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歳を重ねる

「歳を取る」のは一般的には歓迎されない事が多い。
白髪が増える。髪が減る。皺が増える。体力が落ちる。老眼になる。
年齢制限に引っかかり、やらせてもらえない事が増える。わからないカタカナワードが増える。覚えが悪くなる。なのに忘れるのが早くなる。
ここまで書くと、ホンマや、と笑えてくる。

高齢者には「長生きして下さいね」と声をかけるのが良いとされている。
長生きすればする程、上記煩わしさが次乗的に増えていくのが誰にでもわかっているのに、どうしてそんな事を言うのだろう?

多分、『若い頃に沢山働いて、今の社会を支えて下さったのだから、あとは若い人に任せて、仕事しなくて良くなった今、ゆっくり楽しんで下さい』と言う労いの気持ちだろうと思われる。
でもその気のない人にとっては、自由闊達な社会からの引退勧告みたいに聞こえるかも知れない。

「長生きする」とはどういう状態なのだろう?
単に命をながらえる事だけを「長生き」と言わないのは自明の理である。
「長生きして下さい」という言葉の前には、暗黙の内に「元気で」がついている。
なのに、元気な高齢者を何処か揶揄するような空気を、感じる時が少なくないのはなぜだろう。口と行動が裏腹ではないか?といつも思う。
「お元気ですねえ」と言う言葉には、羨望と尊敬の他に、少なからず『ええ年してようやるわ』という嫉妬と軽蔑の混じった感情が入っている時がある、と感じる私はどうも性格が悪いようだ。

誕生日を迎えた姑にこの決まり文句を言うと、
「長生きなんかしても、良い事なんかないし」
とこれまた可愛げのない、決まり文句が返ってくる。

姑は85を超えているが、身体は何処も悪くない。耳がかなり遠いが、頭は正常に稼働している。舅も高齢ではあるが、元気である。

多くの高齢者が言う事なのであろうが、姑の言う「良い事」って何なのだろうか、とずっと思っていた。
子や孫は皆元気で、それぞれの道を歩んでいる。可愛いひ孫も4人いる。
それを言うと、それは姑にとって「有り難い事」ではあっても、「良い事」ではないのだそうだ。

姑の愚痴を聞くともなしに聞いていると、明確な基準は示されないが、若かった頃と同じようにあちこち出歩く事が出来、頭脳は明晰で、友達も沢山居ることが「良い事」のようである。だが根っこには、
『(家族を含めた)社会からいつまでも必要とされたい』
と言う、強い欲求がある事が見て取れる。

風呂掃除は足の頼りない姑に代わって、ヘルパーさんがきてやって下さる。舅はデイサービスに通うようになっている。お守りを頼まれるような孫ももういない。
姑は『いざという時周りが頼りに出来る存在』から『いざという時に備えて、周りが気にしてあげないといけない存在』になった。
その事実が姑を苦しめている。

体力的には、受け容れざるを得ない。それは姑も百も承知である。
だが気持ちが、『そうなっている自分』を受け容れられない。
認められない。
更に自分が動けない分のサポートのお膳立てを、若い娘と息子が姑の為に、と着々とやってしまう。
姑のプライドはズタズタである。でも、娘と息子は『お母ちゃんの為』に一生懸命親孝行しているつもりである。
両者の齟齬はお互いが諦めない限り、埋まることはない。
姑は衰えていく自分を、娘と息子は姑の心まではお世話出来ないという事を。

歳を取れば、経験が増える。その分、何かを始めるのに臆病になる事もあるだろうが、得がたい経験は、まだその経験を積んでいない後の世を生きる者にとっても、大きな道標になる。
歳を取るのは悪い事ばかりではないと思いたい。
その歳だからこそ、見える景色もある。

とは言え、誰だって体力、気力共に衰えたくはない。
『言うは易く、行うは難し』だが、歳を取る事に悲観的になるばかりでなく、『歳を重ねる』喜びを見つけていくように心掛けたいと思っている。