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多様性とコミュニケーションコスト

放送大学で科目履修生として心理と教育コースの学習を開始したのが2016年で、その後2021年に一定数の単位を取得することで卒業扱いになる全科履修生に転換しました。
元々心理学という分野には興味があり、大学は経済学部だったのですが1回生の時は心理学関係の書物を狂ったように読みふけっていたのを覚えています。これは主に自分が何者なのかというのを理解したかったという衝動に近いもので、テンプレ化された性格診断などを通じて自分という枠組みを捉えていったのかもしれません。他の人のことはわかりませんが一種の麻疹みたいなものかと思っています。
その後、興味は金融やコンピューターに移って行くのですが、管理職として部下をもったり子育てをする過程でやはり人間というものへの興味が途絶えることはありませんでした。

長く多国籍企業勤務なので比較的同僚などで外国人と接する機会も多いのですが、暗黙の了解(前提となる、知識やカルチャー)が多く、行間を読むようなコミュニケーション方法の空気を読むことを前提とするハイコンテクストカルチャーと、一から十まで言葉にするローコンテクストなカルチャーでは当然対応の仕方は変わります。
面白いのはローコンテクストな言わないとわからないカルチャーなアメリカなんかは建前がすごく発達してしまって、メールなどでも丁寧で隙が無いのだけども読めば拒絶や否定の意図ははっきりと解ってしまうという。いかにして相手を傷つけず(言い訳の余地を残して)自分の意見を通すというのはある意味では勉強になりますw ただこれは優しさではないと思いますが。多国籍企業だと業務が海外に移転したり、機能別組織の上司が海の向こうの外国人というのは2010年くらいから見られたので、多様性やリモートならではのコミュニケーションは自分は慣れていると思っていました。
一方で日本人同士ならば通じていると思ってたやりとりが実は全然通じて無かったのだなっていうのを特にコロナ禍のリモートワークやSNSのやり取りで感じることは増えてきました。

価値観の多様化により変わるコミュニケーション

受験や就活、はたまた住むエリアで意図せずとも似たようなバックグラウンドの人間を集まる結果になりやすいので、特に新卒で入るような会社は比較的価値観の共有はできていると思います。これが中途採用で即戦力採用みたいになると最低限の学歴すら担保されなくなり、話していて「なんか違う」って感じることはありました。
昔は移動手段も限られ、物理的に違う価値観と接する機会も稀だったと思いますが、いろんな価値観を認めましょうという大合唱があるような時代で世代や教育レベルや属してるコミュニティが異なれば当然価値観には差があり、自分にとっての常識は思いのほか他の人にとっては違うというのを再認識させられます。
その相手との認識のギャップを埋めるための情報はコミュニケーションを重ねることでしか手に入らないのですが、何らかの事情で一方的にコミュニケーションを断つとその相手との関係はそれ以上はやりようはないでしょう。ましてやオンラインでのコミュニケーションでは「空気を読む」ことはとても難しいため、重要なことであれば、最低でも電話などの双方向のコミュニケーションくらいはした方が良いと思います。
最近ではリモートワークを見直そうという動きも見られますが、ただでさえ多様性が増してる状況では、組織の統制やカルチャーを作るためには物理的な移動の手間を含むコミュニケーションコストを掛けるだけの合理性があるのだと思います。
様々な価値観を認めるほどコミュニケーションコストが上がるというのもまあ当たり前な結論な気はします。特に自分と教育レベルや世代が異なる場合にはコミュニケーションコストはいくら掛けるだけ掛けても足りないのではないかと思うようになりましたし、それが人と何かをする上での面白さなのかなとも思っています。

話を組織運営に戻すならば、組織内のコミュニケーションが「ハイコンテクスト」である限り、構成員それぞれが思い描くイメージが同一になることは難しく、共通イメージをシンプルに明確化し、構成員に同じことを伝えるようにする。「ローコンテクスト」化を意識する必要を感じています。


インターネットと多様性

さて、日本人がツイッターの利用時間が世界一らしいです

前述のようにハイコンテクストな文化で育った日本人は周りと自分の意見や価値観が同じだと思いがちですが、ツイッターのタイムラインなんかも所詮は自分が選んだ観たい意見にすぎませんし、インターネット検索は自分の検索した事しか出てこず、自分の意見を強化するような結果を返してきます。
そういう自分の意見と近いフィードバックが繰り返されることで、相当に注意していても自分の意見が普通・常識だという感覚が強化されてしまうでしょう。
私のTLなんかでもタワーマンションの売買や中学受験、転職やらキャリアアップが当たり前みたいになってますが、こんなのは東京都心の奇習にすぎず、少し事情が違う人と話せば全く常識ではないことは解ります。

常識がアインシュタインの言うように18歳までの偏見のコレクションかどうかはわかりませんが、自分が経験したことや観測した範囲を超えることを理解しようとするのは非常に困難で自分一人の経験、価値観などたかが知れています。
最近のLBGT云々も歴史的にキリスト教を初めとして罪だったはずなのですが、なぜ急に市民権を得ようとしてるのかはよくわかりません。社会人としてもバブルを経験した世代と、就職氷河期世代では日本の位置づけを含めて感じ方は大分違うと思います。
まあ常識などというものはほんの数年で一貫性もなく変わってしまうようですし、ましてや自分の思い込みや価値観に合わないものを一方的に切り捨ててしまうのは勿体ないように思います。
ビスマルクが「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったらしいですが、自分とは異なる常識をもった人や文化もあるということを認識してお互いを認めて譲歩できるものなのでしょう。

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