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間章『欅坂46』から読む-フェミニズムと新自由主義

 『サイレントマジョリティ―』で、「人に任せるな」「君は君らしくやりたいことをやるだけさ」と歌い、『不協和音』では「僕の正義」「意思を貫け」と叫んだ欅坂46。
 そして『ガラスを割れ!』でも「お前はもっとお前らしく生きろ」と自由と「らしさ」を主張し続けたこのアイドルグループは、何故か活動の後半に入ると暗く陰鬱な曲が目立つようになる。

 特に8thシングルの『黒い羊』のMVからは、どうしようもない孤独と絶望が感じられる。

 以下に歌詞を一部抜粋したい。

全部 僕のせいだ
黒い羊 そうだ 僕だけがいなくなればいいんだ
そうすれば 止まってた針はまた動き出すんだろう?
全員が納得するそんな答えなんかあるものか!
反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ
みんなから説得される方が居心地悪くなる
目配せしてる仲間には僕は厄介者でしかない
わかってるよ
白い羊なんて僕は絶対になりたくないんだ
そうなった瞬間に僕は僕じゃなくなってしまうよ
まわりと違うそのことで誰かに迷惑かけたか?
髪の毛を染めろと言う大人は何が気に入らない?
反逆の象徴になるとでも思っているのか?
自分の色とは違うそれだけで厄介者か?

 「僕=黒い羊」とは「自分らしさ」を重んじ、「僕の正義」を貫こうとした誰かではないだろうか。「他人=白い羊」に任せることをせず、自分が正しいと思うものを決して曲げなかったために、どうしようもなく孤独になってしまった誰かではないだろうか。
 
 『サイレントマジョリティ―』や『ガラスを割れ!』には、確かにデモクラシーやフェミニズムといったものの可能性が十分に表現されていた。しかし一方で、対決を辞さない個人の過剰な主張が、また別の危険性を新たに呼び込んでいたのかもしれない。

 それは「らしさ」が一種の呪いとなってしまうことではないだろうか。思想家の内田樹は言う[1]。

「自分らしく生きろ」という、一見すると子供たちを勇気づけているように聞こえるメッセージは、実は本音のところでは、「はやく『自分らしさ』というタコツボを見つけて、そこに入って、二度と出てくるな」と言っているのじゃないでしょうか                         …一度生き方を決めたら、自分の「ポジション」を決めたら、あとは一生そこから出てはならない有形無形の圧力を「自分らしさ」という呪符が生み出している・・・

 自分らしさを主張しすぎると、望んでいたはずの自由が手に入るどころか、かえっていつの間にか用意されていた「居場所」に押し込められてしまうのである。勝手に自分が決めつけられ、望んでいなかったはずの状況を自分が求めたものと錯覚してしまうのだ。

 実はこの現象は、以前の記事『天気の子』から読む-第四話において考察した、新自由主義=ネオリベラリズムという社会情勢と深くかかわっている。今回はネオリベラリズムと「自分らしさの呪い」、そしてフェミニズムの関係を考察してみたい。

・「らしさ」と「承認」の政治

 政治学者でフェミニズム理論家のナンシー・フレイザーによると、社会主義のソビエトが崩壊した冷戦後の世界では、経済・社会的な問題が忘れ去られ、文化的な問題としての「アイデンティティの承認」だけが政治の課題とされるようになったという[2]。つまり社会の貧困や経済的不平等が軽視され、女性や有色人種、LGBTQ+といった社会的弱者たちは、人々の価値観や意識の上で対等に扱われさえすれば問題ない、とされたのである。

 先にあげた内田樹の言葉はこう続いている。

ずっと「自分らしく」あり続けることがこの社会の中に居場所を得て、社会的承認を得るための必須の条件になった。
...アクターの振る舞いが絶えず変化すると、システムの制御が難しくなる。だから、システムの管理コストを最小化するために、人間たちは「成熟するな」という命令を下されている。...生産性を上げたり、効率的に働いたりすることは構わない。でも、自分に割り振られた「分際」から踏み出すことは許さない。

 自由なものであるはずの「らしさ」が、社会的な承認を得るため、社会に受け入れられるための条件になっているとは、一体どういうことなのだろうか。以下では、フレイザーの言う「承認」を軸として「自分らしさの呪い」の起源をたどってみよう。

・福祉国家の倫理と新自由主義の精神

 「承認」がキーワードとなっていく冷戦後はまた、ネオリベラリズムが世界中に広まっていった時代でもある。ネオリベラリズムとは「個人の選択の自由」を強調し、政府が余計な介入をせず市場にすべてを任せれば経済はうまくゆく、という思想である[3]。その背景には、20世紀前半から戦後にかけて主流であった福祉国家への批判がある。

