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人事評価運用にあたっては「公平=納得」を目指さない

以前「OKRとMBOは何が違うのか」では、OKRとCFRに興味をそそられていることをお話ししたが、今回は本書「人事評価の「曖昧」と「納得」」で著者である江夏幾太郎氏が表現する組織内における評価者と被評価者の「大人」の判断の現実性に感心する部分が多かったのでご紹介したい。

本書では人事評価を「公正な評価」として従業員に納得してもらうための企業側の問題意識とそのための各種取組を紹介している。その上で「納得」については、「今後の仕事に対する前向きな気持ちの減退をともなわない、評価や処遇への従業員の反応」と定義している。

著者は「企業が従業員に提供できる報酬の量が限られており、結果として全員を高く評価することができない」、「従業員全員に満足してもらうことは不可能な中では、人事評価を通じて従業員全員の前向きな気持ちをさらに強くすることは現実的ではなくなります」と言う。要は全員前向きは望ましいが、人事評価が反映する報酬制度上の制限からそれは無理だ、せいぜい今の前向きな気持ちを減退させないことだ、と言っている。「強化する」では無く「減退をともなわない」という点で「大人」の判断をしていると私は思う。

さらに面白いのが、第三章の「曖昧さの中での納得」だ。著者がフィールドワークを進めると「評価・報酬制度をめぐる言行不一致とも評価できる状況に対して、必ずしも否定的な反応を示さない、あるいは、さも当然であるかのような反応を示す人々が」いるということに気がつく。そしてそういった「満足も不満も抱いていない人々」、「以前と比べて満足度に変化が無い人々じつはマジョリティないしはそれに近い存在なのかもしれない」と思うようになる。そしてそれは「好ましくない状況に直面するとき、人はその状況を変えようとするか、適応しようと」するからだ、と言う。

「公正である」とは言えないことが「不公正である」に直結するわけではない。「公正=納得」といった前提を置くのではなく、被評価者は「曖昧だからよくない」という発想を一度やめる。「評価者の多くは、職場全体と被評価者個人の双方を見据えながら、個人の生活水準の安定と評価のメリハリの双方の可能な限りの両立を意識せざるを」得ないということを被評価者は理解した上で、実害が無いならば受け入れる、という対応になるのだ、という。

そして従業員として納得するための道筋、「企業から与えられる「過程の公正」に頼らず、従業員自身の「ものの見方」の変化により、結果として現れた評価や処遇に納得する」方法として次のようなものを挙げている。

・評価制度のねらいが部分的に外れるのは仕方がない
・実際に受ける評価や報酬はそれほど悪いものではない
・自己評価を過信しない
・評価や報酬のことにこだわるべきではない

さらには、公式的な評価が「水もの」であるならば、周囲の人々との関係のなかで、日常的あるいは非公式に示される評価をより重要視する。仕事に対する充実感、仕事そのものに大きな意味を見出したり、仕事の面での大きな責任や裁量、進捗度度合いを適宜確認できること、などを感じる。高い評価ではなく、成長を目指す評価者=上司への信頼感を抱く。このような仕事面や人間関係面でのさまざまな刺激を受けることで、評価や報酬の動向とはかかわらない形で安心して目下の状況に対応できるようになる。

「評価の公正さを確信」しないまでも、「評価の公正さを推測」する、「評価の公正さへの判断を留保」するなど「不公正だとは言い切れない」のであれば評価を受け入れることになる。これらは従業員には、「自分に対して示された評価に納得するために、評価の実態について柔軟な捉え方をしたり、自ら価値づけをしたりするだけの能力」が備わっているのだ、と指摘する。

これらをまとめると「公平=納得」という二律背反的な考え方をやめて、組織は色々な仕組みで過程の公正を充実させはするが、被評価者である従業員も成熟することで評価の実態を柔軟に捉えて安心して目の前の状況に対応できるよう目指すことが現実的だ、とする考え方だ、とも言える。これが私が冒頭に「大人の対応」と表現したものだ。

日本の労働者は忍耐強い。そして今揺らいでいるとは言え、まだメンバーシップ型雇用の色彩が濃いい。そういった中では、人事考課が曖昧であっても、自らの見方を変えることによって納得することはできる、という極めて日本人的なマインドセットをまとめてみせている、と言う点で本書は大変興味深い。そしてNo Ratingというのは忍耐強く無い米国が発祥の地であることも納得できるように思う。

因みに、著者は人事の役割で昨今話題の「戦略パートナー」についても二律背反的な考え方を否定し、「職場の守護者(Employee Champion)」としての役割を無いがしろにした「戦略パートナー」を否定している。これは私が以前から主張している「戦略パートナー」や「変革のエージェント」の役割に注目するのは尤もだが、「組織の良心」としての役割を忘れてはならない、ということと本質的に一致している。

さて以前からNo Rating、すなわち従来型の年次考課を止めることに対する疑問として、報酬はどのように決定するのか、という疑問の他に、昇格や昇進など年次考課以外の機会での個人の評価はどのように決めていくのか、という疑問があった。昇給のための年次考課が無いからといって、昇格や昇進の決定は必要な訳で、それはどういった評価で判断するのか?という疑問である。

これまで見てきたように、GoogleやAdobeといった会社で年次考課を縮小したり中止したりしたとしても、組織に在籍する限り個人への評価は免れない。これは年次考課が報酬予算に制度的に制限されていることと同じで、ポジションへの登用という行為がある限り個人への評価は形こそ変われど引き続き存在する訳だ。その目的が昇給のためだけでは無いということだけだ。

年次考課をやめた会社でも人材育成のためにより頻度の高い1on1 Meetingを義務化するなど上司と部下のコミュニケーションをこれまで以上に深めようとしている。

結局年次考課を無くしたとしても、こういったコミュニケーションや組織内での人間同士のやりとりが登用における人材評価のベースとなる、ということなのだろう。

(本記事の内容についてご意見や実際の企業実務についてより詳しくご相談されたい方はこのリンクからコンタクトください。OKRやCFR、そして目標管理と人事考課の導入についてお手伝いいたします。)


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