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愛しているから離れていくということ

世の中には人が離れ離れになるという物事がたくさんあります。
それは恋人との別れや、結婚相手との離別、大切な家族との別れ、大切な友人や、かけがえのない人とのサヨナラなど、出会った人の数だけ、それはいつしか訪れるものだと思います。
愛し合った恋人との別れには、感謝や笑顔なんてないと誰もが言うし、大切な家族とのお別れにはその逆の、敬意や感謝がたくさんたくさん詰まっていると思います。
けれども、なんらかの物事が原因で誰かと「離れざるを得なかったとき」に、どんな感情を抱くのかといえば、お互いが決めて別れるときや、相手の命が尽きたときの離別とはまた違ったものだと思うのです。
例えば相手が莫大な借金を負って離婚をして離れざるを得なかった場合や、親子が互いに抱える精神的な問題を解決するための別れは、離れるということを選ばざるを得なかったという、ほろ苦いものがあると思います。

私はそんな別れを、2回経験しています。
1度目は元夫との別れ。
彼はいろんな意味でルーズな人で、仕事の締切を守ることはまずないし、さまざまな支払いも守ることがなく、借金を踏み倒すとか、家賃を滞納するとか、そんなことは日常茶飯事の人でした。
何度となく、私はそれを注意していたものの、性格的なものなのか、または精神的な障害なのか、ともかくそういうことを守らない人で、最終的には住んでいる家の家賃を長きにわたって滞納し、強制執行が入るという事態になり、そうしたことを任せきりにしていて、何も知らなかった私はすごく驚いて問い詰めたけれど、反省の言葉は帰ってこなかったのです。

それで、このままだと自分も巻き添えになってしまうとまず考えて、離婚をすることにしたのだけど、彼は私がそれでも彼についていくと思っていたようで、収入証明をでっち上げて部屋を借り、この部屋ならいいでしょうと、嬉々として案内してくれたとき「ああ、これはダメだ」と思ったのを思い出します。

ともかく逃げよう、ひとりになろう、と思って、当時仕事も大してしておらず、体調も良くなかった私は、友人に付き添われて福祉事務所で生活保護を申請し、シェルターのような寮に仮住まいをすることになりました。
寮のケースワーカーさんと面談をして、成育歴から直近のことまでを話し終え、部屋の鍵をもらって部屋に入って扉を締めたとき、泣いたのを今でも昨日のことのように思い出します。
その後も元夫との関係は悪くはなかったけれど、相変わらず「お金ないでしょ、あげようか?」とか言ってくるので、これは良くないと思い、敢えて彼を突き放すことにしたのです。
そのまま彼に頼っていたら、この共依存のような関係はずっと続いていくと思ったし、このままではお互いがダメになってしまうと思ったのが一番の理由です。
彼のことは愛していたし、愛していたからこそ見えなくなっていたこともたくさんあったことを、離れてみて初めて知りました。
彼の犯した間違いを、肯定こそしなかったものの、黙って見逃していたことや、その関係に甘んじていたことは、決して褒められることではなかったし、自分にもできたことがあったはずだなと今は思えます。

もうひとつは母との別れです。
母と私の間には、幼少期から続く問題が横たわっていて、それがこの間、ようやく離れるという決断に至った感じです。

母は実父と離婚したとき、私や弟を周りの親戚や友人に預けて、母としてではなく女として、新たな恋に身を委ねることを選んだのですが、2年ほどして落ち着いた頃に、弟だけを引き取って3人で新生活をしようとしていました。
私が預けれられていたのは父方の実家だったのですが、父方の親戚が母方の祖母のもとに「このままだと本当にまずい」と私が虐待されていることを知らせたことをきっかけに、それはあまりにもひどい、ということで引き取ることになったのです。
満足な食事はおろか、お風呂にも入れてもらえず、成長した体には小さすぎる服を着て、およそ身ぎれいという言葉からはかけ離れたところにいた私は、友達をつくることもできず、家に閉じこもって生活をしていました。
その頃の「親から捨てられた」というスティグマが未だに私の中にはあり、また、祖母から受けた虐待が原因で人の顔色をうかがって行動する子どもになっていて、大人から怒られたり怒鳴られたりすることに極端な恐怖感を覚えるようになっていました。
実父に連れられて東京の大伯母の家に行き、お金のない実父に大伯母が札束を積んで、これで手放してほしいと怖い顔で実父に迫っていたことが、今でも鮮やかに蘇ります。その場にいた母はずっと泣いていました。

