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中国人の餃子から学んだ価値観 その2

前回のお話のつづきです。まだの方はぜひこちらから↓

さて餃子パーティーは大いに盛り上がって終了しました。誰よりも食べたくせに私はずっとがっかりしていました。

この話で何が言いたいかというと、

① 私は頭の中で、「これぞ中国4000年の味の秘密」というような、山の中の仙人が持つ宝物ようなレシピを「勝手に」期待したのでした。つまり完全に一方的な思い込みでチョウさんの美味しい餃子ををジャッジして拗ねていたという。若かったし、まだまだ浅かったのです。

② 25年前、黒竜江省というあまり裕福な地域でもなく、またお金持ちでもなかったチョウさんは、本人曰く拾った鉛筆とNHKラジオで日本語を勉強し、助産婦をして一生懸命にお金を貯め、30過ぎてようやく日本に来れたのでした。彼女にとって餃子はただの日常的ご馳走で、手早く合理的に、皆んなが美味しいと言ってくれるレシピこそが至上のレシピだったのです。

中国4000年のレシピ?そんなの経済的に豊かな日本人大学生の、ヒマに任せた理想でした。彼女はアルバイトに日本語に、ゼミのレポートもある。故郷では日本からのちょっとしたお土産を、目を輝かせて待ってる友人や親戚がいる。(その頃日本はチョウさんの周りでは憧れの国だった)彼女は、とても忙しいのです。

私はこの経験から、私の考えていた国際交流って、「経済的に裕福な欧米人との文化交流」を指していたのだと気が付かされました。本当の国際交流は、もっと生臭く、自分を問われる作業でした。

その後、幸運にも交換留学生として大学からアメリカに派遣される機会があったのですが、そこでは東南アジアからの移民の必死さを再度目の当たりににすることになります。

ギリギリの生活。祖国を捨てアメリカに賭けた意気込み。大学からの派遣生で一切の金銭的負担を免除された、そもそも豊かそうな日本人の私は、彼らの目にどう映ったでしょう。

ある時ラオスの学生が目を輝かせてトヨタ自動車のことを聞いてきた時、彼の祖国の場所も首都もよく知らなかった私に対し、彼は文字通り目を伏せて失望していました。

自分が彼にとっての初めての日本人になるのかと、大いに反省したのでした。お茶する前になぜ、ラオスのことや日本とのつながりを調べなかったのか?言い訳になりますが、当時はスマホなどなく、Eメールも出たてだったので、調べるには図書館に行くしかなかったのです。

というわけで、私にとって国際交流は、常に己の知識の浅さを謙虚に受け入れ、相手の価値観を通して己の無知を埋めてゆく、そんな作業です。

そして、それが私という人間の深みを増してくれたのは間違いありません。外国の方との交流には、いつも何かしら学びがあります。

ここまでお読みいただき、誠に有難うございました。
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