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虚構に満ちた世界

私が思っている思想や理念がある。その思想に沿った事実を探そうとネットサーフィンをしていると、そんな私におあつらえ向きのニュースがたくさん表示される。そのニュースに寄って私の思想は益々強化されていくが、それが虚構のニュースだと気づくのはだいぶ後である。

これは私の一例に過ぎないが、インターネットの普及によって誰でもスマホを持って自分の思想や理念、それもかなり歪んだ形の思想を強化していっている。自分だけが真実を知っていると思っている人もいるかもしれない。それが虚構とも知らずに…。

未だ河合隼雄の「葛藤保持力」という理念のことについて考えている。自分の中で葛藤があるとそれを持ち続けて耐え続けていたら発酵して新たな形で乗り越えることができる。私は葛藤というものを保持するという理念を今まで持ち合わせていなかった。むしろ、抑圧を解放することに注力していた。バタイユがキリスト教的な抑制から解放されて痛快なエロや思想に走ったように、むしろ私は抑圧を解放することを基本理念として生きていたような気がする。

それでも、バタイユやユングだって、葛藤を内に秘めて人知れず思考が発酵していった先にたどり着いたブレイクスルーであったはずだ。そうだとしたら私は葛藤保持力が圧倒的に足りていない。

虚構の世界にまた舞い戻るけれど、世界は実に虚構に満ちている。フェイクニュースが生成できる今は本当になにもかも自分の検索ワードどおりの思想が用意されてくる。そのなかでやはり問い続ける姿勢というのは必要である。偏った思想になるのではなく、バランスを持って世界を見ていく必要がある。

そんな虚構まみれの世界において、自分の感覚というのは大事にしたい。散歩をして外の空気を吸って、道端の草花を愛でて、感覚というのは嘘をつかない。自分で感じたことを大切にすることによって、虚構の世界から少しは自由になれる。

生きるということが虚構の世界に支配されないために、しっかりと生きる。

あるがままの世界を生きる。白でも黒でもなく、八百万の色とりどりの世界をそのまま見る。そうすると世界はこんなにも多様であるということが実感としてわかる。アニミズムの思想が好きで、なにもかもに魂が宿るとまでは言わないが、人間と物が分かれている境界が融即していって、つながっていると感じる。

私は物に愛を感じる思想が好きです。それは人間の作り出した工芸品からはじまり、車や家電製品などなど。

ある車好きの先輩が古い車を乗っていたが、そろそろ買い換えどきというところでディーラーを巡りはじめたら、途端に調子が悪くなったそうだ。その人は、「コイツ(愛車)が拗ねちゃったみたいだから、やっぱり買い換えるのはやめるよ。」と言って買い換えるのをやめたら、また車が調子よくなったそうだ。

河合隼雄の話で印象的な話がある。ある男が通勤途中になにか違和感があって調子悪いなぁと感じていたら、その通勤途中にあった大きな木が建設のために切り倒されたためとわかった。そのようにして人は物(自然)からも影響を受けながら生きている。

勘のいい人ならお気づきだろうが、車だって自分の支えになっている。家電製品も、なにもかも。自分の周りにある存在物によって人はささえられており、また何らかの影響を受けている。

だから部屋を綺麗にしたり、好きなものに囲まれている人は気分が良い。当たり前である。常に良い影響を受けているのだから。

もっというと、周りに存在しているモノから常に影響を受け続けるのがヒトという生き物の特徴なのかもしれない。

だからより良い気分で生きるには、愛するモノに囲まれて生きることなのかもしれない。だから私はときめくモノとときめかないモノで断捨離する近藤麻理恵さんの思想には大いに賛成である。愛するモノに囲まれればヒトは良い影響を受けてハッピーに生きれるはずだ。

話が長くなりそうなので今日はこんなところにしておきます。


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