その後もいろいろなことがありました。母はとてもヒステリックな人で、何かにつけ子どもを怒鳴りつけるタイプだったので、私はそのたびに萎縮していました。子どもの自分からしても、理不尽なことを言われることが多く、これが夢だったらいいのにと寝る前に何度も思い、住んでいるマンションの窓から飛び降りたら死ねるだろうかと小学校に上る前から考えているような子どもでした。いわゆる機能不全家族で、常にいろいろなことに引け目を感じながら育ち、ともかく早く家を出たいと、そればかり考えて育ちました。

自分に精神的な問題があると気がついたのは25歳のとき。どうにも生きづらいのはそうした生い立ちのせいかもしれないと、友人のカウンセラーを介して知ることがあったことがきっかけでした。カウンセリングを受けて、自分が自分自身を生きていたのではなく、母親が理想とする母親自身を私が代わりに生きていたことに気づいたときは、心の中に大きな穴がポッカリと空いてしまったのを覚えています。

母とのことが問題として表面に出てきたのは、30代になってからのことです。仕事の関係でうつ病になり、治療を勧めていくうちに寛解が近づいた頃、母とのいろいろなことがフラッシュバックするようになり、また症状が悪化してしまったことに発端があります。

それをきっかけにPTSDや親子問題に強いカウンセリングルームに通うようになり、カウンセラーから「できればお母さんもカウンセリングに通った方がいい」と言われ、そのことを伝えると「そんな風に思われるくらいなら死んだと思ってくれたほうがマシだ」と言われ、それが発端となって連絡を取るのを止めることにしたのです。その時初めて、私は母に捨てられたのだと思ったし、最初に捨てられたのが父方の実家に預けられたときで、私はまた再び母に捨てられたんだと、絶望的な気持ちになったのを覚えています。

でも、母はいろいろ私のことが気がかりだから、何かにつけて私に連絡をしてきてしまいます。そしてそのたびに私は精神的に不安定になる、という繰り返しの中、先に書いた夫との離婚があり、ひとりになりました。
彼は彼で、常にイライラしているタイプの人で、それに触れているのがかなり辛かったのを思い出します。
「お願いだからイライラを物にぶつけたりしないで。舌打ちをするのをやめてほしい」と何度となく請うたのですが、それが変わることはありませんでした。

ひとりになって、元夫や親とも離れ、精神的に徐々に安定してきたなかで、子供のようにかわいがってくれた伯母が若くしてがんで入院し、闘病の末に亡くなったのですが、何度となく足を運んだ病床で、やはり母とのことを聞かれました。「このままで本当にいいの?」と。
でも、どんなに考えても「死んだと思ってくれたほうがマシ」とまで言われた自分は、親に歩み寄るのが難しいと感じました。
「このままでいいと思ってる」と伯母に話すと、「いつまでもひとりでいいの?ひとりはなんていうか、怖いよ」と、家庭をもつことのなかった伯母に言われたことが、今でも印象に残っています。ひとりが怖いということが、私にはまだよくわかりません。いつか理解できる日が来るのかもしれません。

その後母からは、伯母の形見が送られてきたりすることで接点を持つくらいで、それに添えられた手紙を読むと体調を崩す、という日々が続いていました。遺品もひとしきり送り終えると連絡はなくなり、それでもなぜか、LINEに母の名前が表示され、友達ボタンをタップするかどうか、長いこと迷う日々が続きました。

