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日本製信仰

先日一人でレジに入っていたら、遠くにいらしたお客様が私を見て黙って手招きをされた。メイドを呼ぶみたいな仕草である。
こういう人を私は密かに『近う寄れタイプ』と呼んでいる。結構な割合でいらっしゃる。
このタイプの人は物言いや態度が高慢な方がとても多い。つまり要注意人物である可能性が物凄く高いのだ。用心しいしい、向かう。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
七十代前半くらいに見える女性のお客様だ。その年代の女性に大変人気のあるシューズの棚の前で、一足の靴を手にしておられた。
欲しいサイズが見当たらなくて探して欲しいのかな、と思いきや、女性の口から出た言葉は意外なものだった。
「あなたね、これどこの国で作ってるか、ご存知かしら?教えて頂きたいんだけど」

最近の靴は中国製が殆どであるが、かの国の人件費の高騰を受けてなのか、コロナを機にメーカーがチャイナリスクを回避する策に出たのか、よくわからないが、中国以外のアジアの国々で作られた製品も増えつつある。特に多いのはベトナム、インドネシアなどだ。財布、鞄も事情は同じである。
生憎、お客様の手にしておられる靴はどこの産とは明示していない商品だった。しかしお値段からすると、少なくとも国産でないことは明らかである。
「はっきりとは書いておりませんが、恐らく中国、ベトナム、インドネシア、その辺りかと思います。このメーカーはそういう国で作られたものが多いので」
私がそう返事すると、お客様はため息をついて、
「国産じゃないのね!国産は扱っていないの?」
と仰る。

ウチの売り場で扱っている国産の靴ブランドは数えるほどだ。パンプスの『ユキコ・キ〇ジマ』と紳士靴の『ヴァ〇ンチノ』が代表格である。どちらも本革で、価格は大体一万円を超える。デザインもすっきり垢ぬけているし、材質も一目見て良いものとわかる。装着感に魅せられたリピーターが多いのが特徴で、『これでないと困る』というお客様が多い。勿論万引き防止のためにがっちりと防犯タグが付けられている。
『近う寄れ』のお客様がお持ちの靴は、一足三千九百円。防犯タグなんてどこにも付いてない。国産の訳がない。しかしそうは言えぬ。
「このタイプの靴で国産のものは、ウチではお取り扱いしておりません」
と丁重に答える。
お客様はさも残念そうに
「あらあ、やっぱりスーパーはダメね」
という。
へえ、でしたら百貨店にでも行っておくれやす。
因みにそのブランド、多分国産の商品作ってないですけど。もっと言えば百貨店にも取り扱いはないかもね、安すぎて。

このお客様に限らず、『日本製の商品はないのか』といって来られるお客様はとても多い。財布でも良く訊かれる。
財布にも鞄にもいくつか取り扱いはあるが、やはりお値段が他の商品よりぐんと張る。といってもスーパーの商品だから、目玉が飛び出るようなものはないが、それでも普段使いにはちょっと気後れする感じのものが多い。
どうしてみんなそんなに日本製が好きなんだろう。

まあ私だって日本製は好もしいと思う。同じ値段だったら、こういう国々の製品より日本のものを選ぶだろう。
だけどいざ売る側になってみて、こういうお客様の『日本製信仰』を耳にすると、大昔のまだ日本の国力がぐんぐん伸びていた頃の幻影を見ているようにしか思えない。
安くて良いものを買い求めたいのはいつの時代も、誰でも同じだろう。だけどもう随分前から、日本製の商品を買い求めるにはそれ相応の対価を払わねばならなくなっている。
安い労働力を使って丁寧な作業を施した製品を、気軽に手に出来る時代はとっくに終わったのだ。
いい加減気付いて欲しいと思う。

何十年も前の話でもう時効だと思うから言うが、ウチの母がミシンの内職をしていた頃、『どうしても出来ない』と言って断った仕事があった。
男性もののパジャマの『中国製』というタグを切って、『日本製』と書いたタグに付け替える仕事だった。
「詐欺の片棒担いでお金貰うなんて出来ひん」
仕事を持ってくる業者の人に、母がそう言っていたのを思い出す。
『日本製信仰』を悪用した、酷い話である。

車の検査不正事件など、日本のモノづくりに対する信頼が土台から揺らぐような出来事が沢山起こっても、人は何故まだ『日本製信仰』を続けるのだろうか。
『CHANEL』と書いてあれば長靴でも有難がる感覚と、どこか共通しているような気がする。物を見ず、ブランド名だけ見て品質を保証された気になっている。
本当に心から信頼できる『日本製』ブランドはそんなに安易に、あちこちで気安くに手に入れることの出来るものでは最早なくなっているというのに。

いつも日本製、日本製と血眼になるお客様を、私はいつもちょっと呆れた気持ちで見ているのである。







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