煙の園

由香里がその名も知らぬ駅前のカフェに着いたのは
ちょうど夕暮れから完全な夜へと切り替わるそのタイミングだった。

こぢんまりとしたテーブルに片肘をつきながら外を眺める。
ガラスの向こう側には、大通りを傘を差しながら伏せ目がちに歩くサラリーマンの姿があった。

そういえば、雨が降っていただろうか?

テーブルの端にぶら下げられた草模様の傘は確かに濡れていた痕があるが、自分がどのようにこの店にたどり着いたのか全く覚えがない。ずっと頭に響いているのは、昨日の晩、電話越しに聞いた誠の弁解だけだ。

店内は薄暗く、どこか寒々しい。ダウンライトに照らし出されたタバコの煙がゆっくりと天井付近を流れている。その古めかしい雰囲気はカフェというよりは喫茶店と呼ぶに相応しい。時代に取り残されたようなこの店の空気がより一層、由香里に孤独感を押し付けていた。

(何をやっているんだろう)

手元のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。にも関わらず由香里はまだ席を離れることはできずにいた。心の何処かで誠を信じたい気持ちがあったし、まだ私の賭けは終わっていないんだという意地があった。

そのとき、携帯が淡い光を放ちながら小さく唸った。
見慣れた受信画面。誠からのメッセージだった。「どのへんの席にいる?」
由香里ははっと息を吸って、店の入り口付近を恐る恐る覗き見ると、スーツ姿の誠が辺りを探しているところだった。
またひとつ、私は、私たちは、可能性を繋いだのだ。

「この後会社に戻らなきゃならないんだ」と前置きをしてから、誠はウェイターから受け取ったコーヒーに口を付ける。

「なに?・・・昨日の話?それならもう十分に謝っただろう?」

何が十分なのだ?由香里は自分の胸の奥に、黒いインクがひたひたと染みを作るのを感じた。

昨日、これほどまでに由香里が心を乱したのは、1才になるユウトが初めて熱を出したからだ。離乳食を吐き出してしまいグッタリとした様子に、どうしてよいかわからなくなり恐怖に押しつぶされそうになった。
ここ数日家に戻らない誠に電話をしたのは藁にもすがる気持ちからだ。
にもかかわらず誠は「会議が終わったら」とだけ返し、その後も連絡が取れなくなってしまったのだ。

「だいたいさ、俺に電話をしたって何か出来るわけでもないんだし、時間の無駄だっていうのがわからなかったの」

静まり返った店内に雨音が入り込んでいる。まるでふたりの他には誰もいないような奇妙な静寂だった。
「・・声が、、、声が聞きたかったのよ。」何度も何度も喉の奥で反芻した言葉は、ようやく口から滑り出てかすれて響く。

「・・は?」

僅かに嘲笑を孕んだ誠の音色は、呆然とする由香里の耳を通り抜けてもう一度取って返し、みぞおちの下辺りを貫いた後はぐるぐると体の中を這い回って、やがてそれは由香里の一部となった。
その瞬間、ようやく由香里は実感したのだ。
ああ、ああ、私たちはやっぱり壊れてしまったんだ。
気づかない振りをしても、どんなに取り繕ってみても、どうしても引き返すことのできない波打ち際に私たちは行き着いてしまったんだ。

次の瞬間、もやもやと煙の中にあった由香里の脳裏に一陣の風が吹き抜けていった。それは鮮烈な体験だった。風の中で、職場の面々は苦笑いをしていた。託児所のシッターは怪訝そうな顔をしていた。ただひとり実家の母だけは、やれやれと言いたげな、諦めた様な表情をしていた。
そうだ。私は賭けに負けたのだ。もう、私しかいないのだ。

由香里はおもむろに座席を立つと出口に向かって歩き出した。背後から誠の呼び止める気配がしたが耳には入らなかった。
会計を手早く済ませ店のドアを開ける。扉の外では大粒の雨が地面に叩きつけていた。
テーブルに傘を忘れたことに気がついたが、引き返す気持ちにはならなかった。傘は、ここに置いて行こう。
ゆっくりと歩き出す。
どうせもう女ではいられないのだ。いくら全身が雨に濡れようと、頬が濡れようと、かまうものか。


※アカウント整理のため引っ越しました。2016年の作品です。


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