留学日記『他人のために働きたいって、ちょっとだけ思えた』編

2022.12.1
今日はぼくにとって、Fallクオーターの最後の授業日だった。

9月末から始まった留学生活、もう3分の1が過ぎてしまったとは、驚きだ。

約2か月半前、アメリカの大学の授業を初めて受けて、その充実度と過酷さに衝撃を受けた。それも今では当たり前のように参加できているのは、成長なのか。



交換留学の申請をした時から、ある程度の時間割は組んでいた。
だから実質1年半前から考えていた、今学期の時間割。

最初だからって、特にひねりは入れず、歴史専攻らしく西洋史とアメリカ史。それに加えて、何かUCLAでしか受けられない授業も入れてみようと思って半ば適当に選んだのが、国際開発学。この3つの布陣で挑んだFallクオーター。

西洋史とアメリカ史に関しては、知識的なところは知っていることが多く、どちらかというと資料の分析の方法とか、レポートの書き方、歴史の捉え方、みたいなところでの学びが多かった。知識面で苦労しないので、最初に受ける授業としては良い選択だったと思う。



そういう意味でも、知識面や価値観みたいなところで学びが一番多かったのは、国際開発学だった。

しょっぱなから教授の印象的な言葉があったり(前のnoteにまとめてます。:)、ケーススタディが多くて実践的だったり、莫大かつ難解すぎて大変だったけどすごい興味深いリーディングがあったり、レベルの高いディスカッションができたり、本当に受講してよかったと思ったコースだった。気に入りすぎて、Winterクオーターでも、続編のupperレベルの授業を取ってみることにした。

国際開発に携わることが夢!というわけではなかった。今でもそう。

でもこの授業を終えてみて、究極的に自分がしたいことはこれに近いのかなって少しだけ思った。したいことっていうか、やるべきこと?



外交官、国際機関の職員、報道官やジャーナリスト。
何らかの形で国際社会に関わりたいっていうのは高校入学くらいには心のどこかで定めていた自分の将来像だと思う。

でも、なんか一つだけひっかかることがあった。

ぼくがそういう仕事をしてみたいなって思うのは、ただただ自分が興味のあるフィールドだから。知らない世界を知るために世界を飛び回るには最高の職業だと思ったから。

そこに目的はない。自分がその仕事に就いて、何を成し遂げたいかなんてない。自分がそれを成し遂げることで、誰かの助けになりたい、なんてこれっぽっちも思わない。

夢を語る人の口から語られるその夢は、基本野心に溢れていてすごい。

誰かの命を救いたいから医者、看護師になりたいという人は周りにもいっぱいいる。
政治家になりたい人は、この国を、世界を自分の手で変えて見せるとでも思っているんだろうか。
大きな野心でなくても、ただお金持ちになって、幸せな家庭を築きたいと言って大手企業を目指す人もいる。
トッププレイヤーになって、スポーツで誰かを元気にしたいっていうスポーツ選手も多い。
そして、国際開発の分野に多いのは、世界中の貧しい人たちを救いたい、という人だ。

それ、ほんと?ってぼくは今でも思う。

ほんとに誰かのためになりたいからって自分の道を選択する人っているんだろうか。ひねくれものなので、どうもこういう夢の語り方が気に食わない。なんか全部自分の夢を正当化する言い訳にしか聞こえない。

大前提として、
何か大きな野望を実現することを目的に働く、っていう働き方も、
ぼくみたいに、成果は追い求めずただ自分の興味に従って働きたい、っていう働き方も、
他のどんな働き方も存在して良いと思うけど。どれを否定するわけでもない。

