「アナリーゼ」の奥行き

 西洋クラシック音楽の世界において、多くの演奏家や作曲家が既存楽曲の「アナリーゼ」(分析)をすることは重要であるという認識を持っているのではないかと思います。しかしアナリーゼとはどのようなことを行えば良いのでしょう?あるいはどのように進めれば良いのでしょう?そう問われると、実のところ多くの演奏家や作曲家は曖昧な口調で曖昧なことを述べるしかないのではないでしょうか。

 そもそも日本語のアヤとして、我々が漢語で「楽曲分析」と言うのとカタカナ語で「アナリーゼ」と言うのとでは、微妙に異なるニュアンスを帯びている場合があるように思われます。楽曲分析と言われると何となく音楽学者のするような仕事が想起されやすく、そしてそれは机上の議論や「分析のための分析」といったイメージを伴いがちです。一方でアナリーゼと言われるとそれよりは演奏家や作曲家に対して親しげな響きのように感じられ、「演奏や創作活動に生かすためのもの」といったイメージを伴うでしょう(もっともこの段の内容はあくまで私自身の肌感覚でしかありませんが)。

 ともあれ、演奏家や作曲家––––とりわけ演奏家––––が音楽学者の分析に対して抱くある種の不信感というべきものは現に根強くあるでしょう。そしてその感情には同情できるところも多くあります。例えばシェンカー理論に則った分析によって楽曲の還元可能性が確認されたところで、演奏家は自分の演奏をより良くするためのヒントをそこから得られると感じられるでしょうか?大抵の場合答えはノーでしょう。演奏家や作曲家にとってはやはり演奏することや作曲することが大きな目的であり、そのために有用かどうかということが価値の判断基準になるのは自然なことです。

 あるいはわざわざシェンカー理論などといった難しげな装置を持ち出して来なくても、より一般的なレベルにおいて、例えば楽式(楽曲の大形式)や和声進行を記述することが実際にどの程度演奏に役立つと感じられるでしょうか?このように疑問を抱く人はもしかしたら、先生にアナリーゼをしなさい/した方が良いと言われたものの何をどうするべきか確信を持てず、とりあえず和音度数を全て書き出してみたり、とりあえず「提示部」とか「第二主題」と言った言葉を書き込んでみたりしたことがあるかもしれません。あるいはもしかしたら、音楽大学の授業で先生がそういった事柄を延々と羅列するのを退屈しながら聞いたことがあるかもしれません。そしてこう思うのです:よろしい、和音度数やソナタ形式の部分の名前は書いてみた。それで?だから?そこから何が起こるというんだ?

 分析記号や数字はファンタジー物語に出てくる魔術文字ではないので、確かに書き出しただけでは何も起こらないのです(ならばといって唱えてみてももちろん何も起こりません)。それらは目の前の音楽作品の音楽的なダイナミズムを理解するための「補助線」となるにすぎません。ソナタ形式における「第一主題」と「第二主題」の場所が分かったとしても、それだけでは「これは犬です。犬だから耳と尻尾があります。ここが耳でここが尻尾です」と言って終わっているようなものです。より重要なことはその耳がどんな耳であるか、その尻尾がどんな尻尾であるか、それらがどういうバランスであるのか、などです。それがそれぞれの犬の、それぞれの音楽作品の固有の特徴ということになります。

 とはいえ一部の特徴については、それが特徴であることを認識するために前提知識が必要となる場合があることを認めなければなりません。「普通だったらこうするだろうな」とか「こうきたらこうするのが無難だな」という想定を裏切ることは、最もわかりやすいユーモアの一つでしょう。しかし「普通」や「無難」の感覚というのは、その音楽文化のマナーを身に付けていないとなかなか分からないものです。ここにまさしくソルフェージュや音楽理論教育の領域の重要な問題––––すなわち我々ソルフェジストが向き合わなければならない課題––––が立ち現れることになるのです。

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