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コロナの前と後のわたし ♯1

コロナで子供たちの学校が休みになり
時間が止まった3月。

コロナになったら大変だと思いつつ
心はなぜだかワクワクしていた。

自分でもなんなのか分からないその
ワクワクをじっと観察してみると...

家族の時間が止まり自分の時間も
止まっているその静けさが心地いい
ことに気がついた。

思えば長男が小学2年生の春
「野球をやりたい!」と言い出し

2019年の夏までの10年間
野球づくしの日々だった。

休みは年末年始とお盆だけ。
野球を中心に全てが回るという生活。

初めは楽しくこなしていたものの
年数が経つにつれ体も劣るし心も
病み始める

小学生の頃は月火水は休みで
木金土日は野球だった。

木金はグラウンドへ出ていって
4時頃から7時まで子供たちを眺める。
コーチや監督のお茶出しなど
いろんな仕事があった。

土日は朝の6時頃から夕方5時頃までは
試合や練習の日々...

時間は短い時もあるけれど
1日を拘束されることに変わりはない。

月火水の休みには週末に溜まった
疲れをひたすら癒す。

水曜日あたりから野球関連の
FAXやメールが来て週末の当番が
決められる。

長男が小学3年生の時には
1年生になった次男にも野球を
薦めてしまい

次男と長男の野球のスケジュールが
ピッタリ合う訳では無いために
お弁当作りや車での送迎の休みは
お正月の何日間だけだった。

月日は過ぎ長男の高校での野球も
無事に終わっても次男の野球は続く
わけで...

セッセとお弁当作りは休みもなく
続いていたそんな時に起きたコロナ
での緊急事態宣言。

朝の早起き、お弁当作り、車での送迎
泥汚れの洗濯物、ジュースなどを買う
ためにガチャガチャと出ていくお金...

仕事のミーティングが無くなり
自分の習い事のテニスと書道
お化粧の習慣、身だしなみ
忙しい毎日がピタリと止まった。

頭が停止しているのが分かった。
考えることが無くなった心地良さは
何歳の頃まで戻る感覚なのだろう...

知らないうちに頭も体も心も
疲れ切っていたのだとその時に思った。

わたしは習い事もしていた。
リフレッシュのためのテニスだけど
全てが止まって行けなくなった時
少しほっとした。

好きでやっていると思っていること
までも無理をしていたことに気がついた。

頑張って頑張って頑張って頑張って
頑張り抜いて生きていたんだなぁと
しみじみ思った。

もうひとつの気づきは子供が家にいる
幸せ。

2人とも野球をしていると帰りが
バラバラで夕飯もバラバラ。
朝ごはんももちろんバラバラ。

子供たちが家にずっといるということ
は年末年始とお盆の休みが重なった時
だけだった。

朝ごはんを作っても子供たちがいる。
お昼ご飯を作っても子供たちがいる。
夕飯を作っても子供たちがいる。
おやつを作っても子供たちがいる。
お土産で美味しいパンを買っても
子供たちがいる。
ひたすらゲームをしている2人を
見ているのが楽しい。

そのうち忙しい毎日の中忘れていた
感覚が戻ってきた。

「子供たちが大好きだ」
「なんて幸せな環境なんだろう」
「勉強なんか出来なくてもいい」
「健康であればそれでいい」
「ゲーム三昧 バンザイ!」
「楽しければいいじゃないか!」

忙しくない毎日になって心にゆとりが
出来た時こうしなければならないと
いう現実が消えて本当に大切なことに
アタマが回り出した。

心の底から幸せを感じた。

このまま学校の休みが続いて欲しいと
さえ願ってしまうほど子供たちとの
時間は私にとって幸せそのものだった。

今までのイライラは子供たちに
イライラしていたのではなく
忙しすぎる毎日に嫌気がさして
イライラしていたのだとわかった。

コロナは今もじわりじわりと続いて
いてたくさんの人達が辛い現実と
向き合っている

コロナは悪なのか善なのか...

少なくとも私にとってのコロナ騒動は
大切なことに気づくことが出来た
人生初の大事件だった。

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