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本が読まれないなら、あなたがもっと本を読めばいいじゃない

パーソナルコンピュータの父といわれる計算機科学者、アラン・ケイはこう言った。
「未来を予測する最善の方法は、自らそれを創り出すことである」と。

未来は読めるものじゃない。とある研究で、専門家といわれる人達が「間違いなく起こる」と言ったことが25%で起こらず、「ほぼありえない」と断言したことが15%の確率で起きたという。そもそも専門家たちの意見はそれぞればらばらだったらしい。

読めないのなら、未来の予想なんて不毛だ。そして不確定なら、自分のありたい未来を目指す方が、よほど確実性があるし、「お先真っ暗だな……」と鬱々と過ごすよりは健全だろう。

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これは文化にもいえるのではないだろうか。

たとえば本文化だ。
娯楽の多様化、あるいは無料化、さらに短縮化が進むにつれ、読書離れは顕著になった。それにつれて出版産業も斜陽になっていった。これだけ娯楽が多くなったのだから、本やテレビしかなかった時代に比べたら、人々がそれらに使う時間もお金も減るのは当然のことだろう(人の可処分時間も可処分所得も限られているのだから)。

しかし、それは個人の趣味嗜好にとって何か関係があるのだろうか。
読む人が少なくなったから自分も読まないのか? 全体として売れなくなったから書かないのか?
それでやめるくらいなら、そもそもその程度のものだったということなのではないだろうか(もちろん何が好きで、何を優先すべきかは人それぞれなので、本を優先すべきという話ではない)。

「未来を予測する最善の方法は、自らそれを創り出すこと」
であれば、本文化が衰退していて、そんな未来が嫌なら、そうでない未来=人々が楽しんで本を読み書きする時代を創り出せばいい

時代というと言い過ぎかもしれないが、いち文化として細々とでも残していくことは個人にでもできるのではないだろうか。
幸い本は一人で読めるし、一人で書けるものだ。誰かが書いて、誰かが読めば、本文化はなくならない。

何かを味わって、何かに取り組んで、何かの良さを語る。
それが未来を創ることに繋がっているのだと思えば、少なくとも「お先が明るく」なりはしないだろうか。


その分活字を取り込んで吐き出します。