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羽目をはずす

若い頃から羽目をはずすのがとても苦手である。
ずっと飲み会が嫌いだった原因はここにあるとも思う。羽目をはずすことが『義務』のように感じられてしまう席では、居心地が悪く落ち着かないのだ。
今は私にとって飲み会は楽しいイベントだが、相変わらず席をウロウロしては、賑やかにあちこちと喋りに行くタイプの人間ではない。近くにいる人と静かに談笑する方が性に合っている。これはこれで結構楽しい。

子供の頃はそうではなかった。実際に羽目をはずし過ぎて、痛い目にあったことも何度もある。身体も丈夫ではない子供だったせいか、羽目をはずし過ぎると私は必ず熱を出していた。その度に母は渋面を作って、
「あんたはいつもはしゃぎ過ぎ。だからこんなに熱を出すんだ」
というようなお小言をくれた。
ぐったりと高熱を出してダウンしているだけでも辛いのに、追い打ちをかけるような言葉は子供心にかなりこたえた。『ああ、私はいけないことをした、悪い子供だ』と一生懸命自己否定し、『迷惑』をかけた母に謝っていた。

思えば子供の頃の私は、いつも『ああしなければ』『こうしなければ』と両親の決めた家庭内ルールにがんじがらめに縛られていた為、親戚一同が集まった席などで両親の監視の目が緩むと、一気に本来の自分を爆発させていたのだと思う。
近所の友達と田圃を駆け回るだけでは到底払拭できないストレスを、家庭内で感じていた、とういうことだろう。
永年の蓄積というのは怖いもので、五十代を半ばまで生きてきても、未だに羽目のはずし方が分からない。『丁度良い羽目のはずし方』なんていうと変な感じだが、どこら辺まで羽目をはずしていいのか、見当がつかないのだ。

新婚当初は時折晩酌でベロベロに酔っぱらったりして、夫に
「普段は真面目なのに、お前はなんでそう極端なの?別人やんけ」
と呆れられることもあった。
夫は子供の頃から随分ちょかちょかした子供だったそうで、姑に『この子はなんでこんなに落ち着きがないのか』と泣かれたこともあるらしいから、羽目をはずすことには慣れっこだったようだ。変な言い方だが、今でも羽目をはずすのが上手?な人である。
だから私の極端な羽目のはずし方に戸惑っていたらしい。

『羽目』とは『壁の上に並べて貼る板』と辞書にある(新撰国語辞典・小学館)。『羽目をはずす』とはこれを壁からメリメリ引きはがすということで、『興に乗り過ぎて限度を超える』(同)ことらしい。
つまり、『羽目をはずす』時点で『やり過ぎ』なわけで、『丁度良い羽目のはずし方』とか『度を越えた羽目のはずし方』というのは存在しない、ということになる。

私は『羽目をはずすのが苦手』というより、『自分を思い切り解放するのが苦手』な人間、ということなのだろう。
『怒られないかな』『なにか言われないかな』『笑われないかな』と常に警戒心でガチガチで、自分を守ることに必死だったのかなあ、と思う。

だから私にとって『羽目をはずす』のはとても勇気の要る行動である。
以前から欲しいと思っていた服を買ってみる時や、食べたいと思っていた物を食べる時。友人と食事に行く時。飲み会に参加する時。行きたかったコンサートに行く時。
これらは全て、私にとっては『羽目をはずす』機会だから、こういう行動を起こす時はかなり迷いつつ、一大決心をするような気持ちになる。
しかし普段の自分を解放して、えいっとその行動を起こしてみると、なんとも清々しく嬉しい気持ちが沸き起こってくるのがわかる。
バカ騒ぎをする必要はない。ただ普段の『一生懸命真面目に頑張っている自分』をちょっとだけ違う方に連れて行ってあげるだけで良い。
こういう時、私は大きく息を吸い込みたい気分になる。肩をぐっとひろげ、空を仰ぎ、『やったー』と心の中で万歳をしてみる。

『羽目をはずす』ことは、私にとって何度も味わいたい、ちょっと怖いけれどワクワクする、『自分』が喜ぶ瞬間である。