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おしぼりでござる

もう何十年も前に、テレビだったかラジオだったかで笑福亭鶴瓶師匠が語っておられたエピソードである。
師匠が移動の為に乗った飛行機の機内サービスで、おしぼりが配られた。CAさんが
「おしぼりでございます」
と丁寧に挨拶しながら、一人ずつに手渡ししておられたそうだ。
何人もに同じセリフを繰り返すうち、CAさんは滑舌が怪しくなってきた。そして師匠の時ついに、
「おしぼりでござる」
と言ってしまったのだという。
師匠は咄嗟に
「かたじけない」
と言っておしぼりを押し頂いた。CAさんは膝を折って苦しそうに笑いを堪えていたそうだ。

ちょっと出来過ぎた話のような気もするが、このCAさんの気持ちは物凄くわかる。
私達レジ係も、お客様に対して同じような言葉ばかり言っていると、ついつい妙な言葉を口走ってしまい、一人で赤面する羽目になるからだ。
朝、正面玄関のドアを開けて暫くは、入ってこられるお客様に対して
「おはようございます」
「いらっしゃいませ」
「お待たせいたしました」
の三つの挨拶を言いながら、両手を前に揃えて頭を下げることになる。
同じ言葉ばかり言わないように適当に混ぜて挨拶するのだが、自分の他に立っているメンバーの言葉を聞いてしまうともういけない。つい、つられてしまうのだ。
結果、
「おはようございませ」
「いらっしゃいたしました」
「お待たせございます」
などという、意味不明な言葉を言いながら、頭を下げ続けることになる。
お客様も他のメンバーもそんなに注意を払っていないのか、指摘して笑われたことは一度もない。しかし、自分で恥ずかしい。何アホなこと言うとんねん、と自分で自分にツッコミを入れる。
他のメンバーが同様な言い間違いをしていることに気付くこともある。でも敢えて指摘しない。お互い様、という感じである。武士の情けかも知れない。

レジに入ると言わねばならない言葉はもっと増える。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
「お預かりいたします」
「〇〇円、頂戴いたします」
「〇〇円、お預かりいたします」
「駐車場のご利用はございませんでしたか」
「お持ち帰りの袋のご用意は如何いたしましょうか」
「〇〇円のお返しでございます。お確かめくださいませ」
他にも言うべきことは山ほどある。口が滑らかに回らなくなるのは歳の所為ばかりでもなかろう。あまりにも言うことが多すぎて、口がついて行かないのだ。

いちいち丁寧語だから、というのもこんがらがる原因の一つだろう。普段から使い慣れていない為、口が『丁寧語モード』になるのに時間がかかっているのである。
こちらがあまりにも沢山喋るので、特に高齢のお客様などはぼーっと聞いておられる方が多い。よくまあ、それだけ喋るなあ、という感じで見られると、余計に緊張して間違いそうになる。
機械的に言うべき言葉を発するこちらと、機械的に聞くお客様の間には本当のコミュニケーションは成り立っていないと断言できる。

これだけは絶対に言え、というマニュアル化された言葉に自分が慣れていないから今一つ、心を込められないのだとも思う。
『これさえ言っておけば間違いはない』という、その時の自分の感情とは全く切り離された言葉を、機械のように口から発することは、何も考えなくて良いからとても楽だ。ただ、その言葉に『私』という人間から発するものは全く入っていない。気持ちが伴わない。だから間違うのだろう。
しかしイチイチそんなことしていたら身体が持たない、というのもある。

先日、私の接客を見ていたH副店長が、
「丁寧にお見送りするんだね」
としみじみ言って下さった。
「そうですかね?普通ですよ」
と答えると副店長は、
「いや、大事なことなんだよ。私達みたいに慣れちゃうとさ、ついお見送りもこなし仕事になっちゃうでしょ。でも本当はちゃんと感謝して、心を込めてお見送りするのが当たり前なんだよね。在間さんはこれからも慣れないでね。そういうの、大事だよ」
と笑って肩を叩いて行ってしまった。

謙遜するわけではなく、私は特に丁寧にしているつもりはない。レジの先輩のMさんの丁寧さにはいつも感心させられている。
それでもやっぱり、わざわざ足を運んでいただいて、ウチの商品を買って下さったことには一定の謝意を示すべきなんだろうな、とぼんやりではあるが思っている。その程度である。
お見送りにはほんの少し、こういった私の『能動的な』意思が入っているのだろう。この言葉を間違うことはない。

言い間違いをちょっとくらいしたって、誠意があれば良いのかしら。
自分を正当化し過ぎているかもしれない。
忙しい折、滑舌には十分気を付けたいものである。