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ワクワクが止まらない

今日、私は朝からソワソワワクワクしている。明日、今までとても会いたかった方にやっと会えるからである。

その人は私が私をぞんざいに扱うことを許さず、「もっと自分を大事にしてあげて」「ミツルさんが本当に喜ぶことをして」「心に蓋をしないで」と、半年間ずっと背中を押し続けて下さった方である。
コロナの時期だったこともあるが、私自身が望まなかった為、セッションは対面ではなくZOOMでのオンライン形式にして頂いていた。だから私は先方の顔を知っているが、先方は私の顔を知らない。
なぜ顔出しを望まなかったかと言えば、ひとえに「自分に自信がなかったから」である。お腹を痛めた我が子には三行半を突き付けられ、両親とは酷いケンカをして一方的に断交している、という孤独の中にありながら、周囲には「しっかりといい家庭を築いている明るい良きお母さん」を演じている自分が恥ずかしく、おぞましかった。そんな見栄っ張りで嘘つきな自分のツラを例え直接でなくとも、清々しいこの人に晒すのは呆れられそうで嫌だったのである。
勿論、外見に自信がなかったのもあるが、それ以上に「ええカッコしてる情けない私」を見破られたくなかった。そんなこと、この方は全く気にしておられなかったのに、当時の私にはわからなかった。
私はこの方の応援を受けながら、ズタボロになって沢山の涙と後悔の海を泳ぎ切った。そして今は、自分の本当に欲するところを目指して日々歩みつつある。
この方なくしては私の今の人生はあり得ない。

本当はもっと早くに会いたかった。ご本人からも
「東京に行く用事があります。ミツルさん、良かったら来ませんか?」
と何度かお誘いを受けていた。
是非行きたいです、という言葉が喉元まで出ていつも止まった。自分を取り戻した私の筈なのに、何故かお目にかかるというと自信がなかった。勇気が出なかったのである。いつも何のかんのと理由を作って、折角のお誘いをお断りし続けていた。
でも、自分が死ぬまでに一目で良いから会って、お礼を自分の口から直接目を見て伝えたい、とは思っていた。最後の踏ん切りが長い間、つかなかったのである。
焦る気持ちが全くなかったかと言えば噓になるが、まだ自分には「その時」が来ていないのだな、と思うようにしていた。その方もきっとわかって待って下さっている、そう信じていた。

この方は私にnoteの存在を教え、「やってみたら」と勧めて下さった。その言に従っておそるおそる書き始めたのは、確か二年前の冬だったと思う。
日々くだらないエッセイを細々と綴るうち、私は毎日決まった時間、自分との対話をする習慣がついた。すると一層自分の色んな「顔」が冷静に、愛を持って眺められるようになっていった。知らず知らずのうちに、意識的に内観作業を毎日行うことになっていたのである。
するとある日本当に唐突に、この方に「会いたい!」という気持ちがあふれ出た。すぐさまメールを出した。
「是非会いたいです!どこでも行きます!」
日本国内であれば、どこへでも飛んで行く気になっていた。
この方はお仕事を始めて今年で十年だそうだ。丁度節目の記念に、今までサポートしてきた人に会う企画をなさっていた。
渡りに舟、とすぐに申し込んだ。

今の私は、初めてこの方にお世話になった時とは全くの別人である。顔はお見せしていないけれど、きっとあの頃の私とは全然違う顔をしているだろう。それを見てもらいたい。見て喜んでもらいたい。というか、一緒に喜びたい。
家族の嬉しい変化も沢山ご報告できる。小さいながら自分の夢に向かって歩みを進めている私の近況も、きっと楽しそうに聞いて下さるに違いない。それを想像すると今からワクワクする。
最初のセッションの時、
「私は『伴走者』です。ミツルさんの道を走るのは、ミツルさんにしか出来ないんだからね」
と言って下さった言葉の有難さを、今あらためて感じている。

なほさん!
明日はいっぱい喋りましょうね!めちゃくちゃ楽しみにしています!