、辛かった感情がじわじわと外に出ていく。ガイドさんが癒やしているのを感じた。
しばらくすると、心の中のもやもやとした塊はいつの間にか消えていた。
そこを通り過ぎると、今度はnoteで書いていて嫌だった事が出てきた。
noteでは、やけっぱちで自分の感情をさらけ出してもあたたかく迎え入れてくれる人が多くて、とてもお世話になった。良いコメントをたくさんもらった。でも、今だから言えるけど、嫌な気持ちになる事もそれなりにあった。
これはその都度人に打ち明けていたし、発散する機会もあったので、二次創作の時ほど重くはなかった。残骸みたいなものだったけど、せっかくだしクリアにする事に。同じように深呼吸をして、癒やした。
次に見えたのは、子供の自分。大きな、緑色が見えるきれいな石の塊を抱きかかえている。でもそれは原石。
最近、創作をする事を「自分の中にある宝石を、きれいにして飾りたい」という言葉でたとえる事があって、その感覚だと思った。
「それ、せっかくだしきれいにして飾ろうよ」
そう声をかけると、
「研磨やカッティングが怖い、自分がいいと思っているところも、削られたら嫌だ」
「そのまんまの自分で受け入れられたい」
と言ってきた。
その時思考が「そんな事できるわけないじゃん、甘えてんなよ」「絶対磨いたほうが良くなるし」みたいに騒いだけどスルーして、その頑なな自分を抱きしめて、同じように深呼吸してガイドさんに癒やしてもらった。
そしたら、子供の頃にノートに鉛筆で絵本を描いていた記憶が出てきた。
あの頃はよく、読み聞かせしてもらった絵本を真似て、絵を描いていたんだ。もう少し年齢が上がると、読んだ漫画を真似て、ノートに鉛筆で漫画を描いたりもしていた。
その思い出に、癒やすべき原初の挫折体験があった。
自分が描いたものが、理想通りにならなかった悲しみ。
絵本のきれいな印刷や、色。紙も違う。子供の使う道具じゃどうにもならない事が今ならわかるけど、当時は悲しかった。でも、どうすればいいのかわからなかった。
何かを真似するだけで、自分の中から出てくるものがない虚しさ。
身近な友達が、自分のオリジナルキャラクターでお話を作っているのを見て、自分は真似るだけしかできないんだと悲しくなった。
ストーリーの最初は作れても、最後まで作れない自分への無力感。
描いてみたい、という欲求が長続きしないし、描いてみても日常を淡々と続けていくだけ。結末まで書けた話はひとつもない。
それらをまとめて癒やしていく。
そういえば、絵本は同じタイトルで何ページも書いたけど、まるで自分の日記みたいになっていたな……と思った。
私は世界を作りたかったのかもしれない。自分の作り出した世界で、生み出したキャラクターたちが実際に生活していて、その中の一瞬に光を当てる。それが物語になっていく。それが私の創作のイメージだった。
ふと、ドールハウスか箱庭のような、自分が生み出した世界で楽しく遊ぶ自分の姿が浮かんだ。でも私はそこに入って、体験もしたかったんだよな。一緒に遊びたかったんだ。
自分の心を遡っていくにつれ、今度は記憶ではなくて、別のものが現れた。
それは古びた宝箱。いわゆるゲームに出てくるような、木に金属の枠がはめられて、蓋がアーチになっているもの。ボロボロではないけれど、ところどころ金属が煤けていて、時間が経っているのがわかる。
同じように煤けた金属の錠前がついていて、その鍵は気がつくと私の左手に握られていた。頭がクローバーの形をした、小さな鍵だった。
以前から、「自分が空っぽなのではなく、アイデアの源泉に自分で蓋をしている」と薄々感じるようになっていた。だから、この宝箱がそうなんじゃないかと思った。
でも、源泉という言葉のイメージからは程遠い。箱なら、中に入るのはその箱のぶんだけ、いつまでも湧き出てくる泉、ではない。魔法の箱ならそういう事もあるかもしれないけど、その箱からはそういう雰囲気は感じられなかった。
もし私のアイデアがこの箱なら、いつか使い果たして尽きてしまうかもしれない。
「アイデアは泉から湧き出てくるもの」というのが都合のいい妄想で、やっぱり私は空っぽだったんだと突き付けられるかもしれない。
それに、もし無限だったとしても、その中から出てくるものを制御できる自信がない。
「これ、開けたらどうなるの?」
開けるのが怖くて、ちょっとずるいと思ったけど、ガイドさんに聞いてしまった。
「開けてみればわかるんじゃない?」
教えてくれる気はないみたいだ。そりゃそうか。