 1930年代にアメリカのルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策を皮切りとして、不況や貧困・失業から人々を救うために労働組合の合法化や社会保障制度の実現が各国で進んでいった。このような福祉国家は家族や経済の管理、市場への介入を積極的に行い、民衆が相互に依存しあって生きているものとしての社会を重んじた。国家の責任で社会保険や社会福祉を整え、市場から「社会的なもの=人々の間の相互依存関係」を守ろうとしたのである[4]。
 一方で福祉国家は、夫が働き妻が家事を担うという性別分業を称揚して女性の抑圧を生む側面を持っていたが、貧困・失業の撲滅を掲げて富と所得の再分配を重視するものでもあった[5]。

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[図1]福祉国家と新自由主義(ネオリベラリズム)

 この福祉国家に対し、ネオリベラリズムは国家による市場への介入を否定的に捉え、個人や企業が自由に多様な選択ができるよう市場における規制の撤廃と自由競争を促す。1980年代にイギリスでネオリベラリズムを押し進めたサッチャー首相は「社会なんて存在しません。存在するのは個人としての男女、そして家族だけです」と述べたが[6]、この言葉に象徴されるように、ネオリベラリズムは社会的な相互依存関係を軽視するのである。

 このシステムの中では、個人もまた周囲との競争へと駆り立てられる。
「自分の欲しいもの、やりたいこと(=「自分らしさ」)を、自分自身で決めて、自らの力で選び取れ!」
 個人で責任を負う限りにおいて決定と選択の自由を与えられる、それがネオリベラリズムの精神文化である[7]。
 このような「自由」は諸刃の剣である。自分で選べる代わりに、選んだ結果は全て自己責任とされる。「存在するのは個人と家族だけ」であるから、セーフティネットとしての労働組合や社会保障は切り崩され、集団を失った個人はバラバラになって反目し合う。たとえ競争に負けて失業や貧困に陥ったとしても、誰も助けてはくれない。

・新自由主義とポストフェミニズム/リベラルフェミニズム

 ネオリベラリズムにおいては、フェミニズムなどの社会運動もまた歪められてしまう。

 前回の第五話でまとめた第二波フェミニズムは、専業主婦の妻・母からなる家族を模範とするような価値観を批判し、押し付けられた性別分業を改めようとするものであった。このような価値観、性別分業は、福祉国家において特に強められていたものでもある。

 では、福祉国家に対立するネオリベラリズムは、フェミニズムの追い風になったのだろうか。
 この問いに対しYesと答える立場は、「ポストフェミニズム」と呼ばれている。1960年代からの第二波フェミニズムにより、20世紀末までに確かに多くのものが勝ち取られた。「女らしさ」のステレオタイプは薄れ、女性の教育への権利、男性と対等な職に就く権利といったものが、完全ではないにせよ実現した。
 この成果を踏まえて「フェミニズムはもう必要ない」とみなすのが、ポストフェミニズムである。ネオリベ的な価値観の下では、社会集団が否定され、男であっても女であっても「個人」とみなされるが、そのような考え方がフェミニズムを不要としてしまうのである。より詳しいポストフェミニズムの定義は以下になる[8]。

ジェンダーに関わる問題が、「女性」あるいは「男性」の問題としてではなく、個人の責任において向き合うべき問題とされる時代状況
...女性たちは異性愛主義的な家族とジェンダーとのくびきからも、苦役としての労働からも解放され、アイデンティティと結びついた「やりがいのある仕事」に勤しんでいるようにも見える。同時に、そこでは「母であること」とポストフェミニストであることの矛盾も、充分な支払いを受けていないケア労働者の困窮も「わたし」の問題として個人化されてしまっている。

 このポストフェミニズムと深い関係にあるのが、Facebook社の最高執行責任者であるサンドバーグに代表される「リベラルフェミニズム」である。リベラルフェミニズムは、ポストフェミニズムと違っていまだ存在する性差別を問題視し、女性の解放を志向する。だがやはりネオリベラリズムの個人主義と相性が良い。
 リベラルフェミニズムは、女性が自己を確立して能力を存分に発揮すること=女性の活躍・成功を重視する。だがネオリベラリズムが支配的な状況においては、「女性の成功」とは市場における競争に参入し、そこで生産的に働いて国家に貢献することを意味するのである。

・日本の「女性活躍」

 日本では、2010年代に自民党主導で「女性活躍」が謳われた。しかしその内実は、まさにネオリベラリズムに歪められたフェミニズムであった。
 前回見たように、日本の女性は依然として男性よりはるかに多くの時間を家事労働に割いている。そのような現実を無視して「女性活躍」を推進することは、「男性は仕事、女性は家事も仕事も」と、これまで以上の負担を女性に押し付けることに他ならない。

