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えげつない風物詩

『えげつない』という言葉は関西弁で、ざっくり『耐え難いくらい酷い状態の』というくらいの意味の形容詞である。『えげつないことしよる』と言えば『なんて酷いことするんだ』という抗議や呆れの意味を含んだ憤りであるし、『えげつない量や』と言えば『何かしらの困難を来すくらい、沢山の量だ』という意味である。
そんな『えげつない』夏の風物詩は、私の実家の前の公園にある。

私の実家は道路を挟んで、この公園の南側の角にある。公園のウチの正面付近には大きな桜の木が一本植わっている。私が小さな頃には細いショロショロした幼い木だったが、今や大きくなって電線に届くくらいの高さになっており、横にも広く枝を張っている。
春には勿論、素晴らしい満開の桜を楽しむことが出来る。近所の幼稚園児などがお散歩がてらお花見に来て、木の下でワイワイおやつを食べながら休憩していることもある。
新緑の季節には青々とした葉が目に眩しい。が、毛虫がついてしまうので、この季節になると市から委託された業者が来て、駆除をしてくれる。
秋には紅葉が見事だ。葉を次々に落とすので、春の花がらと同様、両親は家の前の掃除に忙しくなる。
そんなこんなで、四季折々にふれて目を楽しませてくれる木なのだが、夏はちょっと様相が違う。
びっしりと『クマゼミ』が集うのである。

私が子供の頃はこんなに酷くなかった。が、異常気象が話題になり、温暖化が叫ばれ始めた頃から、それまでのアブラゼミに成り代わり、クマゼミが大量に来るようになってしまった。
昔はクマゼミなんて珍しく、捕虫網にかかった時は物凄く嬉しかったものだ。が、今や前の桜の木にはクマゼミしかいない。
何がどうなってこういう事態になっているのか、田舎育ちの父も首を傾げている。

セミと言うのは気温が一定以上になると鳴き始めるらしく、朝から暑い日は起きて窓を開けると、ジャワジャワと凄い鳴き声が飛び込んでくる。一匹でもうるさいものが幹を黒く覆うくらいいるのだから、その音声の凄さったらない。
家を出る時「行ってきます」とドアを開けると、音圧を感じるくらい酷い鳴き声が家の中に入ってくる。母は
「いってらっしゃい。早う閉めて」
と眉を顰めるので、何も悪いことはしていないのに、すいませーんとスゴスゴドアを閉めることになる。

どのくらいの数が居るのかわからないが、この木の下に行くと地面にボコボコ無数の穴が開いている。セミの幼虫が地面から這い出した跡である。靴を履いていても、彼らが持ち上げた土で地面がフワフワするくらいだ。優に百匹は超えていると思う。当然あちこち抜け殻だらけである。
木の幹にはびっしりと黒々したデカいクマゼミが引っ付いているのだが、そんなに太い幹でもないから過密状態である。時にはセミ同士が重なるようにして、少しでも木に密着しようとひしめいている。
幼稚園児でも素手で捕れる。実際、近所の子供が面白半分に手で捕ったりしているが、アクションを起こそうものなら、木にびっしりついているセミが一斉に飛び立つので、子供は気持ち悪さに悲鳴をあげることになる。ヒッチコックの『鳥』という映画を思い出しそうな雰囲気である。
夫が初めて夏に一緒に帰省した時、
「なんじゃこりゃ!」
と驚いて気持ち悪がっていた。あまりの鳴き声の凄さに、耳がしばらくツーンとしたらしい。そりゃそうだろう。
害虫ではない(騒音はあるが)ので駆除という訳にもいかず、ウチの両親もウンザリしている。

が、お盆を過ぎるころには、少しずつ鳴き始める時間が遅くなっていく。そして段々数が減り、静かになっていくのだが、数が減るということは彼らが死ぬということである。死ぬということは死骸が出るということである。もうおわかりだろう。穴だらけの地面は死屍累々、びっしりと彼らの屍で覆われる。
うっかり踏むとジャクッとした嫌な感触に飛び上がることになる。たかだか虫の死骸だが、靴越しでも踏んでしまうとあまり気持ち良いものではない。
しかし不思議なことに、誰がかき集めて燃やす訳でも、捨てるわけでもないのに、秋には一つ残らずなくなってしまう。蟻があちこちで忙しそうにしているが、彼らの冬の備蓄になっているのかも知れないし、土中の微生物に分解されて桜の肥料になっているのかも知れない。
そうやって夏は過ぎていく。

母によると、今年も毎日喧騒の真っただ中にいるそうだ。
「まあお盆までの辛抱やわ」
母は早くもあきらめムードである。
それを聞くと、ああ今年もあの公園に夏が来たんだなあ、と思う。