『nosh』のチリハンバーグステーキを食べた。

人生初の宅食サービスが届きました!
「未知のものを食べる」ことに3歳の頃から怯えきっている私なので、あまりにも緊張しすぎて、宅食が届いても数日間は冷凍庫にしまいっぱなしで手がつけられない日々がまず続きました。
開封するより前に、公式ページのメニューの写真や紹介文をよーく見て読み、情報を得ることで恐怖が和らがないか試してみたり。料理のまったくできない私にはなにも分かりませんでしたが…
…が、これまでの人生で発見した、数少ない自分でも食べられるもののひとつが「柔らかい食感のハンバーグ」で、
noshさんの「チリハンバーグステーキ」は、選べる数あるメニューの中でも一番人気なんだそう。
きっと確実に、noshさんのどのメニューよりも私にとってこれはハードルが低いはず。
高難度メニューから挑んでさっそく食べることに挫けるのを阻止するために、届いた6食のメニューのうち、まずはこの一番難易度の低そうな「チリハンバーグステーキ」から食べてみることにしました。

食べた感想:(なんと)美味しかった!!!

(なんと)って意外そうなニュアンスで括弧で書いてるのは、いろんな意味で人生で初めてかというくらいの「美味しい」体験だったからです。noshさんのお料理のお味に最初から期待していなかった的な意味合いではございません。笑

結論だけまず書くと、

主食:チリハンバーグステーキ → とっても美味しかった!☆☆☆☆☆
副菜:彩り野菜 →  やや苦手な味。なんとか食べ切った☆
副菜:なすのバジルソース →  すごく美味しかった!☆☆☆☆
副菜:そら豆のポテトサラダ →  すごく美味しかった!☆☆☆☆


勇気を出して食べる。


まず、主食のチリハンバーグステーキから、私にはけっこうな勇気のいる挑戦でした。
人生でデミグラスソースのハンバーグしか食べたことがなく、チリソースとはいったい何からできたなんのソースでどんな味がするのか、辛いのか甘いのかしょっぱいのか、ざらざらしているのかとろとろしているのか水っぽいのか、なにもわからない!!!
その何もわからない人生で初めて対面したソースがこれでもかというほど満遍なくハンバーグにかかっている!!
そしてハンバーグの横には間仕切りもなく私の苦手な野菜・ブロッコリーがぎっしり添えてある〜;;ヒィィ

とにかくもう腹を括って、「このさいハンバーグの切れ端と一緒にブロッコリーも咀嚼してみよう…!」と、勇気を出して口に入れてみました。
そのまま、幼少期から避けがたかった数多の食事シーンを乗り越えてきた「大量の飲み物といっしょに丸呑み込みする」を、やってしまいたいのを堪えに堪えて、こわごわ、ゆっくりと口の中で咀嚼して味わってみました。
すると、なんと口の中に思ってもみなかった調和が生まれました。
これまで食べてきたデミグラスソースのハンバーグより辛さの強いチリソースの、その辛味を、ブロッコリーがまろやかでコクのある深い味わいにしているような……!?
ブロッコリーって、単体で味付けせずに食べると、あんなに青臭くて苦みもあってもしゃもしゃした食感が気持ち悪くてとても食べられたものじゃな買ったのに、これは一体……!!

なんで「料理」しちゃうの?

これまで自分は、なにか初めてのものを食べる時はまずそれぞれの素材の味がはっきりしっかりわからないと怖かったので、別々の食材や料理を同時に口に入れて咀嚼するなんてことはほとんどしたことがありませんでした。
なので「ブロッコリーは生野菜で食べてみたことがあって、どんな味かも知っているし、そのときブロッコリーの味は好きではなかった。だから、そのブロッコリーが入っている料理は、すべて私は嫌いなはずだ」とも思っていました。
だからこれまでの人生でブロッコリーが入っている料理を勧められると、頑なに拒否してきました。

これはメニューの話から少々ズレる話題なのでここでは軽く触れるにとどめるのですが、私には発達障害(ADHD)があります。
心理士の先生によると、私の発達特性のひとつとして「一つのケースがだめだったら、似たようなすべてのケースもだめだと決めつけてかかる傾向」があるそうです。
そういう発達特性も、私が新しい食べ物に挑戦していくことを妨げていたかもしれません。ブロッコリーの料理をすべて拒否してきたような具合に。

兎にも角にも、このチリハンバーグステーキとブロッコリーの調和によって「料理とはこういうことだったのか!」という、深い感銘を生まれて初めて得ました。
「素材の味がわからないと怖くて食べられない=なるべくあれこれ混ぜられていなくて味つけのされていないものしか食べられない」というところで自分の食文化が停滞していた私にとっては、あれこれ調理して混ぜる「料理」が、そもそもずっと意味不明な行為でした。(生育環境などにも問題がありました)
「料理」されたものを美味しそうに食べる人たちのことも、まったく理解できませんでした。その長きに渡る疑問がようやく解けて、憑き物が落ちたような気持ちになりました。

あの「野菜」が、美味しい……!

