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私なんか病発症中

今でも私はしょっちゅう、『私なんか病』にかかってしまう。
私なんかたいしたことない。私なんか○○できない。私なんか取るに足りない存在だ。私なんか魅力がない・・・
こういう、鼻水と一緒にティッシュに包んで、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に入れてしまいたいような気分が自分を覆い始めると、実際に色々上手くいかなくなってくる。そして本当に自分のちっぽけさや色々出来なさ、魅力のなさ、を眼前に突き付けられて、自分に愛想が尽きてしまう。

以前と違うのは、ここで沼に落ちていくのではなくて、そういう状態の自分を『あ、なんか今の私、やべえかも』と自覚できるようになったことくらいである。
状況の捉え方が変わったのと、その時起こっている感情を冷静に眺められるようになっただけで、私の根本的な人間性は変わっていない。
以前の私をよく知る人からは
「なんか最近、強くなったね」
などと言われるのであるが、この言葉には違和感を感じる。私は強くなんてなってない。弱い自分を受け容れる覚悟が出来た、というだけの話だ。人間はそんな急に強くなったりしない。

只今、この私はこの病を絶賛発症中である。
という現実を冷めた目で見ている。そしてなんでかなあ、と考えると答えは簡単に出る。
私はたいした人間であると自分で思いたい。私は○○も、××もできる、と万能感に浸りたい。私は世間様から見て、すんごい価値のある存在だと思いたい。私は魅力的だと思いたい。
実際の自分を、あるがままで十分素敵だと思えていない。まんまの自分を魅力的な存在だと思えていない。何かと誰かと比較して、焦っている。
焦ることで得ることなど、全くないというのに。
そういう心理状態である、ということだ。

自分をたいしたもんだ、と思えないのは『もっと凄い人が居る』と誰かを引っ張り出して勝手に比較している行為に過ぎない。或いは自分の行為に不当に低い評価を勝手に自分で下しているだけだ。
そうやって『自分よりぐっと高い誰か』を羨み、常に『自分はうんと低い存在だ』と思っておけば、私は永遠に『安心』だ。だって『たいしたもん』であるには、絶対的な『自分を信じる力』が必要で、しっかり『自分で立たねばならない』から。
自分という人間をトコトン低く見積もって、『高いところに居る誰か』にもたれかかっておけば、自分はなんの努力もしなくて良い。手っ取り早く自分の『価値』は決まる。七転八倒して何かに『邁進』しなくても良い。
こっちの方が断然都合が良くて楽ではないか。
私にとって、自己否定は安易に楽になれる方法以外のなんでもない。
だからつい、易きに流れる。

こういう時は身体が疲れている時や、予想外に沢山の事態が押し寄せて、頭の整理がつかなくなっている時が多い。要するに心が手っ取り早く安心したがっているのである。
こういう時に『頑張らなきゃ!』などと、無理にポジティブ思考に舵を切る必要は全くない。そんなことしても益々疲弊するだけだから、やめておいた方が良い。

こういう時に必要なのは頑張ることではなく、『休むこと』である。
色んな事が身の回りに押し寄せて、『わああ、どうすんじゃーい、休んでられへんわ~』となっても、ほんの少しで良いから休む。瞬間で良いから冷静に自分の現状を見つめる時間を作る。私の場合はゴロンと横になったり、なかなか取れない壁のシミをこすったり、と色んな方法を取るけれど、『無』になれる時間を数秒でも作るようにしている。
するとなんだか脳味噌に『余白』が出来てくる。沸騰寸前だった脳が冷めてくる。
やがてするーっと落ち着いて来て、今の自分の状態を冷静に眺めることが出来るようになる。

自分を貶めることで楽になろうとする私を、『あ~あ、アカンのに。またやってるやん』とちょっと苦笑しながら眺める。そして『さあ、私はどうしたいんやあ、ホンマの望みはなんじゃラホイ』と頭の中の深いところに入っていく。
ちょっと時間がかかる時も、すぐに答えが見つかる時もある。どちらにしても、答えを見つけたあとは、穏やかな幸せな時間が訪れる。
それは私にとって、次の一歩を踏み出すための、大切な瞬間なのである。