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完全な青色の空と『キリエのうた』。

そして先日はね、映画館にて
岩井俊二監督の音楽映画
『キリエのうた』を観てまいりました。
上映時間178分、約3時間のすべての時間が
綺麗と申しますか、美しいと申しますか、
なんだかうまく言えないけれど、素敵な映画でした。

映画が終わり映画館より外へと出ると、
空には完全な青色が広がっていて、その光景は
空気が澄み渡っているようで清らかだったなあ〜。

映画を観ながら、この作品では
大震災がテーマになっているので、
及び、映画を観た日が3年前に亡くなった
父の命日と近いこともあったため、
「死」についてのことも考えていたり、
また、この逆を言えば
「生きる」のことを考えておりました。

ここからはすこしネタばれ込みでしるしますが、、

アイナ・ジ・エンドさん演じるキリエ(路花)が、
歌を歌うことに対して
【歌しか歌えません】と言うのは、
凄いことだなあ、って思うのですが。
でも、たとえば、作品を作ったり、
もしくは、表現を行うようなときには、
「そのことが好きだから行う」というよりかは
「それしかできないから行う」のほうが、
動機として強い、と申しますか。
このことで言うと、たとえば以前にね、
漫画家に成りたいと言われていたお知り合いが、
でも、漫画を描くのは難しいから
小説を書こうとする、というふうにも言われていて。
ぼく自身は、漫画も小説も素人なので
偉そうなことは言えないけど、でも、そういう姿勢って
漫画にも小説にも失礼だなあ、と感じてしまって。
つまり、彼にとって漫画は
「好き」なのだとは存じますが、でも、彼は
「漫画しか描けない」という状況ではなかった。

「それしかできない」という状況とは、
ほかのことは何もできないけれども、
そのことだけはできる、ということで。
このことについて、ぼくは
じぶんの想像でしか語れないですが、
たとえば、どんなことでも器用に
こなすことができる人の表現と、
そのことしかできない人の表現とでは、
後者の表現のほうが強いのではないか? と感じる。

そしてまた、もしかしたら
「それしかできない」人が行う表現とは、たとえば、
映画『キリエのうた』のキリエ(路花)のように、
できない部分はいろいろな人に助けてもらいながら、
かつ、いろいろな人に導かれながら、その表現を
行ってゆくところもたくさんあるのだろう。

そう考えてみるとね、ふつうは
「できない」ということが、
よくないとされるけれども、逆に、
「できない」からこそ
「できる」ことがある、とも言えるやもしらない。

また、映画を観た前日はDVDで初めて
『ドライブ・マイ・カー』を観たのですが。
このふたつの映画の共通項として、
場所から場所へと移動することだと感じました。
『ドライブ・マイ・カー』では
「広島」から「北海道」へと、そして、
『キリエのうた』では
「石巻」「大阪」「帯広」「東京」と舞台がさまざま移ってゆく。
とくに、どちらの作品でも登場する北海道の景色は、
寒くて、冷たくて、白くて、孤独で、でも、
あたたかみを感じられるようだった気がするなあ。

そんな雪の上で寝転がりながら、
ぼくも、オフコースの
『さよなら』を聴きたい。。。

さよなら さよなら さよなら
もうすぐ外は白い冬
愛したのは たしかに 君だけ♪

令和5年11月3日

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