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常時不在先

訪問営業をしていると、七割強が不在である。それだけ共働き世帯が多いのだろう。宅配便の方の苦労がわかる。
在宅しているのは圧倒的に高齢者である。あとは小さいお子さんが居る家庭。私が営業をしていた頃は、赤ちゃんを保育園に預けるなんて、なくはないがかなり珍しいことだった。今の時代はこういうお宅も不在がちだろう。
そんなわけで、不在でない家を探して訪問するのは、かなり難しいことだった。
こういう常時ご不在の家には、アプローチする方法が限られる。
訪問して、名刺に『〇月×日 伺いました いつもありがとうございます』と記してポストに投函する。稀に遅い時間に電話する。電話には出て下さる家もあったが、そういう時は何かでお急ぎの用事があるのでいつもより早く帰宅していた、なんてケースが殆どだったから、ゆっくりとお話をさせて頂くことなど先ず不可能だった。
メールなどもない時代の話である。手詰まり、というのが正直な所だった。

私の管理顧客の中に、Oさんという常時不在先があった。奥様とご主人の二人暮らし。奥様は看護師さんで、ご主人は某有名メーカーにお勤めだと前任者からの引継ぎメモに書いてあった。といっても前任者も会ったことはなく、口座開設時の入力情報を写しただけだった。
私も当然いつも会えなかった。なのに何故訪問していたか、というと、ご主人と奥様のお給料の振り込み口座がウチになっており、いつもかなりの金額が普通預金に置きっぱなしになっていたからである。定期預金に回してもらえれば、営業成績が上がる。預かって帰るのは無理でも、店頭に来て頂けないだろうか、そんな魂胆だった。

ある時、店に帰ると窓口のTさんが
「在間さん!丁度良かった!○○町のO様、今お見えなんです。ご挨拶します?」
という。担当してから既に五年以上経つのに、一度もお目にかかれていなかったから、私は急いで窓口に向かった。
化粧っ気のない、柔らかい笑顔の五十代くらいの女性が腰を上げた。
「在間さん?いつも来て下さってありがとう。Oです、はじめまして。今日は私のボーナス、定期預金に預けに来たの。主人のは来週だから、もう少し待っててね」
嬉しかった。そして丁寧な挨拶に、良い人だなあ、と恐縮した。
「こちらこそ、いつもありがとうございます。やっとお目にかかれて嬉しいです。お預入れありがとうございます」
心の底から言うと、
「女性の営業の方って、初めてでしょう?主人とね、どんな方かなあ、っていつも話していたの」
「そうでしたか」
私の薄っぺらい名刺をみてご主人とそんなお話をして下さっていたのか、と妙に感動してしまった。
「もっとバリバリした方かと思ってたけど、こんな若いお嬢さんだったのね」
「いやあ、もう三十手前ですから若くありませんよ」
私が照れてそう言うと、TさんとOさんが一緒に笑った。まるで何度もお目にかかっているお客様のようだった。

昔は得意先にカレンダーを配るのが年末の恒例行事だった。カレンダーは預金額に応じて配る種類が決められていた。
不在先でも配らねばならなかった。勿論、Oさん宅にも配った。ビニールにくるんだカレンダーをドアの前にそっと置き、名刺に
「いつもありがとうございます 今年もお世話になりました 良い年をお迎えください」
と書いてポストに投げ入れた。
それからしばらく経って、窓口係からの私宛の連絡メモに、
『今日、○○町のO様、お見えになりました。カレンダー今年もありがとう、在間さんによろしく、とのことでした』
という記述があって、驚いた。また来て下さったようだった。前回お目にかかった奥様を思い出し、自然に笑顔になってしまった。

お休みのタイミングが合わず、退職のご挨拶は出来ずじまいだったが、
『長い間お世話になり、本当にありがとうございました。これからも弊行をよろしくお願い申し上げます』
と名刺に書いて、いつものように投函した。それっきりだった。
ご挨拶をしたわけではないのに、少し寂しい思いがした。
その後はお目にかかる機会は残念ながらないまま、私は退職した。後ろ髪を引かれる思いだった。

今でもO様宅の門扉や、玄関前の植栽の様子などはありありと思い出すことが出来る。それだけしょっちゅう訪問していた、ということなのだろう。
ご夫婦お二人共、もうとっくに八十代代の筈だ。お元気でお過ごしだろうか。まだあの家にお住まいだろうか。
私にとって、ただ一度の出会いが忘れられないお客様である。