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【コラム】CDは本当に無用の長物か

CDなんて売れないよ!と誰かが言った。

時代が変われば文化が変わる。文化が変われば世相が変わる。世相が変わればモノが変わる。

CDもそのうちのひとつ。一昔前は、やれミリオンやれダブルミリオンと、ヒット曲が出ればニュースにさえなっていたのに。音楽番組はなりを潜めとかくミュージシャンには厳しい世の中だ。

かつてアナログレコードやテープがそうであったように、なくしてほしくない!と抵抗されながらも、慣れとはおそろしく今や何の違和感も感じなくなり、ダウンロードサービスが主流になっている。

そんな中、時代に逆行するように私はCD派。そりゃあダウンロードサービスを利用することだってある。でも、本当に好きと思うアーティストの曲はCDで持っていたい。開封するときのわくどき感を味わいたい。

それはなぜか。

CDはただただ曲を聴くための「手段」というだけではないからだ。

私はライブに行くとよく物販に並んで演者の方々に感想を伝えるのが好きなのだが、そこで思うことがある。
例えば沢山のアーティストがいるライブに行ったとしよう。お目当てのアーティストを見に行ったのに、対バン相手を気に入ることがたまに…いやよくある。笑

そんなとき、もしCDがなかったら?

おっいいなっと思っても、さっきやった曲聴きたいなと思っても、CDがなければ

「んー、じゃあいいや」

と「想い」が途切れてしまう。逆にその日やったセトリの曲が入ったCDがあれば、「想い」をつなぐことができる。次のライブまでの間それを聴けばライブを思い出すし、思い出せばまたライブに行きたくなる。哀しいかな、人の興味はそんなに長続きはしない。丹念に息を吹き込み続けなければならないのだ。そこからダウンロードサービスへたどり着いてくれるなんてラッキーパンチ。そもそも、そこまで好きになった人なら何が何でもCDを手に入れるだろう。

ここからは、私の所感なので聞き流してほしい。

CDは、単なる音の流れる円盤だけの存在ではない。いつまでも眺めていたくなるジャケット写真のアートワーク、爪の痕がつかないようにそーっとめくる歌詞カード、期待とともにふるえる手でコンポにセットするCD。

そこには作り手の人の想いが凝縮している。

ダウンロードは確かに便利だし在庫を抱える心配もないから利点があるのはわかる。なにもそれを否定するつもりはない。
だが、ダウンロードはあくまで「手段」に過ぎずデータの中に「曲」はあっても「人」は見えてこない。ミスチルの桜井和寿さんも、「音楽は単なるLとRの信号ではない」と言っていた。

ダウンロードだと利用者は曲に目がいきアーティストの方は向いてくれない。

それはダウンロードが両者にとって「手段」でしかないからだ。

もしミュージシャンがCDを不要と思ってしまっているとしたら、それは単にCDが宣伝のための「手段」に成り下がってしまっているからではないのか?

考えてもみてほしい。安くないチケット代を払い、グッズを身につけ、瞳を輝かせてステージを見上げる。その行為は単なる「音楽を聴くための手段」としてライブに来てるわけではないのだ。それぞれ曲に思い入れがあり、アーティストを尊敬し、その「想い」に触れる。それは、時代が変わっても変わるものではない。

モノは変わってもヒトの想いは変わらないんだ。

私はアーティストの奏でる曲が、アーティスト自身が作り出す幸せ空間の中で、みんな笑顔でみんな泣いてみんなで素晴らしいものを素晴らしいと讃え合う空間がたまらなく好きだ。人の想いがこもったCDを想いが繋ぎ受け取り育み昇華させていく。

CDを媒介に、想いをエネルギーに、アーティストとファンの心の永久機関は駆動する。

初めて会った人同士が物販の列に並び、CDを手にとり笑顔を咲かせている。

私はいつまでも見ていたい。

アーティストと共に見る、CDのその先の景色を。

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