でもぼくは、他人のためには働きたくない。かと言って、自分の経済的な豊かさだけのためにも働きたくない。

ただ、自分の興味に従って、自分の知らない世界を知りに行くために働きたい。成果や誰かのためになるような功績は別に必要ない。

って結構子供っぽくて、わがままな働き方を望んでいる。



でも、今期の国際開発学の授業が、そんな価値観を少しだけ壊してくれたような気がした。

教授は、これまで先進国や国連が行ってきた、発展途上国に対する政策が、いかに機能してこなかったかを、たくさんの具体例を挙げながらよく説明してくれた。

どれが機能する「国際開発」で、どれが機能しない「国際開発」なのかがよく分かった。

こちらが意味あると思って行った支援が、有難迷惑となった事案もいくつも見た。被災地に千羽鶴を送る、あれみたいなやつ。

そうすると、余計に何が正解の「国際開発」なのかがわからなくなる瞬間が多くて、ディスカッションの時間とかは本当に苦労した。

やっぱり他人のために働くなんて、難しいから自分には無理だと思わされることもあった。

でも、最初の授業で教授が話してくれた言葉と、全10週の講義とディスカッションクラスの内容をすべてリンクさせたら、

他人のために働きたいって、ちょっと思えた。

やっぱり前回の留学日記に立ち返るけど、教授はこんなことを話してくれた。

"Week1の講義はこれで終わり。この授業をdropする(履修しないことにする)かどうかは、あなたたち次第です。
 ですが、1点だけ覚えておいてください。
 international developmentの世界で重要な3つの要素のうちの2つがpovertyとinequalityであることは今週学びましたね。
 ご存じの通り、世界には十分または質の高い授業を、受けたくても受けられない人たちがいます。一方で、あなたたちは、ただあなたの出身国に生まれたというだけで、ただあなたの親の下に生まれたというだけで、UCLAという世界に名をはせる大学で勉学に励む機会を与えられています。もちろんここに来る資格を得るためのあなた方の努力は、認められなければなりませんが。
 このクラスをdropするということは、それを得たかった誰かが、自分では変えられない環境を理由に得られなかった機会をごみ箱に捨てるようなものです。ましてや、international developmentは、そうした'誰か'を救うための学問です。このような、一理には偶然に近くあなた方が手に入れた機会を、'誰か'のために最大限活用する「責任」も皆さんにはあることを、決して忘れないでください。"

これだ、と思う。今。

ぼくが他人のために働きたい、働かないといけない理由。

国際開発は、とても難しい分野。
あの国連が、有効な手立てを打ち出せない事例だって山ほどある。
てか、簡単だったら誰もこんなに苦労してない。

だから、それに携わる者は、多くの批判を受ける。
国のトップや、国連だって散々に批判を受けているのはぼくらでも分かるくらい。

それくらい正解がない。それくらい難しい。

『それってどんな世界なんだろう。世界の現状ってどうなってるんだろう。』
ここどまりなのが、今までのぼく。

『それってどんな世界なんだろう。世界の現状ってどうなってるんだろう。

その現状を変えるために、アクションを起こさないといけないのはぼくだ。』
が、今のぼく。

だって、国際開発を、行う側からの立場で学んで、実際に行動できるのは、国際開発に関して十分に教育を受けることのできた人間だけだから。

ここまで読んでいたのかな、あの教授。それであえて教育の機会の話を最初にしたのかな。すごいな。やっぱ違うな。

今でも、自分の知らない世界を知りに行くために仕事がしたい、とは思う。

でも、
ぼくには、自分がUCLAでこの国際開発の授業を受けた以上、世界中の様々な種類の社会問題に苦しむ人々と共に発展していくために行動を起こす義務がある
、ということを忘れてはいけないなと思う。

最後に教授が、Development is about choices. Choose wisely. という言葉をくれた。

やっぱり正解がないんだと思う。だから難しんだと思う。国際開発は。

だからこそ、来たる日に賢い選択ができるように、勉強し続けたいな。その選択が、誰かのためになるようなことがあれば良いな。それがぼくの、働く上での野心になるかな。



またキャリアについて考えちゃった!
まとまりがなくてごめんなさいな文章になっちゃった。

2022.12.1
留学日記『他人のために働きたいって、ちょっとだけ思えた』編


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