その娘、危険なワイフ【連載小説】(13/22)



【続、2016年12月25日(日)】
 角を曲がった。
 本来5分で着くはずの道を逸れる。
「元々20分かかる予定だったんだ。支障はないよね?」
 ハンドルを握られていてはどうとも返せない。答える代わりに同じように質問を返す。
「寺岡さんだって『カズ』じゃない」
 ブラザーは「イチ」だと言った。カズはパチモンだと。寺岡さんは「そうだね」と言った。
「昔から自分の名前が苦手でね、カズマとかカズヤだったらよかったのにってよく思ってた」
「名前、何て言うんですか?」
 自然な流れで口にする。
 赤信号。自動でエンジンが省エネモードに切り替わると、真空のような静けさが車内を覆った。耳を澄ます程に聞こえて来るのは心臓の音。
冬の澄んだ空にこそ、星がキレイに見えるように、その声は高い透明度を保ったまま届く。
「イチカ」

 イチカ。噛み締めるように繰り返す。思い出したのはブラザーの横顔。
〈イチか、ハチ、か〉
 何が「後は自分でどうにかしろ」だ。あの時丸っきり答えをくれていた。
「似合わないでしょ? どんな奴かと思えば、でかいおっさん出てきたって。だから自分で決められる呼び名を変えたんだ」
 そうして自嘲気味に笑う。似合わないとは思わないし、おっさんとも思わない。でもそう言う代わりにあたしも口にした。
「あたしも、イチヨウの方が良かったんです。妹が『もみじ』じゃなくて『コウヨウ』だって分かると、みんなキレイって。だからあたしがカズハだって聞くと、どこかがっかりした顔をするんです」
 寺岡さんは、顎を上げて「どうして『カズハ』と『もみじ』でも『イチヨウ』と『コウヨウ』でもないの?」と聞いた。バックミラーを見たようだった。
「あたし達の名前はイチョウともみじが元なんです」
「ん? イチヨウじゃなくて、正確には『イチョウ』ってこと?」
「はい。でもそれだと呼称そのものになってしまうから『イチヨウ』ではなく『カズハ』、『もみじ』ではなく『コウヨウ』になりました」
「秋生まれなの?」
「はい。正確には想像するようなイチョウの盛りは、生まれ月に関係のない10月から11月ですが、似たようなものだと。おかしいですよね」
「いや、本体じゃないならおかしいことはないんじゃないかな」
 君は、カズハだ。そう言われると、直接向き合っている訳でもないのに急に居た堪れなくなる。分厚い運転席のシート。バレないように手をつくと、目をつむる。
 指先が震えていた。痺れるような甘い鼓動。
 人前では控えているのだろう。タバコや芳香剤の香り以上に、この人本体が香るようだった。
「実はさっき、それを聞かれたんだ」
 息を潜めるようにしてヘッドレストに近づいていた分、離れる。カーブに身体が大きく揺れた。ただ甘味だけを享受していた脳みそが、突如受けた炭酸のような刺激に正気を取り戻す。
「一旦男だけで出たでしょ? その時五十嵐に『寺岡サンのこれで合ってる?』って聞かれた。あいつは自分が発信する側だから、余計グループの登録名と本人が一致しなくて変だと思ったんだろうな」
 アイコン。寺岡さんは「かぼちゃ」あたしはイチョウ並木だった。何も知らなければ逆に認識されていてもおかしくなかった。
「前に言われたこともあったし、突然聞かれて動揺したよ。そういう意味では杉田は本当にすごいよな」

〈ロリいけるのな〉

 前に言われたこと、と聞いて真っ先に浮かんだのはその一言だった。寺岡さんの正確な年齢は知らない。けれどもそれは、外から見た一つの分類。似たようなことをほのめかされた時、杉田さんは「だから何だ」と一蹴した。
 何となくだけれど、寺岡さんは五十嵐さんがあまり得意ではない。
 カーブに身体が揺れた。同時にぐらりと湧き出す思い。
「寺岡さんだってすごいじゃないですか」
 何だか悔しくなってそう口にする。何気ない一言が、あたし達の関係性を変な色に染めようとする。ここにあるのは、あたし達の間にあるものは、そんな言葉に包括されるようなものではないのに。
「杉田さんとゲームして勝てるの、寺岡さんだけじゃないですか」
 本当のことだった。確かに杉田さんはビッグサーバーだ。でもファーストの入る確率、エースをとれるコースに入る確率、総じた時、結局勝つのはいつだって寺岡さんだった。
「たぶん得意不得意があって、五十嵐さんが杉田さんに弱かったり、寺岡さんが五十嵐さんに嫌な思いをさせられたり、ひっくるめてみんなジャンケンみたいにバランスが取れてるものなんです。きっと」
 言いながら手を伸ばす。後ろからその耳に触れる。身体が揺れようと、この手だけは離す気はない。
「だから、別に聞かなくたっていいんです。関係ないことまで、全部自分の中に入れる必要なんてないんです」
 五十嵐さんには関係ない。あたしと寺岡さんの年の差も関係も。一生触れることのない領域に、手垢をつけないで欲しい。
 いくら身体は大きくても、耳の穴、その手前の軟骨さえ押さえれば、指一本で事足りた。
「ほら、聞こえない」
 その肩が静かに揺れた。
「本当だ。何にも聞こえないや」
 笑っている。その返答自体、全部聞こえてると言っているのと同じだった。
 気づくと山道を随分登っていた。急に不安になって「ここどこですか?」と聞くと、何にも聞こえないはずの寺岡さんは「んー、もうちょっとで着くよ」と言った。