「でも、どちらにせよ、開けないと前に進めないよ」
そんな事を言われたら、開けないという選択肢はなくなってしまう。
怖いままだけど、自然と左手は鍵穴に鍵を差し込んで、鍵を回していた。
「どっち回せば開くんだっけ!?」
「どっちでもいいから思う方に回しなよ!」
たぶん左に回したと思う。カチャリ、という音がして、鍵が開いた事がわかった。
鍵から手を離して、錠前を外して、おそるおそる箱を開ける。
……何も、怖いことは起きなかった。
何かが勢いよく溢れてくるんじゃないかと構えていたから、正直、拍子抜けした。
そして、あまりに何も起こらなさすぎて、一瞬中身が空っぽなんじゃないかと落胆したけれど、よくよく見ると、ワインレッドの別珍が張られた箱の中に、あるものが入っていた。
それは羽根ペンと小さなインクボトル。
そして、銀色の懐中時計。
インクボトルの中身は限りなく黒のように見える紫色のインク。濃くて暗いけど、透明感があって、とても美しい色だった。
一瞬混乱した。これっぽっちのインクでは、書いたらすぐに終わってしまう。もしかしてこれ、アイデアじゃ、ないのか……。
しかし、そこで先日のセッションを思い出す。私に足りないのは現実化の力、占星術で言うと水星と土星のエネルギーで、それを補う施術をしてもらったのだ。
とすれば、これらは私が言葉を紡いでいくことを支えてくれるスキルだ。
羽根ペンとインクは書く道具、つまり水星の姿。
そして時計は時間という秩序を与えて、アイデアを形にする事を習慣化をするための道具、土星の姿。
私はそれを手にとって、自分のものにした。
じゃあ、アイデアはどこに……と思っていると、目の前に大きな瓶のようなツボのようなものが現れた。
占星術繋がりなら、私の月星座の水瓶かな……と思ったけれど、神々の宴で振る舞われる水瓶にしてはなんだか禍々しくて、ネクタルとはとても呼べそうもない紫色の液体が漏れ出ていて、今にも外れそうな弱々しい木の蓋が乗っかっていた。
今度こそ、ずっと蓋をし続けたアイデアの源泉だと思った。
漏れ出ている液体は、かつて私を蝕む毒だったもので、こらえきれずネットの海に吐き出したものの原液。
……ここまで来たらもう、開けるしかない。
恐怖もまだあったけど、腹はくくっていた。
さっきの鍵は左手だったけど、今度は右手を伸ばして思いっきり開けた。
すると中からいっきに濃い紺色と紫色のグラデーションの液体が溢れ出してきた。
とても暗い色だけど、インクと同じように透明感があって。そして、その中にはきらきらとした金粉が散りばめられていて、まるで夕闇の、太陽の面影がほんの微かに残る夜空みたいで、とてもきれいだった。
液体は、辺り一面を覆って、空間そのものになった。
そしてそれは、私の身体にも浸透していった。
私の中に、本来めぐるはずだったエネルギーが戻ってきたような安心感があった。この時、現実の肉体も、とても暖かくなったのを覚えている。
そこで気付いた。これは、宝箱から出てきたインクと同じ色だと。
さっき、初めてインクの色を見たとき、とてもきれいだと思った反面、違和感があった。このインクが私の色だとしたら、もっと明るい色なんじゃないのかな……と。黄色やオレンジがイメージカラーだと言われる事があるから。
でも、ここに来てこの深い星空を見たとき、納得した。インクは、ここからすくったものなんだ。
「ほんとうのわたしの源は、こんなにも暗い色をしていたんだ」
予想以上に暗い色に、ちょっとした落胆もあったけれど、それ以上にきれいだと思う気持ちと、安心感があった。
もしかしたら、黄色やオレンジは強がっているときの色だったのかもしれない。
本来の自分を目指して辿ってきた果てに出てきたものが、これでよかった。
わたしはこの、暗い色を表現していいんだって、許された気がしたから。
この世にはネガティブとポジティブ、光と闇、幸せと不幸があって。
あるというより、実際はわたしたちがそうとしか認識できないだけで、本当は、もとはひとつで。
だから、わたしの色が暗くても、なんの問題もない。
飲み込まれそうなくらい深い紺と紫に、金色の粒がきらきらと映えて、こんなにも美しいのだから。
*
余談だけど、二次創作の時に使う名義が、このまんまのイメージだった。
二次創作はどちらかというとちょっとどこかダウナーというか、自分にとっての陰の側面なので、「夜」という意味の字が入る名前をつけた。
