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【エッセイ】認識について

 今、同じ場所で、私が見ている赤いコップと、あなたが見ている赤いコップは、本当に同じ色だろうか。
 対象の色を言葉でこれは「赤」と決めてしまっているから、同じ対象であると通じるのではないか。人それぞれの知覚に若干の個人差はあっても。この色の特定のように、認識とはある程度の幅のあるパターン(ルール)で人間の見方をくくっていることだと思う。言葉で。人のあいだの中での認識を。だから、同じ対象を他人と共有することができ、会話が成り立つ。そこには人為的な秩序がある。文法という骨組みの秩序がある。それはその国の言葉の文化と言ってもいい。なので、人間は言語的動物であり、かつ、社会的な生き物である。一人では生きていけない所以である。ある対象を互いに特定できるから、同じ土俵に立つことができる。赤いコップのようなその同じ対象を皮切りに、例えば「この赤は似合っているかどうか」といった、共有、対立、和解などの物語が生まれる。物語という議論や対話が。
 近しい関係だから共有や対立が生まれる。全くかけ離れた立場の関係では、共有や対立は生まれない。相撲の力士と野に咲く花とでは、力士も花も相手にせず少なくとも対立は起こらないだろう。力士同士だから対立も起きる。得てして対立は同じ土俵で起こる。
 とにかく、認識は色に限ったことではない。抽象的な概念も人間は共有することができる。「懐疑」という概念もそうである。先ほど、私とあなたの「赤」を疑った。実は違うかもしれないと。
 この懐疑、やはりデカルトを思い出す。デカルトはあらゆるものを徹底的に疑った。数学の真理も疑った。これを「方法的懐疑」という。方法的懐疑とは、確実な真理を得るために、方法として用いられる懐疑。偏見や感覚的経験にもとづく誤りを排除するために、あらゆる物事を疑った上で、疑いえない真理を獲得しようとしたデカルトの方法。あらゆるものが疑わしく確実な真理はない、とする懐疑論とは異なる。
 そうして行き着いたのがあの「我思う、故に我あり」である。これはデカルトの哲学の根本原理。方法的懐疑により一切のものを疑った上で、もはや疑いきれない確実な真理は、そのように疑っている私自身の存在であり、ここに「我思う、故に我あり」という原理が直観的認識として確立する。
 デカルトは徹底的に疑ったが、その先には確実な真理があると思っていた。真理は本当にあるのだろうか。これは私もあると信じたい。私がデカルトと違うのは、自身の感覚で真理が見え隠れすると思っているところにある。デカルトは感覚的経験による誤りを排除したが、私は感覚的経験にも真理はあると思っている。例えば、野球で投手が投げた球を打者がホームランにする。このホームランという結果は疑いようのない真理だと思う。この打者が球をホームランにする一連の感覚的経験は、ホームランという結果が出た以上、正しい真理だろう。ホームランという特別な結果を出すための打者の感覚的真理。これは一瞬の出来事だが、確かにその感覚は存在した。打者の手応えの認識として。この打者のホームランの手応えは、心地良い感覚の真理なのだと思う。


【参考図書】
濱井修・監修『倫理用語集』山川出版社、1986

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