再び連絡が来たのはコロナ禍のはじめの頃のこと。マスクはありますかと手製のマスクが何枚も送られてきたことでした。
ありがたいけど、私にとっては心が痛くて、今後どうやって接するのがいいのか、また、返事はするべきなのか迷い、主治医に相談したりして、結局連絡をその時はせずに済ませてしまいました。

私の方からアプローチをするようになったのは、コロナ禍で友達にプレゼントを送ったりするようになったことがきっかけでした。
友達とコロナ禍で飲みに行ったりできなくなったぶん、おいしいものでも贈ろうというのがそもそものきっかけで、飲み代に比べれば安上がりだし、みんなで楽しくできるし、というので、ずいぶんもののやり取りをしたのです。
そこで、母にも送ってみよう。ものを送るだけなら大丈夫だろうと思いついたのです。
母の日の鉢植えに始まり、季節の果物やおいしいものを送ると、母からLINEが来る、という感じで、こんなふうにささやかな形なら、細い繋がりができるのではないかと思いました。

でもある時、私がちょっとお金に困ってしまって、それとなく母に相談したときに「私のところに預けてある絵を売ったら?」と言われ、相場は決して高くなく、大した額にはならないらしいよ、という話をしました。
それは私が20代の頃に買った美しいシルクスクリーンで、28万円くらいで購入したものでした。元夫と離婚するときに部屋には置く場所もないしといったら「私が買い取ってあげる」と母が20万円を出してくれたものでした。
だからそれを「売ったら?」と言われることに少し戸惑いを感じつつ、それでもないよりはいいと思って売ることに決めたのです。

しかし、私は母と実際に顔を合わせるのはやはり不安なので、出張買取の業者をお願いしました。すると、母が「こんな重たいもの年寄りが出すのがどれほど大変か。自分で出して見に来てもらうのが筋だろう」と怒りをぶつけてきたのです。しかも「あのとき払ったお金のことだってあるのに」と。
いや、お母さんが提案したから私はそうすることにしたのに、なぜそう言われるの?と戸惑いました。全部対応をやらせるのは申し訳ないけど、自分で提案したんでしょう?と伝えると、「私と会いたくないのはわかるけど、いつまでもあなたは被害者で、私は加害者なの?」と言われました。「私だってあなたと連絡を取ると体調を崩すのよ」と。
それでもう、これはやり取りをしてもダメだと感じて、「もうやめましょう。お互いに傷つけ合うために連絡を取っているわけでもないのにそうなるのはあまりにも馬鹿げている」と伝えました。
モノでしか繋がれない細い関係ですら、繋ぐことができなかったのです。

私は母を愛しているから、私のことを理解してほしいと思うことはわかっていたし、だからこそ、母にも母自身と向き合ってほしかったけれど、それは望むべくもないことです。傷つけ合わずに済むたった1つの方法は「連絡を今後一切取らない」ということだけなのです。母を愛しているから、もう傷つけたくないし、私も傷ついて嫌な思いをしたくない。ただそれだけのこと。

連絡を取らなくなって数ヶ月。
インスタでのみつながっている弟の投稿で、母が入院をすることを知りました。
その内容から察するに、おそらくがんの再発なのだろうなと思いました。もちろん、私には何も知らせては来ません。
今はただ、心穏やかに毎日を過ごしてくれればということだけを考えています。いつかは訪れる今生の別れも、決して遠くはないのかもしれないと思うと、なんだかチクチクと心が痛みます。
でも、きっと会うことはできないと思います。お互いのためにならないからです。会うことがあるとしたら、母からどうしてもと呼ばれたときになるのではないかと思っています。

心のなかで弟夫婦に「よろしくね」とつぶやいて、インスタの画面を閉じました。誰もが心穏やかでいられる毎日が少しでも長く続きますように。

連絡を取ることはなくなったけれど、LINEはブロックすることもされることもないまま。
いつか通知が来ることもあるかもしれないと思いながら、そのままにしています。

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