はじめは半分自虐のような名前と思っていたけど、このイメージを見て、むしろそのまんまで、でもすごくきれいな名前をつけたんだなと気付いて嬉しくなった。
*
ひととおりの旅を終えて、そろそろ現実に帰ろうかと言う時、瓶の中身をこのまま溢れさせておいて大丈夫なのかと不安になった。
これらはきっと、私の中のエネルギーで。感情が爆発してしまったりする事もあるし、ここは一度蓋を閉めて立ち去るべきなのかな……とも。
その事をガイドに聞くと、すごく優しい声で「大丈夫だよ。これが本来の君なんだから」って言ってくれた。
「なじむのに少し時間はかかるだろうけど、問題はないよ」
「そっか、じゃあそのままで」
あたたかな夜空に包まれたまま、ガイドさんにお礼をして、イメージワークを終わらせた。
*
書けなくなった時、本気でしんどかった。
「自分の表現を取り戻すために、一度閉じたんだ」という事は、よくよくわかっていたけれども、本当にしんどかった。叫びたいくらいに!笑
でも、色んな気づきがあって、色んな人に支えられて、色んな愛を感じた。そして、イメージを見てから一夜明けて、すごくスッキリした訳じゃないけれど、何かが自分の中で変わった感覚があった。
起きてすぐ、「昨日見たものを言葉にして、外にして出してみたい」と、久しぶりにそう思った。見えたイメージがきれいで、読んでもらいたくて。承認欲求に突き動かされるのとは違う感じなのだけど、食事も摂らずに書き始めた。
結局長くなってしまったけど、ここまで読んでくれてありがとう。
半年弱なので、ここに書いてない事も色々あるし、実際はもっとモダモダしていたけど。
私が見たきれいな夜空を、思い浮かべてもらえていたらいいなと思う。
*
改めて思い返すと、大好きなモチーフばかりで嬉しかったなぁ。
アンティーク調が大好きで、懐中時計も高校生の時に持っていた。雑貨屋さんで買った安物だけど。(ちなみに今、イメージに出てきたような銀の懐中時計を調べたら結構高くてそっ閉じした。さすが土星……!)
紫と紺の中に金粉がちりばめられているイメージも、とても好き。
現実のモチーフで言うなら、ラピスラズリが近いかもしれない。かなり濃い色のやつ。
ちなみに、例のセッションでは「今は身体の事をアレコレする段階じゃないから、通う必要はない。自分の行動を変えるのがあなたの課題」とぶった斬られてしまった(ぶった斬ってもらった)ので、病気だとか、健康だとか、そういうのは考えるの、今はやめました。笑
だいぶ前に「健康になることは通過点でしかない」と書いたけど、通過点ですらなかったね。
そして、こういうスピ?っぽい内容はあんまりnoteに書く事はなかったけれど、実は一年以上前から、こういう内観ついでにセルフヒーリングみたいなイメージワークはしょっちゅうやっています。
横になって瞑想状態に出来るだけ持っていって、天使や未来の自分、脳内の推したちと会話する。その時に、けっこう重要な助言をもらったりする。時折勝手にダウンロードされてきたりも。笑
その体験って、私にとってはすごく面白かったり、推しにはときめいたりもするんだけど、今までの自分のイメージが邪魔して、文章にしても公開することができなかった。
認められたいの裏には、見捨てられたくないがワンセットになっている。
書くことを変えていく──もっと言えば、自分の中身を自分らしく表現していくには、その「承認オアダイ」みたいな軸から出る必要があったんだと思う。
今回は、そこから出る事ができたから、こうして書けているのかなと。
もし過去の文章から入って、私の今の(これからの)表現が肌に合わないと感じる人がいたとしたら、その人の人生において、私の役割が終わったって事なんだろうし(私も10年近く前の見知らぬ誰かのブログ記事を読んで深い気付きを得る事があったりするし……)、何を書くかは、過去にとらわれる必要はないよね。
だから多分これから、表現する中身は変わっていくのかな。
私はわたしに戻る感覚だけど。
ひとつの節目ではあるけど、終わりなんかじゃなくて、むしろ始まり。
遠目に見てきれいだなと思っていた山の登山口にやっと着いた、みたいな。
小説も、現実に形にできてるものってめちゃくちゃ少ない。
noteの文章も、ほとんど過去の積み上げばっかりだし。
でも、ちょっとした清々しさがある。
余計なものはなくなって、これからどうなってくんだろうなぁ、ワクワクだな、みたいな感じでいるよ。
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