食べられるものが非常に少なかった私ですが、基本的には子ども舌っぽいというか、お子様ランチにあるような味の食べ物なら、条件が揃えば食べられました。
カレーライス、オムライス、ハンバーグ、ラーメン、うどん、唐揚げ、フライドポテト、洋菓子、など。
そして野菜類がとにかく苦手でした。
特に、ニンニクやネギのニオイと食感が苦手で、ニンジンやタマネギやニラやオクラ、ピーマンなど、野菜は全体的に食べられませんでした。
3歳の頃から今までずっと野菜を食べずにきたので、私の身体の栄養バランスは大変なことになってると思います。
それくらい食べられなかった野菜ですが、noshさんのメニューについてくる副菜は、とっても美味しい……!!
食べる前にメニューの説明を読みましたが、「なすのバジルソース」に「そら豆のポテトサラダ」………
「なす」も「そら豆」も「ポテトサラダ」も私は好きではないし、「バジルソース」に至っては食べたこともなく、味も匂いも分からない謎の不気味なソースでした。
けれどどれが何だったのか分からないままとにかく食べていったら、いつの間にかすべて美味しく完食できていた…… 一体何が起きたんだろう?!


「耐えて食べる」ではなく「美味しく食べられるように工夫する」?

私はこれまでずっと、
「世間のみんなは不味い食事に耐える訓練を、幼い頃から日々の食事で厳しく積んできたんだろう。その結果、不味いものをいつどのタイミングで誰から差し出されたり勧められても難なく耐えて食べられる胆力をつけたか、あるいは味覚を少し鈍麻させたりして、さまざまな味への耐性を得てきたんだろう」
「だから自分は、みんなが通ってきた不味い食事に必死に取り組むという過酷な努力を怠ったまま今も逃げつづけている怠け者で、どうしようもなくわがままな人間で、食べられないことで苦しんだり病気になっても、ただの偏食の自業自得と謗られるのは仕方ないんだろう」
と、ずっと自分が食べられないことを自分で責めて生きてきました。
でも、noshさんの美味しい副菜を食べながら、考えが少し変わってきました。
少なくともnoshさんのメニューは、「偏食の私でも食べられるように工夫のなされた特別なメニュー」などではなく、多くの人が手にとって食べても美味しいという評価がもらえる、ごく一般的な感覚でいう「美味しいメニュー」のはずで…
美味しそうに躊躇なくなんでも食べている人たちは、みんながみんな、私が想像していたような厳しい食の修行を「耐える」コマンドひとつで乗り越えた境地に立っている、わけでは、なく……みんなが美味しそうに食べている食事って「美味しく食べられるように調理された」食事だったのかもしれない?
これは私にとって、とても素朴で重要な疑問でした。

家庭環境で歪んだ「食」認知?

また少し話が逸れますが、”生育環境などにも問題があった”と、軽く書きましたが、
私の生まれ育った実家では、家族全員が私とまったく異なる味覚のものを揃って好んでいました。
実家で出る食事は、家族にとっては美味しいもので、私にとってだけずっと「とても食べられない不味いもの」でした。
私は13歳ごろから病気もしていて学校に通えず、当然親しい友達も少なく、ずっと実家に閉じこもって暮らす日々だったので、給食や友人宅で振る舞われる食事などの「実家の家族の料理以外の食事」を、まったく知らずに生きてきました。
そこから数多の困難の末にようやく実家から出て、現在は一人暮らしとなりまして、料理のできない私は途方に暮れて、このたび宅食サービスにもお世話になることとなったのですが……。

私は運悪く味覚が合わない家族のもとに生まれてしまい、その狭い味覚世界を「食」の基盤に据えて長く生きたせいで、食への認知がここまでひどく歪んでしまったのかもしれません。
なんにせよ、この宅食がようやく巡り会えた自分にも合った料理で、食事で、味覚世界で、私の場合は宅食サービスをきっかけに知ることになったけれども、
みんな不味いものに我慢などせず、むしろ大人になっていくにつれて、好きなように調理して自炊したり、好きなものを買って食べたりして、自分に合った無理のない食生活を自由に選択して生きていっているのかな、と、想像したり。
あくまで想像であって、自分はやはり平均よりかなり食べ物を選り好みする味覚・触覚をしているだろうな、とも思いますが…。

料理・調理するって、すごい魔法だ。

話があれこれ飛びましたが、今回宅食サービスを食べて思ったのは、料理する、調理する、というのは凄まじいことだということで。
それまでは、とある人にとってはまったく食べられる可能性のなかったものを、食べられるように変えてしまうわけですから。
私にとっては毒水を美味しい飲み水に変えるような話です。私ほど食に抵抗がない人なら、これは毒水ではなく泥水くらいの感覚になるのかな。
とにかくそこには、食べられる/食べられない、という極端なふたつが横たわっていて、間違いなくそれは人間の生死に直結する喫緊の可能性です。 自炊してうまく自分の好きな味の食べ物を作り出せる人というのは、生き延びる可能性と、その可能性を豊かにする能力を持っている、料理のできない今の私にとっては魔法使いです。
そんなふうに生き延びるための選択肢を常に多く幅広く持っていたら、日々の生活から所作のひとつひとつにまで、優雅な余裕が滲むことでしょう。摂食が幸福になるって、奇跡です。
これから私も料理ができるようになっていきたいなぁ。
創意工夫で楽しく生きる道を拓く、それが料理だったのか……。



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