見出し画像

庭の隅にいたものは

どしゃ降りの日には、こんな住宅街のど真ん中でも濡れた土の匂いがする。子供の頃、学校の行き帰りに嗅いだ懐かしい匂いである。
そしてこんな日には実家の庭であった、小さな出来事を思い出す。

ウチの犬は庭に置いた犬小屋をねぐらにしていた。犬小屋は器用な父のお手製で、丈夫に軽く作られていた。
その夜もどしゃ降りだった。普段だとこういう天気の日は、私達家族があまり庭に出てこないので、犬は犬小屋の奥の方に引っ込んで、だらんと出した前足の上に顎をのせて寝ていた。
かなり遅い時間になっても雨はちっとも止まず、雨音がやたら大きく聞こえて不安になるくらいだった。

そろそろ寝ようか、と私達が二階の自室に上がりかけた時、犬が狂ったように吠え出すのが聞こえた。塀の上を猫が通った時など、こういう風に鳴くことがあったので、今回もそうだろうと思って、「これっ、しっ」と家の中から犬に言ってみた。
いつもならすごすごと小屋に入る鎖の音がガラゴロと聞こえてくるのだが、この日はちっとも鳴き止まず、犬は一層激しく吠えたてた。時間が経つにつれて、犬小屋を引きずるような音も聞こえてきた。

犬を飼っていると誰でもそうだと思うが、鳴き方で何を訴えているのかわかるようになる。丁度赤ん坊の泣き声で、母親が要求を判断するようなものである。
この時の犬の鳴き方は「怒り」一色だった。
庭に何かいるに違いない。猫ならサッサと退散するに決まっているから、何か他のものだ。まさか人間じゃないやろうな、と妹と二人傘をさして犬のところまで様子を見に行った。
犬はこんな夜更けに家人が出てきてくれて嬉しいらしく、大喜びで尻尾をふっている。が、相変わらず四本の足を踏ん張るようにして吠えている。顔の向きを見ると、南側の南天が植えてある隅っこに向かって吠えているように見える。なんだろう、と妹が持っていた懐中電灯で照らしてみるが、さっぱりわからない。

無駄鳴きはしないよう、しっかり父がしつけていた。しかもこんな夜更けである。
首をかしげてしまった。
「鎖、解いたろう」
妹がそういって、犬の鎖を外した。すると犬は一目散に庭の隅にダッシュしていった。
妹と犬の後を追って、向かった先に懐中電灯の光を当てると、一匹の蛇が鎌首をもたげているのが見えた。ヌラヌラした薄いグリーンの身体が雨で光っている。アオダイショウだ。
毒も持たず、おとなしい性質の蛇だとは知っていたが、予想もしない生き物が居たことに驚き、私と妹は小さく悲鳴をあげてしまった。

犬は気が小さかったから、飛びかかることもせずただ吠えていた。
アオダイショウは時折灰色の舌をチョロチョロ出しながら、困ったようにこちらに顔を向けてじっとしていた。気持ち悪いのと、大きくて怖いのとで、私と妹は蛇を見ながらなす術もなく突っ立っていた。

犬がいつまでも鳴き止まないので、父が傘をさして庭に出てきた。
「ヘビ、ヘビ!」
と私達が南天の方を指差しながら口々に訴えると、父はハサミ火箸を持ってきて、
「犬よりお前らの方がやかましい」
と静かに言って、ヘビに向き合うとあっという間に火箸で挟んでしまった。私達がびっくりする暇もなく、父はそれを塀の外の側溝に放り投げた。

犬は静かになった。父は黙ってその頭を一撫ですると、鎖に繋いだ。そして火箸を物置に片付けて
「はよ入れ」
と私達を促した。
私達が家に入ると、父はいつものようにテレビの前で横になって片ひじをつきながら、
「雨で田んぼが水浸しになったんで、逃げてきたんやろう。また来るかも知れん。まあおとなしいヤツやから、なんもせんけどな」
と少し笑いながら言った。
外は雨のせいか、季節の割にひんやりとしていたので、家の中に入ると温かいように感じてホッとした。

犬は蛇の臭いがわかったのか、シュルシュルいう音が聞こえたのか。晩年は鼻先を猫が通ってもずっと寝ていたが、この頃は元気だった。
今でもものすごい大雨が降ると、濡れた土の匂いと、ヒンヤリした外気と共に、鮮やかに思い出される出来事である。