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飲んだら吹くな、吹くなら飲むな

北陸にいた時にお世話になっていた楽団は、百名を超える大所帯だった。中でもクラリネットは総勢三十二人。エスクラ一人、バスクラ二人、あとは全員B♭クラリネットという、一大勢力だった。
一番若い子は音楽高校の学生。一番年長の人は孫がいてもおかしくないような年齢だった。
だがこれだけいても皆仲良く、言いたいことを言い合える関係だった。
まとまりが良かったのは、穏やかな人が多かったせいもあるが、やはりパートリーダーのAさんの人柄によるところが大きかった、と思う。

Aさんはパート一の年長者だった。女性、独身。話し方はおっとりとした感じで、誰にでも気さくに話しかける、気のいい人だった。
だが、単に気さくという訳ではなかった。練習をさぼっているのに「本番に出たい」という人がいると、遠慮なく「ダメだ」とはっきり言った。決して嫌な言い方ではなく諄々と説いて聞かせたそうで、本人は納得の様子だった。
学生の部活ならそういうことも簡単に解決するのだが、大人同士の集団はこういうことを言うのが相手によって、とても大変な時がある。言い方も難しい。でもAさんは
「ダメなものはダメ」
と言って筋を通した。
こう言う事をなあなあにして認めてしまうと、集団に必ず不穏な感じが残ってしまうのを知っていたからだと思う。年齢が一番上、ということも大きかったとは思うが、大所帯をまとめるのはこういう人でないと難しいだろうなあ、と思っていた。

北陸大会に出場した時、私達はバスで移動した。私は当時まだ入団してから日も浅く、楽団内に親しく話の出来る人は殆どいなかった。
みんなそれぞれ、普段から親しくしている人と並んで座っていく。私はしょうがないので一人座っていた。するとAさんが後から乗ってきて、
「隣、空いてるか?」
と聞いた。はい、と答えると、
「じゃあ座ってええか?」
と言って腰を下ろした。
「今日は子供さんは?旦那さんに預けたんね?」
「はい、まだ寝てましたけど。目覚めたら大騒ぎかも知れません」
私がそう答えると、Aさんはふーっと息を吐いて、
「お母さんは大変やのう。親も、子も」
と言った。
そこからは色んな話をしてくれた。ご両親の事。きょうだいのこと。姪や甥のこと。仕事の事・・・。
初めて聞く話だったが、のんびりしたAさんの話しぶりについ楽しく耳を傾けてしまった。
そのうち、
「私の彼氏がな」
と話し出したのでびっくりしてしまった。年齢的に彼氏なんて居ないだろう、と失礼な推測をしていたからである。
「お互い、もう結婚はこの歳で面倒くさい」
とのことだった。
みんなが「独身も気楽でいいけど、寂しくない?」なんて話しかけた時には全然彼氏がいる素振りも見せなかったから、なぜ話してくれたのだろう、と不思議だった。
この子は喋らないだろう、という安心感があったのかも知れない。緩い感じで話してくれたので余計にこのことは黙っておこう、という気になった。

Aさんは酒が好きで、飲むと一層ラフで陽気になった。
ある時合奏練習時に、私の横に座っているSさんという人が、
「なんか、お酒臭くないけ?」
と耳打ちしてきた。
私もちょっと匂うなあ、と思っていたので目顔で頷くと、Sさんはそっと後ろを振り返り、
「Aさん!飲んで来たやろ!」
と小声で言って、Aさんを睨んだ。
「うん、今日暑かったでえ、来る時ビール一杯ひっかけてきた」
Aさんがニヤニヤしてこう小声で答えたので、周囲で聞こえていた人間はふき出してしまった。
Aさんは運転が出来なかった為、いつも電車で練習に来ていた。だから飲酒運転の心配はなかったけど、普通酒を飲んだら楽器は吹かない。というか吹けない。心拍が上がってしんどいし、息が思うように身体に入らないからだ。
バレないだろう、と思っていたらしい。
「飲んだら吹くな、吹くなら飲むな!やで!やめてよ!」
Sさんに言われたAさんが、肩をすくめて舌を出したので、みんなでまたクスリと笑った。

楽団を離れる時挨拶に行ったら、
「寂しくなるのう」
と本当に寂しそうな顔を向けてくれた。
Aさんは今も楽団で頑張っておられる。そろそろ七十歳近いと思う。
私にとって北陸のお母さんのような、懐かしい存在である。