 これほど厳しい条件の中で、本当に成功できる人などごく一握りである。日本では「ダイバーシティ」という耳障りの良い言葉とセットで女性活躍が語られてきたが、市場で成功をつかんで輝く数少ない女性たちの陰で、多くの「普通の女性」が不可視化され、自己責任の口実で切り捨てられているのではないだろうか[9]。
 実際、従業員に占める非正規雇用の割合は男性では二割なのに対し女性は六割とはるかに多くなっている。以前からの家事労働に加えて、低賃金で不安定な仕事をこなさなければならない女性が、益々増えているということである。
 2020年のコロな禍では女性の自殺が急増したが、これは女性にケア労働やをはじめとした過剰な責任をなすりつけてきた結果であるのかもしれない。

・新自由主義は差別をなくす?

 個人の(選択の)自由を称揚するネオリベラリズムは、一見すると多様性を重んじているように思われるかもしれない。実際に提唱者の一人である経済学者のフリードマンはこう述べている[10]。

たとえばパンを買う人は、小麦を栽培したのが共産党員か共和党員か、民主主義者かファシストかなど気にしない。…黒人か白人かも気に留めないだろう。この事実から、人格を持たない市場は経済活動を政治的意見から切り離すこと、…政治的意見や皮膚の色など生産性とは無関係な理由による差別を排除することが分かる。

 しかし上の「女性活躍」の例に見たように、かえってこれまでの差別を不可視化して維持する場合の方が多いのではないだろうか。少なくとも、差別を受けないのは「市場に適応できる限り」という条件を満たした場合だけである。市場に適応できない者への差別は依然として存続し、彼ら彼女らは差別と「自己責任」とされる貧困とで二重に苦しむことになる。日本でネオリベラリズムが本格化したのは2000年代前半の小泉政権による「構造改革」からとされるが、その後も女性の政治家は増えず、男女平等の国際ランキングは年々低下している[図2]。

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[図2]日本のジェンダーギャップ指数総合順位の推移

 欧米におけるリベラルフェミニズムへの批判も、白人女性が「活躍」する裏で、移民や有色人種の女性に家事・ケア労働を押し付けて差別を助長してきたことを指摘している[11]。
 さらに「成功した女性」というイメージの中には、依然として身体的・性的魅力、他人へのケアといった伝統的な「女らしさ」が根強く残っており、女性たちは「美しく、明るく、なおかつ自律して能力を発揮できる」という無理難題を背負わされている[12]。このように女性が「家事も仕事も成功する」のを求められる状況では、有色人種女性のほか、レズビアンやトランス女性を含む「女らしくない」とみなされる人々や、主体的なアイデンティティを確立できず、市場での競争に追いつけない女性たちの両方が排除されるのである。

・新自由主義の起源

 ネオリベラリズムの思想的起源は、18世紀のアダム・スミスに代表される自由主義にさかのぼる。本来、他者への親切や共感よりも自己の利益を優先するような利己主義は、忌むべき悪徳されていた。倫理と利他主義を重んじるこの価値観を180度反転させたのが、思想家のマンデヴィルである。彼は著書の『蜂の寓話―私悪は公益なり』において、利己的な欲望と利益追求が社会全体の幸福につながるのだと論じた。


 この考えは後にアダム・スミスの「市場の見えざる手」と結びつき、個人が市場において合理的に自分一人の利益を追求することで、自ずと全体の利益がもたらされるという思想が形成された[13]。ここに、人間は自らの利害を合理的に計算し、自己利益の最大化を目指す存在だという人間観=ホモエコノミクスが称揚されるようになるのである。

 ネオリベラリズムにおける度を越えた個人主義=集団の軽視と自分の欲望を満たすための他人との競争は、このホモエコノミクス的な価値観を前提としている。他者への優しさ、思いやりよりも自分の欲望と利益を第一とするような文化の中では、人々は社会集団よりも個人の利害に基づいて行動するようになり、周囲に対する不信がはびこる。
 人々の相互依存関係で成り立つ社会を否定するのが、ネオリベラリズムの特徴の一つであった。ネオリベラリズムが支配する状況で生きる人々は、自ら集団から自己を切り離して個人となり、社会集団に対して敵意を向けるように仕向けられるのである

 冒頭にあげた『黒い羊』という曲では、「自分らしさ」を脅かすように見える集団=「白い羊」に反発する個人の激しい葛藤が描かれている。自由を望むことは決して悪いことではない。けれどそれが周囲との不和を生むように感じられるとき、自由を望む「僕」は次第に周りに対して嫌悪を抱くようになる。

 このMVを見ていて痛々しく感じられるのは、おそらく「黒い羊=僕」が周囲と敵対してしまうことを望んでいないからだ。

そうだ 僕だけがいなくなればいいんだ
そうすれば 止まってた針はまた動き出すんだろう?

