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心にとどめていること

例えば社会的に、倫理的に許されないことをした人やその行動を批判することは、いとも簡単に出来てしまう。「絶対に間違っている」からだ。そしてその批判が「社会的制裁」として、必要なこともある。批判にはそういった役割もある。
だが、昨今の報道を見ていて、何か居心地の悪い、足を地面に着けていないような気持ち悪さを感じる。処理水を汚染水と言ったとか、性加害を見て見ぬふりをしたとか、マスメディアが何も糾弾しなかったとか、除草剤をかけて枯らすなんて怪しからんとか。言うだけなら楽で、簡単だ。現に今マスメディアは忙しそうである。

でも空虚すぎる、と感じてしまう。
処理水を汚染水と言うのはなぜ批判されるのか。それは「この水は汚染されていない、安全な水だから海洋に放出している」という大前提を、真っ向から否定する発言だからだ。近隣の海域で水のサンプリング調査をし、「安全だ」「基準値よりはるかに下回っている」と一生懸命広報して、風評被害が起きないように努力しているというのに、全てを水泡に帰す発言である、そんな発言をよりによって政府の要職にある人がするなんて、という訳である。一応、当たり前の理屈である。
しかし処理水を「汚染されている」と感じるか、「大丈夫」と感じるかは、個人の内心の自由である。報道に求められるのは、そこの「判断」を個人がするための正確な情報の提供であって、偏った見解や誰かにとってだけ都合の良い調査結果だけではない。個人を袋叩きにすることではないのは言うまでもない。
そして個々人に求められるのは、「漁業者が可哀想」という陳腐な同情でもなく、「私の口にする魚は安全でないと困る」という狭い考えでもなく、「政府はけしからん」という曖昧で上からの目線でもない。それではメディアの思うつぼ、言いなりである。
「この問題の本質は何か」を見極めようとする冷静で落ち着いた、観察眼であると思う。

どうも最近、この「観察眼」を曇らそうという報道ばかりが目に付くような気がしてならない。国民バカにすんなよ、と感じてしまう。
批判さえしていれば、「そうだそうだ全くだ!」「言う通りだ!」という、国民からの「いいね!」が沢山貰える。その内容が単純でわかりやすいものであるほど、国民へのウケは大きい。「バズる」という奴か。
それがどうした、と思う。「いいね!」を沢山もらい、「バズる」ことを目的にしてしまっては、本来の報道の役割を何も果たしていないのではないかと思う。
処理水はどういう経緯で今、放出されることになったのか。漁業者にはどんな影響が出ているのか。そして将来的にあの海域はどんな風になっていくと考えられ、どんな予測が成り立つのか。そこを詳しく報道しているメディアがあまりにも少ないのは嘆かわしいことだ。
放出開始の映像をテレビで観て、悔し涙を流す漁業者の姿は見ていて辛かった。だが、私達はそこで「酷い」「可哀想に」「政府は、東電は何をやってるんだ」と憤ることで終わりにしてはいけない。
事実を冷静に見極めようとする、その努力が必要なのだと思う。

同情するのは楽に自分を「良い人」にできるから、みんな大好きである。
「同情する」のは気持ち良い。だが、そこだけに満足して終わらせてしまうと、問題の本質を見逃してしまう。
「公を批判する」のは「社会的に正しいその他大勢の一員」になったような気がするから、自分が正しいような気になってしまう。
「その時の感情」に流されて、「自分の考え」を作っていくのは時に危うい。それよりも「事実」を「客観的」に「感情」抜きで見つめ、「自分はどうなるのが良いと思うか」と「自分」に問うて、「自分」の答えを出す。「みんながこう言っているからどうもこれが正解らしい」ではなくて、ちゃんと「自分」の意見を持つ。「自分」の頭で考える。
なかなか難しいことだけれど、私が心に常にとどめていることである。