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手紙を書く

今年で『年賀状じまい』をした。
元々年賀状を書くのは好きではなかった。いつまでに出せ、と期限を切られるのが鬱陶しい。書く相手をある程度は選べるが、『この人、毎年くれるし出しとこうか』などという『特に出したくもないけど出さねばならない相手』というのが必ず何枚かある。しかも枚数を一気に大量にこなさねばならない。
この無味乾燥な義務を年末という忙しい時期に全うする意味はあるのか、と毎年毎年疑問が膨らむばかりだったから、漸く肩の荷を下ろした気分になっている。

私は手紙を書くのが好きである。
宛先の相手と心の中で対話しているような気になる。いつも過去のその人と共通の思い出や、その人の声、笑った顔などを思い浮かべながら書く。
自分の思いついた時に、自分の書こうと思う相手に、好きな長さの文章を書く。至福のひと時である。
手紙をしたためる便箋を選ぶのも好きだ。
最近は『伊予和紙便箋』というシリーズがお気に入りである。季節の花がそれは見事に美しく描かれた便箋で、見ているだけで嬉しくなってしまう。新作が出るとついつい買ってしまう。
お揃いの封筒もある。勿論一緒に買って、揃いの便箋と封筒で出すようにしている。
ポストに投函する時、この綺麗な封筒を目にした相手がどんな表情をするのか、想像するとこっちも笑顔になってしまう。
それでもLINEなどの便利さに、手紙を出す機会はぐんと減ってしまった。

結婚前、父方の祖母にはかなりマメに出していた。施設で一人、リウマチと闘っていた祖母を見舞いに行った時、
「手紙を頂戴ね。これだけが楽しみなの」
と言われたのがきっかけだった。
私が結婚する二ヶ月前に祖母は亡くなってしまった。入所した時は既に手が変形して強張ってしまい、返事を書けるような状態ではなかったから、祖母がどんな風に読んでくれていたのか分からなかったが、葬儀から帰ってきた父に
「最後まで楽しみに読んどったらしい。しまいのほうは○○(父の姉)が読んで聞かせてくれ、と言われて読んどったらしいぞ。ありがとうな」
と目を赤くして言われた時は、胸に迫るものがあった。

自分では特に出す日も決めず、思いつくままに出していた。春は桜、夏は金魚や風鈴、秋は紅葉やどんぐり、冬は雪景色。祖母の目を楽しませようというのもあったが、自分が書いていて楽しくなるようなものを選んでいたと思う。
二十年以上前の話だが、気に入って選んだ便箋の柄は未だに覚えている。
何年もの間に手紙は夥しい量になっていたらしい。何通かは叔母が祖母の棺桶に入れてくれ、残りは処分してくれたと聞いた。結局叔母には手数をかけてしまった。
あんまり出すのも考えものだったかもしれない。

祖母に宛てて書いている時も、私はいつも田舎の祖母宅の縁側や、従兄達と遊んだ庭などを思い出していた。蚊帳を吊ってもらって大はしゃぎしたことや、屋根の下にいくつも出来たアリジゴクの巣を、妹とほぜって遊んだことなども懐かしかった。
そこには無邪気な子供だった私の姿と、元気だった頃の祖母の笑顔がいつもあった。不思議と闘病している祖母の姿はあまり思い浮かばなかった。
大人になっても、私の心の中の祖母はいつも幸せな、のんびりした田舎のおばあちゃんだったからだろう。
書いた内容はすっかり忘れてしまったが、きっと祖母の身体を気遣うというより、かなり能天気な内容だったに違いない。でも周囲が病気に注目するばかりだったから、祖母も読んでいて案外気楽だったのかなあ、と思う。

私が最近書くのは、専らお世話になった『なほさん』宛である。
元々、カウンセリングの一環として『自分宛ての手紙を書く』というのが私の最初の課題だった。
「便箋や封筒も自分で気に入った『これ!』というものを選んでみて下さいね」
と言われて買いに行ったが、ついつい
『自分に宛てて出すのに、こんな高価なものは勿体ない』
などどいうさもしい根性が出て、最初のうちはぞんざいな選び方で便箋を選んでいた。
『自分の』気に入った物を選ぶ、『自分の』良いなあと思える柄はどれなのかを見極めて自分で勇気を出して手に入れ、『自分を』満たす、というところからが私のレッスンだったのに、全くなほさんの意思を汲み取れていなかった。
今はちゃんとお気に入りの便箋と封筒で出している。
『キレイ!』と喜んでくれているなほさんの笑顔を思い浮かべながら。

手紙を書くという文化は段々廃れていくだろう。
けれどお気に入りの美しい便箋に向かって、相手の笑顔と声を想像しながら対話を楽しむように文字を綴る時間は、私にとって素晴らしく楽しいひと時なのである。