 「自分らしさ」への望みと自己嫌悪が混ざり合っているようにみえるのは、自由を願う切実な想いが時にかけがえのない人々のつながりを絶ってしまうことに自覚的であるからではないだろうか。

・『黒い羊』は『角を曲がる』

  最初の問いに戻りたい。今回の稿では、「らしさ」をめぐって政治と社会の歴史的な変遷を追ってきた。それによって、デモクラシーやフェミニズムを支えてきたはずであった「らしさ」が、ネオリベラリズムに歪められることでかえって自由を奪う「らしさの呪い」となってしまうことがわかった。

 「市民の平等」というデモクラシーの理想と不可分のフェミニズムは、女性が「自分らしく」生きることで男女平等を目指してきた。しかしネオリベラリズムによって女性たちが個人としてバラバラにされると、市場で生産性を上げて自己実現を果たす「成功する女性」の陰で、多くの「普通の女性」が排除されていった。それは「非正規労働者」をはじめとした市場の競争に追いつけない人々や、ますます苛酷になるケア労働を担う主婦やマイノリティ女性たちであったのである。

 そして、成功する女性もまた引き裂かれている。一方では性的魅力・笑顔とケアといったような「女らしさ」を期待され、もう一方では利己的に才能を発揮して市場に貢献するネオリベ的な「自分らしさ」を要求される。このような「らしさ」を体現できなければ、社会に受け入れてもらえない。用意された居場所で何とか踏ん張っているうちに、要求に応えられず切り捨てられてゆく他の女性たちは忘れ去られてしまう。

 自由を求めていたはずの彼女は、「らしさ」という隘路にはまって引き裂かれる。本当の自分を見せたいと思っても、周りがそれを許さない。そうして自分を殺し続けて、暗い夜を一人さまよい泣いている。

 センターの平手友梨奈がソロで出演した楽曲『角を曲がる』は、まさしくこれまで述べてきたような「らしさの呪い」に引き裂かれた誰かに向けられているのではないだろうか(以下、歌詞を一部抜粋)。

らしさって一体何?
あなたらしく生きればいいなんて 人生がわかったかのように
上から何を教えてくれるの?
周りの人間に決めつけられた 思い通りのイメージになりたくない
そんなこと 考えてたら眠れなくなった
だからまたそこの角を曲がる
本当の自分はそうじゃない こうなんだと
否定したところで みんな他人のことに興味ないし…
えっ なんで泣いてんだろ?
だって近くにいたって誰もちゃんとは見てはくれず
まるで何かの景色みたいに映っているんだろうな
フォーカスのあってない被写体が泣いていようと睨めつけようと
どうだっていいんだ
わかってもらおうとすればギクシャクするよ
与えられた場所で求められる私でいれば嫌われないんだよね?
問題起こさなければ しあわせをくれるんでしょう?
らしさって一体何?
あなたらしく微笑んでなんて 微笑みたくないそんな一瞬も
自分をどうやれば殺せるだろう?
みんなが期待するような人に 絶対になれなくてごめんなさい
ここにいるのに気づいてもらえないから
一人きりで角を曲がる

 「らしさ」とは何か、自由とは何か。
 おそらく、一人きりで抱えて答えの出るような問いではない。「しあわせ」になるためには、息を吸ってもう一度周りを見渡して、忘れ去れた「社会的なもの」へと手を伸ばさなければならない。

<参考>

[1]内田樹『サル化する世界』文藝春秋 2020
[2]フレイザー, ナンシー『中断された正義――「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察』仲正昌樹監訳 御茶の水書房 2003
[3]フリードマン, ミルトン・フリードマン, ローズ『選択の自由―自立社会への挑戦』西山千明訳 日本経済新聞社 1980年
[4]藤井達夫『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』集英社新書 2021
[5]服部茂幸『新自由主義の帰結』岩波書店 2013
[6]河野真太郎「家族が「贅沢品」になる時代……誰が“個人”を守るのか?」現代新書 2019
[7]河野真太郎『戦う姫、働く少女』堀之内出版 2017
[8]ジェンダーと労働研究会編『わたしたちの「戦う姫、働く少女」』堀之内出版 2019
[9]水無田気流『多様な社会はなぜ難しいか』日経BP 2021
[10]フリードマン, ミルトン『資本主義と自由』日経BPクラシックス 2008
[11]アルッザ, シンジア『99%のためのフェミニズム宣言』 惠愛由訳 人文書院 2020
[12]バジェオン, シェリー「成功した女性性の矛盾」芦部美和子訳『現代思想三月臨時増刊号「フェミニズムの現在」』青土社 2020
[13]セドラチェク, トーマス『善と悪の経済学』村井章子訳  東洋経済新報社 2015


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