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ショートショート いそらの音

「これから、よろしく。」
そういって手を差し伸べてきた男は整った顔立ちをしていた。色白の肌。人好きのしそうな作り笑い。いかにも軽薄そうだった。手をとると、当然のように反対側の手が私の肩に乗った。振り払った。

いずれ慣れるだろう。歌や楽器と同じだ。気持ちなど、後からついてくる。
琴を弾けば母が喜ぶ。和歌を作れば父が喜ぶ。この男と結婚すれば、両方喜ぶ。結構ではないか。

白無垢は重くて暑い。祝詞は退屈だった。ああ、こんなものかと思った。御伽噺とは違う。いや、違うから、御伽噺があるのか。

源氏物語が好きだった。特に夕顔。写本は値がはったが、それが唯一、私が親にねだったものだ。
夕顔のような儚げな女、光り輝く貴公子、忍ぶ逢瀬。恋とはどういうものだろう。
夜中に出る悪霊。夕顔の花は命を落とす。
遠く六条御息所で、もう一人の女が目を覚ます。

恋の熱情はありふれている。理解できないほどではない。私は子犬とじゃれるのが好きだ。秋の紅葉が好きだ。父と母が、笑いあうのを見るのが好きだ。

けれど、悪霊になるほど好きになるとは、どういうことなのだろう。物語を何度も、繰り返し読んだが、わからなかった。嫉妬の業火にやかれてもいいと思うほどの恋など、あるのだろうか。

男の手が腰に回った。睨んで、引っ込めさせた。
「あちらに、うつりますよ。」
優しそうな笑顔で誤魔化された。女慣れしている。
御釜祓は違う部屋で行うのだという。角隠しが邪魔で、立ち上がるときに少しふらついた。男の手が私の腰にもう一度伸びて、支えられた。舐めるように微笑みかけられた。

別の間に移動して、また、長い祝詞。
祝い事の占いなど、良い結果しかでないに決まっている。
古式ゆかしい、吉備津の釜で湯を沸かす。
ぼこぼこと、盛大に音が鳴ればこの縁談は吉祥である。夫婦は末長く幸せになる。
ことことと、小さい音しか鳴らなければこの縁談は凶祥である。行く末に不吉な何かがある。
小さい頃、一人で酒蔵で遊んだことを思い出す。大樽に耳をつけると、中からこぽこぽと麹がなく音が聞こえた。とても小さな音だったが、私はそれがかわいらしくて好きだった。特別大きな音が鳴らなくてもいい。物語のような波乱など訪れない、凪の人生が私にはお似合いだ。

静かになった。
祝詞が終わったのだ。
皆の顔がだんだんと青ざめていく。

釜は、ならなかった。ことりとも。

滅多にない凶兆。無神経な親戚のささやく声が聞こえた。
夫婦の凶兆とはなんだろう。
隣の男を見た。青ざめていた。張り付いた作り笑顔の下が透けて見えた気がした。私の視線に気づいて、また笑顔を貼り直した。私にささやいてくる声が震えている。
「占いは、占いですよ。」
手を伸ばして、男の頬にふれた。男の作り笑顔がもう一度剥がれかけた。
不吉な何かは、私の身を焦がしてくれるだろうか。
見てみたい。
物語のような、己の身を焦す何か。

「よろしくお願いします。正太郎さん。」
私は言った。心からの笑顔を男に向けた。

ショートショートNo.84

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