 確かに「もうちょっと」だった。
「はい、降りて」と言われて外に出ると、大きな背中を追う。同じ大きさに切った丸太を並べたような段差は、山奥であるにも関わらず、来訪を想定していた。頭上に生い茂った木をくぐる。
「到着」
 登り切った先、突如開けた視界。前を歩いていた寺岡さんが振り返る。その向こうには
「わぁ」
 息を呑むような夜景が広がっていた。
 澄んだ空気。高い透明度。視界一杯に広がる光の粒。その一つ一つがまばたきするかのようにやさしく点滅する。そんな眩しい地上の明かりが、暗いはずの夜を照らして、空までも赤みを帯びている。
 キレイなものに触れる機会はある。けれども普通に歩いていて見かけるものだけではなく、何かしらの労力ありきで初めて触れられる類の美しさもある。それは美術館のような「その空間を成り立たせるために発生した労力に対価を払うことで触れられるもの」だったり、こんな風に「この景色を見せるために発生した労力によって触れられるもの」だったり。それらは必ずしも、生きていく上でなくてはならないものではない。それはただ純粋な、豊かさ、贅沢。
「これを見せたかったんだ」
 照れ臭そうに歩を進めると、木製のベンチに腰を下ろす。ベンチ自体、少し離れたところにも二箇所あり、その一つ一つの距離感を何となく察する。
「前にも来たことがあるんですか?」
「ん。友人に頼まれてね。口説きたい女の子がいるんだけど、二人だと警戒されるかもしれないから付き合って欲しいって」
「三人で行ったんですか?」
「いや、四人だよ」
 胸に鋭い痛みが走った。同じ鼓動でもどうしてこんなに違うのだろう。嫌な感覚が全身を覆った。
「女の子の友人含めて四人で行ったんだけど、こっちは完全にダミーだったからね。寒空の下、タバコ吸いながら『何やってんだろ』って思ってた」
 既に彼氏持ちだったという「女の子の友人」は、その間ずっと車内でスマホをいじっていたという。こっちも分かって来ていたらしい。
「とにかくその時も寒くてね。何が楽しくて真冬にこんなとこ来るんだろうって思ってた。どうせ時間かけて登っても、楽しめるのはほんの少しだって」
 鈴汝さんは外に出た時、寒さに首をすくめていた。あたしもそうだ。でも寺岡さんはいつものままだ。同じように寒いはずなのに。
「あはは。でも違った」
 それだけ言ってポケットに手を突っ込む。その頬を地上の光が照らす。それだけで、今見ているものだけで涙が出そうだった。
 揺れる。眼下、散りばめられたかのような光がゆっくりまばたきを繰り返す。こういう時、キレイ以外の言葉が出て来ないのが歯痒い。

「……。……誤解しないで欲しい。前に『逃げるなら』って話をしたけど、あれは自分と君の気持ちのベクトルに大きな違いがあっちゃいけないと思って言ったものだから」
 だからそこまで気を張らなくても大丈夫だよ、と言うと手のひらを差し出した。
「はい」
 戸惑う。
 確かに手は冷たいけれど、手を繋ぐぐらい、友達でもすることだけど、場所と状況が「そんな訳ないでしょ」とせっつく。
「右手出して」
 無意識にポケットに突っ込んでいた手。決して寒さのせいだけでなく、外気に晒されることを拒む。けれど、それは。
「そのままでいいから」
 とっくに知られていた。この人は、始めから分かっていた。
「そのまま」差し出した手。
 寺岡さんはあたしの手を掴むと、もう片方の手で何かを握らせた。
「はい、これあげる」
 それは赤色の振動止めだった。真ん中に施されたくまりんのデザイン。元々握りしめていたかんざしの隣に並ぶ。
 驚きにすぐさま顔を上げる。
「買えたんですか?」
「ん?」
「これ、キャラクターショップにしか売ってない」
 くまりんは愛らしいデザインの割に、やることがえげつない。
まず一般のショップ、ネットでは基本取り扱わない。万が一あったとしても判を押したように全く同じ表情、格好のもので、一目で「安物」と分かる。だから定型以外の表情、格好のものが欲しければキャラクターショップに直接出向くしかない。紅葉は友人の親が送迎してくれたことでショップに行けたが、あたしはまさか母に頼めなかった。それ以上に、
「恥ずかしくて死ぬかと思った」
 一生分の勇気を使ったかもしれないと言う、自称「でかいおっさん」
 それはその通りだろう。何しろくまりんが狙うターゲットは中高生から女子大生、はたまたかわいい物好きなお姉様まで。間違っても男性が単体で出向くような場所ではないし、デートスポットとして、ここを喧嘩せず通過できれば一生別れることはないというジンクスまで生まれたくらいだ。
 手のひらに収まってしまう、こんな小さなもののために、この人は。
「クリスマスだから。僕は五十嵐嫌いだけど、それだけは感謝してる」
 好きじゃない、とか、苦手、とか、いつだってやさしく言い換えるこの人が言う「嫌い」は、五十嵐さんにとってのピーマンを思い出させた。必要でないのなら、知っている人がそっと取り除いてあげればいい。
「ありがとうございます」
 ギュッと握りしめる。あの時のように。大切だから落とさないように、手のひらに跡が残るくらい、しっかりと。
 目的が果たせてホッとしたのだろう。その首元をすくめる。寺岡さん曰く、穴場だというここは、それでも誰も知らない訳じゃない。新しい人影が現れると同時に「戻ろうか」と言った。




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